西求女塚古墳から西に戻り、神戸市中央区脇浜海岸通1丁目にある阪神・淡路大震災記念・人と防災未来センターを訪れた。
人と防災未来センターは、平成7年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災の経験と教訓を継承し、防災・減災の実現のために必要な情報を発信する施設である。
ところで、兵庫県では未だに「震災」と言えば阪神淡路大震災のことを指す。なので、この記事でも震災と書くことにする。
西館の4階の1.17シアターで、震災を映像と音で追体験する「5:46の衝撃」という映像を観た後、震災直後の破壊された町を再現したエリアを通る。
3階の震災の記憶フロアでは、震災に関する様々な展示品を見学出来る。
阪神淡路大震災は、今から28年前に起こった地震である。当時私はまだ21歳だった。
実家は西播磨にあったが、兵庫県外の大学に行っていたので、震災発生時は兵庫県にいなかった。
倒壊したビルや民家、黒煙を上げて燃え広がる神戸市の火災の状況をテレビで見て衝撃を受けた。
当時は携帯電話もあまり普及していなかった時代である。私の家族も、当時携帯電話を持っていなかった。
震災の発生を知ってすぐに実家に電話をかけたが、不通であった。電話がつながったのは、その日の晩だった記憶がある。
震災の後に、携帯電話が急速に普及しだした。携帯電話の便利さが、震災を機に広く認識されるようになったのだろう。
また、建物の耐震基準が変わったのも、この震災がきっかけである。古い学校や役所も、耐震補強工事がなされた。
日本の防災意識は、この震災で格段に上がった。阪神淡路大震災は、日本の防災の歴史の中で、画期となった地震である。それだけ被害が甚大であったとも言える。
こうして展示物や当時の写真を見て感じるのは、震災も歴史上の出来事の領域に入りつつあるということだった。
平成7年と言えば、この後一連のオウム真理教関連の事件が発生し、テレビで連日報道された。
個人的な話だが、この事件は私の進路にも影響を与えた。平成7年は、個人的にも忘れ難い年である。
震災後最初の大学の春休みに、JRの新快速で実家から大阪まで行った。車窓から外を見ていると、明石の辺りから急に屋根の上にブルーシートを張った民家が目に付くようになった。
その光景が広がった途端、乗客皆が歎声を出したような気がした。痛々しい光景であった。
神戸市では、長田区の火災の被害が甚大だった。
長田は、神戸の下町である。人情味あふれる町である。
震災からかなり経ってから、私は仕事を通じて長田出身の女性と話をする機会を持った。その方が住んでいた町は、震災でほとんどが燃えてしまったそうだ。その方の知人も震災で沢山亡くなったとのことだった。
女性はこうおっしゃっていた。「生まれた町もなくなった。知っている人もたくさん死んだ。でもこうして生きているんだから、頑張って生きないとね」
その方は、震災から立ち直り、昔からの夢だった事業を始めておられた。ナイチンゲールのように心の綺麗な方だった。
災害に負けずに立ち上がろうとする気持ちが、町を復興させたのだと感じた。
阪神淡路大震災の後の平成23年3月11日には、東日本大震災が発生した。この巨大地震は、津波による被害と原発事故の発生という点で、災害史に残る地震である。
今後は、南海トラフ巨大地震が発生する可能性が高いと言われている。
確率からすれば、あと30年以内に南海トラフ関連の地震が発生するのは間違いなさそうだ。
地球が活動している限りは、災害をなくすことは不可能だが、災害に備えて準備することは可能である。
人と防災未来センターを見て、自分自身が災害に対する準備らしい準備をほとんどしていないことに気づいた。
この施設は、一人一人に災害に対する備えが必要であることを、改めて教えてくれた。