津山洋学

 旧梶村家住宅の西隣りには、津山洋学についての資料館、津山洋学資料館がある。

 津山洋学資料館は、内部の撮影が禁止されている。その内部は、江戸時代の人々が、西洋の文物に触れた時に感じたような、「ハイカラア」なものであった。

 荒俣宏氏の博物学の世界のようだった。

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津山洋学資料館

 さて、洋学とは、江戸時代後期に「西洋の学問」を指した言葉である。

 津山藩からは、この洋学を吸収消化し、日本に紹介した偉大な洋学者が続々と輩出された。資料館では、これら洋学者を様々な資料を用いて解説している。

 津山洋学の祖と呼ばれるのが、宇田川玄随である。

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宇田川玄随

 宇田川玄随は、宝暦五年(1755年)に、江戸鍛冶橋の津山藩邸に生まれた。

 宇田川家は、代々津山藩医の家であった。

 玄随は、元々漢方医だったが、「解体新書」を翻訳した杉田玄白前野良沢大槻玄沢などの蘭学者と交際するうちに、蘭学に感化される。

 玄随は、寛政五年(1793年)に、オランダ人内科医ヨハネス・デ・ゴルテルの西洋内科書を翻訳した、「西洋内科撰要」を出版した。日本初の西洋内科の専門書である。

 その前年、寛政四年(1792年)には、玄随の指導の下、津山の刑場で開臓(今でいう解剖)が行われた。玄随は、西洋の内科書と寸分違わぬ人体の内臓を実見して、さぞ興奮したことだろう。

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津山洋学資料館の図書館

 玄随の養子、宇田川玄真は、初の日蘭辞典「ハルマ和解」を著し、江戸時代のベストセラー医学書「医範提綱」を書いた。

 「医範提綱」は、仮名交じり文で分かりやすく書かれていたため、西洋医学の入門書として重宝され、明治時代になっても、医学校で教科書として使われたという。

 この書が日本の医学に与えた影響は大きく、現在も使われている身体器官の名前には、この書で定着したものがいくつもあるそうだ。

 たとえば「解体新書」では「厚腸」「薄腸」と訳されていたものを、この書で初めて「大腸」「小腸」と言い換えた。また、リンパ腺の「腺」や膵臓の「膵」は、玄真が器官の働きを考えて新しく作った国字である。

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津山洋学資料館

 宇田川玄真の養子、宇田川榕菴は、植物学や化学の研究に打ち込んだ。

 玄真の影響で、薬学を始めた榕菴は、西洋には、薬草だけでなく植物全般の種類や形状を研究する植物学というものがあるのを知って喜び、日本にそれを紹介した。現在使われている「花粉」「繊維」などの語は、榕菴の造語である。

 また榕菴は、化学の研究も深め、天保八年(1837年)からは、日本で最初の本格的な化学書舎密開宗』の出版を始めた。

 今でも使われている「酸素」「窒素」「炭素」「水素」といった元素の名前や、「酸化」「還元」といった化学反応を表す言葉は、このとき榕菴によって作られたものである。

 私はここに来るまで、津山藩が日本の学問の発展に果たした役割の巨大さを知らなかった。新しく物を知るということは楽しいことだ。

 さて、寛政十一年(1799年)に、今の津山市西新町に生まれ、幕末に洋学者として活躍したのが、箕作阮甫(みつくりげんぽ)である。

 津山洋学資料館の隣には、国指定史跡の箕作阮甫旧宅が建っている。阮甫の生家であり、幼少期を過ごした家である。

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箕作阮甫旧宅

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 藩医になり、津山藩江戸屋敷に詰めることになった阮甫は、宇田川玄真に弟子入りした。

 阮甫は、治療よりも得意の語学を生かした翻訳に力を入れるようになり、西洋の医学や語学、地理学、歴史学、宗教学などの書物を続々と翻訳出版した。

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箕作阮甫

 幕府からその語学力と知識を認められた阮甫は、幕府が設立した洋学者の学問所である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の筆頭教授に抜擢される。

 蕃書調所は、その後、洋書調所、開成所などを経て、明治になって東京大学に発展する。

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箕作阮甫旧宅内部

 阮甫は、ペリーが来航した時、アメリカ大統領の親書を翻訳するなど、日本とアメリカの交渉の場でも活躍した。 

 阮甫は、日本が夜明けを迎える前の文久三年(1863年)に、江戸で死去する。

 幕末には、尊王攘夷派のような国粋主義者が跋扈する反面、このような西洋の学問に打ち込んだ人物も現れた。

 彼らが、かように洋学に入れ込んだのは、観察と実験で客観的な事実を究明する西洋の学問に、それまでの東洋にはない真の学問を見出したからだろう。

 彼らは、この洋学を導入しなければ、我が国の発展はないと実感したに違いない。

 いつの世も、国の発展のきっかけを作るのは、目前の学問に寝食を忘れて没頭する、好奇心旺盛な学者達である。