慶応三年(1867年)に日本と通商条約締結国五ヶ国との間に結ばれた、「兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極」により、北は旧西国街道、西は鯉川、東は旧生田川、南は海岸に囲まれた区域を外国人居留地とすることが決まった。
外国人居留地には、幕末に日本と通商条約を結んだ米英仏蘭露の五ヶ国の人が居住可能となった。商館や領事館、ホテル、教会など、西洋の建物が立ち並ぶ街が出来た。
神戸市立歴史博物館には、明治時代中期と昭和初期の旧居留地の模型が展示されている。
当時外国人には日本の土地の所有は認められておらず、居留地の土地は、政府が競売に付した土地を落札した者に半永久的に貸与されるという形を取っていた。
インフラ整備、警察・消防の機能など、居留地の管理・運営は、各国の領事と居留地の住民から選ばれた行事、日本の官吏によって構成される居留地会議に委ねられていた。
居留地には番地が割り振られ、整然とした街並みが形成されていた。
外国人居留地の北西側の36番地から43番地までの一角が、現在大丸神戸店が建っている場所である。
大丸神戸店の建物は、昭和初期の建造物を思わせる外観を持っているが、阪神淡路大震災後の平成9年に再建されたものである。
旧居留地に相応しい外観を持つ建物だ。
大丸神戸店の西北に、神戸外国人居留地跡の碑と当時のガス灯が建っている。
ガス灯は、明治初期のものだろう。当時は夕暮れになると、点灯夫と呼ばれる人たちが、街のガス灯に火を点けて回った。
電気が普及するまでの街の風景だった。
明治32年に条約が改正され、外国人の内地雑居が認められて、外国人の移動と居住に制約がなくなると、外国人居留地は廃止された。
現在、旧居留地には、大正から昭和初期に建てられた古いビルディングが多数残っているが、明治時代に建てられた洋館として唯一残っているのが、旧神戸居留地十五番館である。
十五番館は、外国人居留地の15番地に建てられた建物である。現在は、神戸市中央区浪花町15番地に建つ。明治から番地が変わっていない。
当初はアメリカ領事館として使用されたらしい。
明治14年ころの建築で、神戸市内に建てられた異人館の中では最も古い。
木造煉瓦造り2階建、寄棟造、桟瓦葺きで、南側両端にペジメントを付け、コロニアルスタイルの開放されたベランダを持つ。
十五番館は、旧居留地に唯一現存する明治時代の洋館として、平成元年に国指定重要文化財になったが、平成7年の阪神淡路大震災で全壊してしまった。
震災後部材を回収するところから始まった復旧工事には3年かかったが、免震工法を採用して再建され、見事にかつての姿を取り戻した。
十五番館は、現在はレストランとして利用されている。
国指定重要文化財の建物が、現役の店舗として利用されているのは、珍しいのではないか。
十五番館の東側には、明治5年ころに居留地内に設置された煉瓦造りの下水道が展示されている。
当時の世界では、ペストやコレラといった伝染病が流行していたが、下水道と下水処理場の発達が、伝染病の発生を激減させた。
ガス灯だけでなく、下水道も西洋から齎された文明の象徴の一つだ。
神戸には、明治の文明開化の名残が、まだ街のあちこちに息づいている。
明治時代の文明開化や、戦後のアメリカナイズされた大衆文化の出現も、日本の歴史の一面である。
日本には、昔から変わらぬ山河がある。国が破れても山河は残った。この山河がある限り、日本の文化は無くならないだろう。
日本人は、自国の文化は無くならないという自信を持って、これからも新奇なものを受け入れていくべきではないかと思う。