玄武洞ミュージアム その2

 玄武洞ミュージアム1階には、豊岡杞柳(きりゅう)細工の歴史資料を展示し、製造体験が出来るコーナーがある。

 豊岡杞柳細工は、平成4年に経済産業省から伝統的工芸品に指定された。

豊岡杞柳細工

 杞柳は、古くから豊岡平野の湿地に自生するコリヤナギのことである。

 豊岡平野は、縄文時代には入海であった。地球の気温が下がって海水が引いた後も、泥水まじりの湿地帯であった。

 伝説では、新羅から渡来した天日槍が豊岡平野の水を排出し、豊岡平野を開拓したことになっているが、円山川下流域である豊岡平野は洪水に見舞われやすく、農業生産は安定しなかった。

 そこで地元の人たちは、円山川の河原に自生するコリヤナギを編んで籠を作るようになった。豊臣時代に産業として歩み始めたという。

柳行李を編む

 上の写真は、柳行李を編む状況を再現した展示である。コリヤナギを一晩水に浸して柔らかくし、行李板の上に並べて、柳の株元と枝先を交互にし、間に麻糸を通して織り上げていく。

 寛文八年(1668年)、京極隆盛が豊岡藩主となって、杞柳の栽培、柳行李の製造、販売に力を入れたことで、豊岡の柳行李は全国に知られるようになった。

進物行李や文庫

小間物屋行商行李

 豊岡藩は、コリヤナギの流出や製造技術の持ち出しを禁じて専売制を確立し、伊勢参りや参勤交代に商人を同行し、販路を拡大した。

特製行李手提籠

 明治14年内国勧業博覧会に八木長右エ門が柳行李にバンドを付けた行李鞄を出品し、それ以降手に提げる製品が多くなった。

行李鞄

 豊岡の行李鞄は、欧米にも輸出されるようになった。

 大正時代に宇川安蔵が考案した大正バスケットは、時代を代表する製品になった。

 アメリカ、カナダ、メキシコ、インド、オーストラリア等に数千種類の籠が輸出された。

大正バスケット

 昭和に入って、ファイバー製の鞄が登場した。

ファイバーかばん

 杞柳細工産業は、北但大地震世界恐慌で打撃を受けたが、満州事変、支那事変では軍用行李、飯行李としての需要が出来て、軍用品として数多く生産された。

 戦後は、ミシン加工が始まり、豊岡は杞柳細工だけでなく、日本のビニール製カバンの80%を生産する「カバンの町」になった。

 戦後は、杞柳細工としては買い物籠が多く生産された。

買い物籠

 また、今上陛下が学習院にご入園された際に贈呈された豆バスケットが流行し、学校指定にする学校が相次ぎ、「ナルちゃんバッグ」と呼ばれ愛用された。

ナルちゃんバッグこと豆バスケット

 中国と国交回復後は、中国や東南アジアから杞柳製品が輸入され、豊岡の杞柳細工産業は危機に瀕したが、動物の形をした動物かごや、高級品の花籠、炭斗(すみとり)籠を作るなど工夫をし、生き残った。

花籠、炭斗籠、動物かご

 平成4年に伝統的工芸品に指定されて、今では後継者の伝統工芸士も育成されている。

 皇后陛下上皇后陛下も豊岡杞柳細工製品をご愛用されており、今や日本を代表する伝統的工芸品となっている。

 私は今ZC33Sスイフトスポーツで日帰りで史跡巡りをしているが、いずれ宿泊しながら史跡巡りをするようになった時、柳行李に荷物を詰めてトランクに入れ、旅行をしようかと考えている。