長崎のしし垣

 皇子神社の参拝を終えて、一山越えて三都半島の東岸に出た。

 今までは三都半島の西岸を南下したが、今度は東岸を北上することになった。

 次なる目的地は、小豆島町二面長崎にある「長崎のしし垣」である。長崎のしし垣は、江戸時代中期から後期にかけて、イノシシなどの獣類による農作物被害を防ぐために作られた土壁である。

 自転車を漕いで長崎の集落に近づいた。グーグルマップでは、集落の西側の山中にしし垣があるよう表示されているが、しし垣への登り口が分からなかった。

長崎のしし垣への登り口

 私が路上でスマホを使って、何とかしし垣への登り口を書いた記事を探そうとしているところへ、白い軽四に乗った地元の年配の女性が通りかかり、車の運転席の窓を下して、「何かお探しですか」と親切に声をかけて下さった。

 私が、困った顔をして、「しし垣への道が分かりません。知りませんか」と言うと、女性は目に見えて顔色を曇らせた。

 そして、呆れ顔で、「しし垣なんて、行ったって何にもあらへん」「あんなところ行ってどないするん」「そんな大したもんやあらへん」「第一そんな自転車で行かれへん」「山の上にあるんや」「だいぶ上がらなあかんのやで」と矢継ぎ早におっしゃった。

長崎のしし垣への道

 私が、女性の制止にめげずに、「この辺の山の上にあるんですよね。どこから入ればいいんですか」と尋ねると、女性は遮るように、「そんな道あらへん」「行ってそれこそイノシシでも出たらどないするん」「まあ万里の長城言う人もおるけど」「しし垣やなんて」と留まることなく話し始めた。

 私は女性から道を聞き出すことを諦めて、「何とか探してみます」と返答したが、女性はそれには答えずに、正面を向いて、「しし垣なんて、あんなところ・・・」と独り言を言っておられた。

 私は、試しに長崎の集落のバス停の前にある、山に入って行く舗装路を登ってみた。  

 真っ直ぐ行くと、途中で道が二股に分かれた。長崎のしし垣への案内板が地面に落ちていた。矢印に従って左折したら、果たして「長崎のしし垣 入口」と書いた看板があった。

 女性は教えて下さらなかったが、これが長崎のしし垣に至る道である。

長崎のしし垣入口

 看板の左側の藪の中に入ると、道が続いている。藪の中の道を進むと、左手にしし垣が現れた。しし垣は延々と続いている。

 しし垣の高さは最高部で約1.6メートル、幅約0.6メートル、長さ約200メートルである。山の上にある土壁は、成程ミニ万里の長城と言えなくもない。

長崎のしし垣

 小豆島には、古来から鹿、猪、猿が多数生息し、住民は獣害に悩まされてきた。

 江戸時代中期から、島民たちは獣害から畑を守るために、石や土で垣を作った。

 垣の総延長は約120キロメートルに及んだという。長崎のしし垣は、その遺構の殆どが残っている貴重なものであり、小豆島町指定有形民俗文化財となっている。

長崎のしし垣

 壁は堅そうだが、粘土で出来ているらしい。

 途中、垣に穴が空いている箇所がある。風化してこうなったのだろうが、面白いアクセントである。

しし垣に空いた穴

 しし垣は、畑を獣害から守るために出来たものだが、現在のしし垣の両側は森林である。昔は、このどちらかに畑が広がっていたのだろう。

しし垣

 しばらく進むと、木々がまばらになり、行く手が明るくなった。海が見えた。しし垣の終点は、海が見える絶景ポイントであった。

 花崗岩が崩れて出来た乾燥した地面と青い海のコントラストは、まるでエーゲ海のような風光であった。

しし垣の終点

内海湾

 ここからは、内海湾が見渡せる。Uターンして、逆からしし垣を眺めても、乙なものであった。

しし垣

 私は、年配の女性の心配にかかわらず、猪には遭遇しなかった。

 人が地元の名所を何かと卑下するのは良くあることだ。年配の女性は、長崎のしし垣を卑下していたが、これは全国的に見て珍しい遺構である。

しし垣

 人からの攻撃を防いだ城跡は、日本中に残っているが、獣害を防ぐための土壁など、そうそう残ってはいない。

 いいものを見学することが出来た。

 長崎の集落から、香川県道251号線を北上し、小豆島町石場の集落に入る。

 石場の海岸に、大坂城築城用残石がある。

大坂城築城用残石

 この辺りは、元和六年(1620年)の江戸幕府による大坂城再築の第一期工事の際、石垣用の石材が採石され、積み出された港であった。

 この地は、柳川藩主田中筑後守忠政が採石を行っていた。

 残石には、田中筑後守を表す「田ちくこ」の刻印がある。

「田ちくこ」の刻印

 この「田ちくこ」の刻印は、現大阪城の西外堀南西の櫓台付近の石垣からも確認されている。

 現在の大阪城は、江戸幕府が西国の要として再建したものである。

 小豆島の石が、長年日本の西の鎮守府だった城の石垣を成している。

 そう思うと、石垣を運んだ小豆島の周囲の青い海も、大阪城の一部のような気がする。

小豆島町 皇子神社

 正法寺の参拝を終えて、レンタサイクルで更に南に走る。この日のサイクリングで、最も過酷な峠道を越えて、小豆島町神浦(こうのうら)にある皇子神社に向かった。

 皇子神社は、半島状に海に突き出た標高約60メートルの円錐形の小山の中腹にある神社である。

皇子神社のある権現山

 峠を越えて、長い下り坂を自転車で下っていくと、右手の海上にこんもり植物が茂った小山が見えてくる。皇子神社のある権現山と呼ばれる山である。海岸から北に突出する権現山は、権現岬とも呼ばれている。

 皇子神社は、昔は皇子権現と呼ばれていた。

 神浦の集落にやってきて、権現山に近づくと、南側に皇子神社まで至る長い石段の登り口があった。

皇子神社の社叢

皇子神社の登り口

 権現山を覆う林は、皇子神社社叢と呼ばれ、国指定天然記念物になっている。

 全山がほぼウバメガシで覆われ、トベラ、クスドイゲなどが混ざっている。

 山の北側にはイブキの群落がある。林床には耐乾性シダのヒトツバが生えている。

 瀬戸内海海岸植生の代表的な姿が見られる貴重な社叢であるという。

皇子神社の鳥居

 参道の石段を登り始める。なるほど、石段の左右はほとんどウバメガシである。

参道の石段

参道脇のウバメガシ

 参道を真っ直ぐ上ると、ささやかな拝殿がある。

拝殿

 拝殿前から見返ると、かなりの石段を登って来たのが実感できる。

 この日、自転車でアップダウンの道をずっと走って来たので、もう足が限界を迎えていた。

石段を見下ろす。

 拝殿には、「皇子大権現」と「皇子神社」と書かれた扁額がある。

皇子神社の扁額

 皇子神社の今の祭神の名は分からない。皇子権現は、王子権現と同一であろう。王子権現は、熊野十二所権現の内、五所王子と呼ばれる五柱の神々を指している。

 この皇子権現も、熊野信仰が盛んだった平安時代後期から鎌倉時代にかけて、この地に勧請されたものと思われる。

 明治の神仏分離令に伴って、皇子権現は皇子神社に改名させられたようだ。

 拝殿には、明治24年に奉納された家族の無事を祈念する絵馬や、明治38年に日本が日露戦争に勝利した際に、明治天皇と昭憲皇后が先帝の御廟に御参拝した様子を描いた絵馬が掛けられていた。

明治24年に奉納された絵馬

明治38年の絵馬

 地元の人しか目にすることがないこの絵馬が、ネット上に公開されたのは、今回が初めてだろう。

 本殿の背後には、イブキの群落が見える。

本殿

イブキの群落

 イブキを見ると、瀬戸内の島にいることを実感する。

 本殿の脇には、五つの末社がある。五所王子権現を祀っているのではないか。

五つの末社

 ところで、権現山の南西側の崖には、黒い安山岩が、白い花崗岩に漏斗状に貫入している様子が見て取れる場所がある。

権現山南西側の崖

安山岩花崗岩

 安山岩は、日本海が出来た頃、プレートがマントルに沈み込んだ際に、マントルの熱でプレートが溶けたことで生成された岩石である。

 約1300万年前の瀬戸内火山活動でマントルから直に噴出した安山岩が、花崗岩に混ざってこのような景観になったらしい。

 小豆島の表面は、全て花崗岩に覆われているように見えるが、その底には安山岩が混ざっているようだ。

 権現山は、全山溶岩が固まった岩石で形成されている。この乾燥した土地に、ウバメガシやイブキが自生した。

 昔の人は、この権現山の自然に畏れを感じて、皇子権現をここに勧請したのだろう。

如意山正法寺

 誓願寺の参拝を終えて、レンタサイクルで三都半島を南下する。

 また一山越えて、小豆島町吉野にある真言宗の寺院、如意山正法寺に赴いた。

如意山正法寺

山門

 この寺は、祐算上人により、萬治三年(1660年)に開山された。

 現在の建物は、元禄年間(1688~1704年)に増遍上人が再建したと言う。割合新しい寺である。

本堂

 広壮な本堂には、弘法大師を祀っている。

本堂内

弘法大師

 この寺で貴重なのは、大日堂に祀られている木造大日如来坐像と木造二天立像である。両方とも、香川県指定有形文化財となっている。

大日堂

大日堂の蟇股の彫刻

 大日堂内陣中央には、智拳印を結んだ金剛界大日如来坐像が安置され、その左右に持国天多聞天の二天立像がある。

 二天立像の前に高野槙が供えられてるので、二天立像は見えない。

木造大日如来坐像と木造二天立像

 木造大日如来坐像は、像高32.8センチメートルで、檜の一木造りである。細身の条帛や薄い衣文の彫刻が古式であり、10世紀末の制作と言われている。

 10世紀末というと、「源氏物語」が書かれた頃である。

木造大日如来坐像

 正法寺よりも歴史の古い像である。香川県下でも有数の古仏だ。

 そんな古い像が、どんな由来で、この小豆島で伝えられてきたのか。興味が湧くところである。

 脇仏の持国天多聞天も檜の一木造りである。武器と鎧に身を飾った粗豪な造りで、11世紀末か12世紀初頭に地方で作られた像と見られている。

大日堂に掲げられた大日如来の絵

 私は、金剛界大日如来真言、「おん あびらうんけん ばざらだとばん」をここで唱えた。

 真言は、人が口にするまでもなく、この宇宙の始まりから終わりまで、常に響き続けているのかも知れない。 

 古仏を目に納めて満足して寺を後にした。

 さて、自転車でもう一山越えなければならない。

 峠道の途中、土庄から池田まで一望できる場所があった。

池田湾の風光

池田方面

土庄方面

 あの土庄からここまで自転車で来たとは、我ながら信じ難い。

 海からの風を感じながら、先を急いだ。

小豆島町 誓願寺 後編

 誓願寺の境内には、そう古くはないが立派なシンパク(イブキ)がある。

 香川県の保存木、誓願寺のイブキである。

シンパク

 なかなか樹勢のある良木である。

 このシンパクの奥に、庭園があり、その上に阿弥陀堂が建つ。阿弥陀如来立像を祀っている。

庭園と阿弥陀堂

庭園

阿弥陀堂

唐破風下の彫刻

 唐破風の下には獅子の彫刻があるが、裏側もきっちり彫られた名品である。

唐破風下の彫刻の裏側

 手挟みの彫刻も、鳳凰が細部までよく彫られている。

手挟みの彫刻

 阿弥陀堂の内部は、阿弥陀如来立像を中心として、その左右に諸仏を描いた掛け軸がかけられ、その左右に梵字で諸仏諸尊を表した法曼荼羅が掛けられている。これぞまさに密教空間と言うべき空間である。

阿弥陀堂内陣

阿弥陀如来立像

 阿弥陀如来立像の右手には、五色の紐が結び付けられている。この紐が鈴索に結ばれていて、鈴索を握った参拝者と阿弥陀如来との間に縁が結ばれるようになっている。

 阿弥陀如来は、前回の記事で書いたように、人々を自分の人生から解放する存在である。

 阿弥陀如来の向かって右に大悲胎蔵生曼荼羅、左に金剛界曼荼羅の掛け軸がかかっている。

大悲胎蔵生曼荼羅

金剛界曼荼羅

 蓮華台上の梵字一字一字が、諸仏諸尊を表している。真言密教では、梵字は仏が発する真実の文字であり、この文字の中に深遠な哲理を含んでいると説いている。

 大悲胎蔵生曼荼羅は、法身大日如来が様々な姿で発現してこの宇宙を形成しているという、この世界の存在の態様を表している。真言密教の理の側面を表現している。

 金剛界曼荼羅は、発心から涅槃に至る修行者の九段階の心の階梯を表している。真言密教の智の側面を表現している。

 阿弥陀堂の壁には、真言宗で伝持の八祖と呼ばれている、密教を伝えた8人の祖師像が掛けられている。

第一祖龍猛菩薩(左)、第二祖龍智菩薩(右)

 真言密教の経典は、ほとんどが大日如来が金剛薩埵(さった)に真理を説くという形で書かれている。

 大日如来も金剛薩埵も歴史上の存在ではないが、それ故時空を超えた存在である。

 つまり、大日如来が金剛薩埵に教えを説いているという出来事は、遠い過去から遥か未来まで延々と続いている出来事であり、教えを求める現代の我々の心の中でも行われていることなのである。そうとすれば、大日如来も金剛薩埵も、実は自分自身であることが明らかになる。

 第一祖龍猛(りゅうみょう)菩薩は、南印度の南天鉄塔で、金剛薩埵から密教を授かったとされる伝説上の人物である。

 第二祖龍智菩薩は、龍猛菩薩から教えを伝授されたという。ここまでは、伝説上の存在である。

第三祖金剛智三蔵(左)、第四祖不空三蔵(右)

 第三祖金剛智三蔵は、印度出身の僧侶で、龍智菩薩から密教を学び、唐に渡って「金剛頂経」を伝えた。金剛智からは歴史上実在の人物である。

 第四祖不空三蔵は、西域(中央アジア)出身の僧侶で、長安で金剛智から「金剛頂経」系密教を授かり、「金剛頂経」を漢語に翻訳した。

第五祖善無畏三蔵(右)、第六祖一行阿闍梨(左)

 第五祖善無畏(ぜんむい)三蔵は、印度出身の僧侶で、唐に渡って「大日経」を漢訳した。

 第六祖一行(いちぎょう)阿闍梨は、中国出身の僧侶で、善無畏三蔵に師事し、「大日経」の注釈書「大日経疏」を執筆した。

 「金剛頂経」を絵で表したのが金剛界曼荼羅であり、「大日経」を絵で表したのが大悲胎蔵生曼荼羅である。

第七祖恵果和尚(右)、第八祖弘法大師(左)

第八祖弘法大師

 長安の僧侶の第七祖恵果(けいか)和尚は、不空三蔵と善無畏三蔵から「金剛頂経」「大日経」の両部の密教を学び、統合大成した。恵果和尚は、唐の皇帝も帰依した高僧である。

 第八祖弘法大師空海は、我が国から唐に渡り、長安青龍寺で恵果和尚に師事し、両部の密教の全てを伝授され、日本に持ち帰った。

 印度と中国では密教は滅んだので、正系の密教は、空海のおかげで日本に残ることになった。

千手観音菩薩

 先ほど書いたように、密教の世界は、実は心の中で展開されている。ここで言う心とは、個人の内面という狭い概念ではなくて、この宇宙の心とでも言うような広いものである。

 個人であっても、宇宙の心を自分の心とすれば、実は自己の心の中で今の瞬間も大日如来が金剛薩埵に教えを不断に説いていることが分かってくる。「大日経」の冒頭に出てくる、大日如来が金剛薩埵に教えを説いているとされる如来加持広大金剛法界宮は、実は自己の心の中にあるのである。どんな壮大で煌びやかな寺院も、自己の心の中の金剛法界宮には敵わないのである。

 真言八祖が教えを伝承してきたのも、実は自己の心の中の出来事と変わらないのである。

 こうして大日如来は、時空を超え、姿や形を変えて、この世界が実体がない虚空に等しいものであることを不断に説いているのである。

 さて、誓願寺の西隣には、誓願寺の鎮守と思われる妙見宮がある。

妙見宮

妙見宮拝殿

妙見宮の扁額

妙見宮本殿

 妙見宮には、北極星を神格化した妙見大菩薩が祀られている。これも仏法の守護神である。

 心の中の金剛法界宮を、きっと今も妙見大菩薩がお守りして下さっていることだろう。

小豆島町 誓願寺 前編

 明王寺の参拝を終え、レンタサイクルで南に走る。

 小豆島の南側にある三都半島をママチャリでほぼ一周するという過酷なポタリングが始まった。

 山道を上っていくと、池田湾を眼下に見下ろす絶景ポイントがあった。

池田湾

 まず一山越えて、小豆島町二面にある真言宗の寺院、誓願寺に辿り着いた。

 ここは、国指定天然記念物の誓願寺の大蘇鉄があることで有名である。

 入口に蘇鉄を梵字で書いた看板があった。

梵字の看板

誓願寺

 山門の手前に奥之院大師堂がある。弘法大師空海が祀られている。こういう素朴な大師堂を見ると、弘法大師は未だに民間信仰の中に生きていると感じる。

奥之院大師堂

大師堂に祀られた弘法大師

 山門は、二階に梵鐘が下げられた鐘楼である。

 華頭窓の上の獅子頭の彫刻が印象的だ。

山門

獅子頭の彫刻

山門二階の背面

 山門を潜ると、境内の中央に、天然記念物の誓願寺の大蘇鉄が場所を占めている。圧倒的な存在感だ。

誓願寺の大蘇鉄

 この蘇鉄は、行基菩薩御手植えの蘇鉄とも、小豆島の廻船業者塩屋金八が元禄年間(1688~1704年)に長崎から持ち帰り、寄進したものとも伝えられる。

 先ほど紹介した山門も、難破した塩屋金八の船の部材から作られたと言われている。

天然記念物誓願寺蘇鉄の碑

 奈良時代と江戸時代では大きな違いであるが、これ程の巨大な蘇鉄ならば、江戸時代より前に植えられたように思える。

 この蘇鉄は、雌株で、宝珠のような花をつける。また赤い実を落とすらしいが、実には毒があるので食べられない。

蘇鉄の花

 樹勢も強く、根本から五本の太い枝に分かれ、そこから更に無数の枝に分かれている。

 強大な生命力を感じさせてくれる大蘇鉄である。

蘇鉄の根本

枝分かれする蘇鉄

 あまりにも巨大であるため、多くの石柱が枝を支えている。

 蘇鉄の存在感が大きすぎて、寺院の参拝を忘れてしまいそうだ。

 大蘇鉄の奥に誓願寺の本堂がある。

本堂

 本堂には、弘法大師空海が祀られている。

本堂内陣

弘法大師

 境内には、「同行二人 有難や 行くも帰るも悩るも 我は大師と二人連なる」と刻まれた石碑が建っている。

同行二人の碑

 同行二人(どうぎょうににん)は、四国八十八箇所霊場巡りをする人が常に心に思い浮かべる言葉である。

 一人で遍路をしていても、常にお大師さんが離れずに一緒に歩いてくれているという意味である。

 私は、柳宗悦の「南無阿弥陀仏」を読んでから、念仏を唱えることの意味を知って、一時行住坐臥念仏を口ずさんでいた。

 念仏には、自分の人生を阿弥陀仏に任せるという意味がある。一度南無阿弥陀仏を唱えたら、自分の人生は自分の人生ではなくなる。阿弥陀仏に預けた人生になる。そうすると、気持ちが楽になり、むしろ目前に自由な境地が開けてくる気がする。南無阿弥陀仏は、かび臭い宗教的な言葉ではなく、自分から自分を解放する自由のための言葉なのである。

 ところが阿弥陀仏は、あくまで架空の存在である。架空の存在に自分の人生を預けるには、相当な空想力が必要になる。

 そこで真言宗の信徒である私は、南無阿弥陀仏の御名号の代わりに、同じような意味で南無大師遍照金剛という御宝号を唱えてみることにした。

 大師と遍照金剛は、空海のことである。弘法大師空海は、歴史上実在の人物である。伝説では、弘法大師は承和二年(835年)に高野山奥之院で生身のまま禅定に入り、現在も奥之院で生きたまま衆生のために祈り続けているとされている。今でも高野山の僧侶は、一日二回、奥之院に弘法大師の食事を運んでいる。阿弥陀如来よりは、弘法大師に自分の人生を預けると思った方が、イメージしやすい。

 ところが、御宝号を唱えてみて、気づいたことがある。仏教は、この宇宙に存在すると思われている全てのものに実体がないことを説いている。真言密教弘法大師もそう教えている。

 南無大師遍照金剛と唱えて、自分の命をお大師さんに預けようと思ったところで、預ける自分の人生にはそもそも実体がなく、預けられる弘法大師にも実体がないのである。

 そう考えてみて、同行二人には、別の意味があることに気づいた。遍路を歩く自分もなく、一緒に歩いてくれるお大師さんも実はいないのである。遍路道も人の一生も、最初からないのである。そこに気づくことで、人は弘法大師の考えに近づくことになる。それが同行二人の真の意味であり、人生の実相である。

 だが、朝目を覚ますと、自分の周りには世界があるように見えるし、日々の仕事や自分の家族もあるように見える。

 本当はなにもない世界のなかで、現象として目の前に展開するかのように見える「人生」にどう処していくか、お大師さんはそれを自分で考えるよう教え諭してくれている気がする。

小豆島町 明王寺

 長勝寺の参拝を終え、同じく小豆島町池田にある真言宗の寺院、明王寺を訪れた。

明王

 明王寺は、正安三年(1301年)に阿闍梨弘山上人が開創したと伝えられる。

 本尊は、弘法大師作と伝えられる不動明王像である。

本堂

 本堂内は拝観できなかった。本堂の脇に、鮮やかな紅梅が咲いていた。

 桜もいいが、梅もいいものだ。めでたい気分にさせてもらえる。

本堂脇の紅梅

 本堂の隣には、毘沙門堂があって、毘沙門天の木像が祀られている。

毘沙門堂

毘沙門天

 この毘沙門天像は、行基菩薩が四国行脚の途中に小豆島に立ち寄って彫刻したものと伝えられるが、これも伝説上の話であろう。

 明王寺境内にある建物で、最も古いものは釈迦堂である。

釈迦堂

 釈迦堂は、大永二年(1522年)に棟上げされ、天文二年(1533年)に完成した。

 四国の守護大名細川晴元が建立したものである。

 木造瓦葺寄棟造で、小豆島唯一の国指定重要文化財の建造物である。恐らく、小豆島内で最も古い建物だろう。

釈迦堂

釈迦堂の鬼瓦

釈迦堂

 釈迦堂内陣にある厨子と棟札、23枚残る創建時の軒丸瓦と軒平瓦も国指定重要文化財となっている。

内陣

 厨子に安置されている釈迦如来坐像は、仏師雲慶の作である。

釈迦如来坐像

 厨子は、元々絢爛たる彩色が施されていたと思われるが、今は時代を経て少し黒ずんでいる。

厨子

厨子下段の彫刻

 この黒ずんだ感じが、小豆島の片隅に室町時代が今も息づいている感を与える。

 また、釈迦堂内には、大永八年(1528年)に寄進された軒丸瓦と軒平瓦がある。

軒丸瓦

 軒丸瓦には、龍や雲が陰刻され、寄進された時の銘文が刻まれている。

龍の彫刻

雲の彫刻

棟瓦

銘文

 銘文の中には、己亥と刻まれたものがあった。釈迦堂が建立された年代に最も近い己亥の年は、天文八年(1539年)である。

 瓦が奉納されたとされる大永八年(1528年)と10年以上差がある。どういうことだろう。

軒丸瓦

軒丸瓦の銘文

軒平瓦

 棟札や銘文は、文化財の制作年代を特定する上で、決定的な役割を果たす。

 棟札や銘文に制作年を刻んだ当時の人は、これが後世にそれほど重要な意味を持つとは思っていなかったことだろう。

 記念物の片隅に、何気なく年月日を書き記す事は、後世の人が歴史を大きく見直すきっかけにもなる。

 これは、現代の記念物についても言えるのである。

金陵山長勝寺

 亀山八幡宮と池田の桟敷の間に、真言宗の寺院、金陵山長勝寺がある。

金陵山長勝寺

 長勝寺の境内は、石垣の上に建てられた土塀に囲まれている。土塀の漆喰が剥がれて、下の土がむき出しになっている。

 これがむしろ古い味を出していていい。

石垣と土塀

 石段を上がると納経所がある。納経所の中では、お寺の子供たちが元気に駆け回り、ご婦人が笑いながら声をかけておられた。子供が元気なのはいいことである。

納経所

納経所の鬼瓦

 納経所の鬼瓦を見ると、瓦に梵字の阿字が陽刻されていた。阿字は、本不生という宇宙の哲理を一字で現しているという。

 納経所を過ぎると、左手に無量寿殿という建物がある。無量寿阿弥陀如来の別名である。

無量寿殿

 ここには、長勝寺の寺宝が収蔵されている。

 無量寿殿の前にある賽銭箱が、巾着袋の形をした木の彫刻に嵌め込まれている。巾着袋には、葵の紋が刻まれている。変わった賽銭箱である。

賽銭箱

 無量寿殿の奥には、国指定重要文化財の3体の木造伝池田八幡本地仏坐像がある。池田八幡は亀山八幡宮のことで、本地仏は池田八幡の祭神八幡大神の本体である阿弥陀如来のことである。

木造伝池田八幡本地仏坐像

 これらの坐像は、平安時代末期の12世紀の作と言われている。中央が如来形、向かって左が菩薩形、向かって右が比丘形である。発心して修業し、覚者となる経過を表している。

 この像は、長らく亀山八幡宮御神体として祀られていたが、明治の神仏分離で神社から撤去されることになり、長勝寺が引き取った。ここにも神仏分離の影響が見て取れる。

 左手には、国指定重要文化財の梵鐘がある。

梵鐘

 この梵鐘には、鎌倉時代の建治元年(1275年)の銘が刻まれている。

 ついこの前に書かれたかのようにはっきりした銘文である。鎌倉時代のものとは思えない。

建治元年の銘文

 銘文にもある通り、この梵鐘は元々は瀧水寺のものであった。

 梵鐘は、細長く美しい姿をしている。一度鳴らしてみたいものだ。

 右手には重要美術品の宝篋印塔がある。

宝篋印塔

 この宝篋印塔も、瀧水寺の旧蔵品である。建武五年(1337年)の銘があるという。隅飾りに梵字が彫られている。

 屋内で保管されているためか、細部の意匠まで綺麗に残っている。

 無量寿殿から出ると、美しく咲く白梅が目に入った。

境内の白梅

 思わず、旧暦の新年の空気を大きく吸った。

 無量寿殿から石段を上がると、本堂がある。新しい本堂である。

 本堂内からは誦経する声が聞こえる。堂内は人で満ちている。どうやら法要をしているらしい。

本堂

本堂前の枯山水

 長勝寺には、900年近く前に作られた亀山八幡宮御神体を始め、貴重な文化財がある。

 はるか昔から今まで続く池田郷の歴史を伝えてくれる寺院である。