苫田ダム

 弘秀寺から東に行くと、奥津湖が見えてくる。奥津湖は、苫田ダムが吉井川を堰き止めたことにより出来たダム湖である。

奥津湖


 この奥津湖の下には、旧苫田郡奥津町の中心だった下原地区が沈んでいる。旧奥津町の人口の約4割が住んでいた地区である。

 奥津町は、昭和34年に奥津村、羽出村、苫田村が合併して誕生した。その2年前の昭和32年に、国と県により、治水、生活工業用水、農業用水の確保のため、苫田ダムの建設が計画された。

 奥津町は、誕生してから長年ダム建設反対運動をしてきたが、平成6年に運動は終結した。

 平成11年に苫田ダム建設工事が始まり、平成17年3月に完成した。

 同じ月に、奥津町は、鏡野町上齋原村富村と合併し、今の鏡野町が発足した。

苫田ダム

発電設備

苫田ダムの裏側

 苫田ダムは、堰高74メートル、堤長225メートルで、吉井川水系初の大規模多目的ダムであった。

 ダムは、国土交通省が管理している。ダムの脇に、苫田ダムに関する資料室がある。

苫田ダム資料室のある施設

 苫田ダムの形式は、重力式コンクリートダムというもので、洪水調節だけでなく、上水、工業用水、灌漑用水、流水の正常な機能の維持、発電など、水資源の利用において地域の役に立っているダムである。

苫田ダムの模型

苫田ダムの空撮写真

 苫田ダムは、大雨で水位が上がった時は、水位維持用放流設備から水を放出する。だが雨の量が多すぎて、放水量よりダム湖に入ってくる水量の方が多い時は、ダム上部の非常用洪水吐から水が越流する。

 雨が終わった時は、次の大雨に供えて水位維持用放流設備から水を放出して水位を下げる。

 渇水で水位が下がった時は、ダム下部の常用洪水吐から水を放出して、下流部に水を流す。

 このようにして、苫田ダムは洪水から下流域を守り、渇水時には溜めた水を供給している。

 今ではこのように役に立っている苫田ダムだが、ダムが出来るまでは、奥津湖の下には集落があった。

奥津湖全景

旧下原地区の空撮写真

旧下原地区のジオラマ

 集落には、町役場や小学校、駐在所、郵便局などがあった。

 また、ダム湖に沈んだ地域には、縄文時代から江戸時代にかけての遺構が発掘された久田原遺跡があった。

 久田原遺跡の古墳時代の遺構からは、羽口や鉄滓が見つかった。中世の遺構からは、鍛冶炉群が見つかった。製鉄を行っていた地域だったようだ。

 またその南側の久田堀ノ内遺跡からは、中世の城館跡や、中世の掘立柱建物27棟、土壙墓2基などが見つかったという。

 資料室には、水没前の下原地区の写真が飾られていた。

水没前の下原地区の写真

 これらの町並みがあった場所が、今は湖の底に沈んでいると思うと、深い哀感を覚える。ここに住んだ人たちの哀感は、更に切なるものがあるだろう。

 現在我々が普通に生活している町も、そのまま地中に埋もれて数百年もすれば遺跡として扱われるようになる。

 現代人の生活も、歴史の中の一コマに他ならない。