正平二年(1347年)、京都妙顕寺の大覚がこの地を訪れて法華堂を創建し、長禄二年(1458年)から本蓮寺の寺号を用いるようになった。
本蓮寺の境内は、朝鮮通信使遺跡として、国の史跡に指定されている。
朝鮮通信使は江戸時代を通じて12回来日しているが、その内8回牛窓に宿泊している。本蓮寺には、4回宿泊している。
朝鮮通信使が本蓮寺に初めて宿泊したのは、寛永元年(1624年)で、明暦元年(1655年)が最後の宿泊である。
参道の石段を登ったところにある本蓮寺の山門は、18世紀中ごろの建築である。
4つの柱が支える四脚門であり、山門の左右には、真壁造りの袖壁がある。懸魚の周りの彫刻が美しい。瀬戸内市指定文化財となっている。
山門を潜ると、目の前に見えるのが、本坊である。今の本坊がいつ建てられた何代目のものかは分からないが、かつて朝鮮通信使の宿泊施設として使われていたのは、本坊であっただろう。
本坊の玄関前には、立派な蘇鉄が生えている。
蘇鉄を見ると、南国に来たような気分になる。
本坊脇に、「仁科琴浦先生碑」という石碑が建っている。表面には何も彫られておらず、真っ白のままである。
仁科琴浦(にしなきんぽ)は、宝暦六年(1756年)に備前国邑久郡虫明に生まれた。岡山藩家老の伊木家に仕え、虫明の番所の警備や、倉庫の出納役などを務めた。資性極めて剛直で、清貧に安んじ、恬淡無欲な人物であった。
しかし膂力に優れ、同類から少なからず憚られていた。
ある時、伊木家の倉庫の鍵が破壊され、金品が奪い取られる事件があった。犯人の検挙にはなかなか至らず、世上は騒然とした。
その内、膂力抜群の琴浦の仕業に違いないという讒言があり、琴浦は獄中に繋がれた。
琴浦は「我自ら顧みて疚しからず。天は必ず身の潔白を照覧せられるであろう」と語って、一言の弁解もせず、鉄窓の下に端座し、獄中で300余日の間「荘子」の研究に打ち込み、「荘子解」10巻を執筆した。
琴浦は釈放されたが、心に期するところがあって伊木家を致仕(退職)し、備中の山中を流浪しながら詩情を探った。
その後妻子と共に江戸に遷り、儒学者亀田鵬斎(かめだぼうさい)の私塾を訪ね、肝胆相照らし、交友を深めた。
琴浦は、紀州出身の知人に請われて、紀州に赴き、そこで学問を教えた。
晩年は郷里の備前に戻り、娘の嫁ぎ先の牛窓で文化十一年(1814年)に生涯を終えた。
没後、次男の仁科白谷は、父の死を亀田鵬斎に伝え、碑文の撰を依頼した。鵬斎は大いに嘆いて碑文を書き、白谷に与えた。
白谷は牛窓に戻って石碑に碑文を彫り始めたが、伊木家家臣某のために建碑を妨げられて、亡父追悼の企図は中絶した。この墓石は長らく本蓮寺の竹林中に埋もれていた。
昭和10年に、琴浦を敬慕する地元有志によって墓石は撰文を添えられて本蓮寺境内に建てられた。しかし墓石には未だに琴浦の戒名は刻まれず、仁科琴浦の不遇を伝えている。
私は、森鷗外が晩年に書いた史伝を読むようになって、江戸時代の儒者の事績に興味を持つようになった。このような儒者を祀る石碑を見ると、しみじみと見てしまうのである。
仁科琴浦先生碑からさらに石段を上がると、国指定重要文化財の中門がある。
一見して何の変哲もない門のように見えるが、明応元年(1492年)の建立と伝えられる、歴史ある門である。簡素で均整の取れた門だ。
中門を潜ると、本堂、祖師堂、三重塔、番神堂のある、境内の中で最も歴史ある空間に出る。
三重塔の向こうは海である。
海が見える寺院はいいものだ。反対に海から眺めたら、この本蓮寺の三重塔がよく見えることだろう。