南京町

 海岸ビルヂングの見学を終えて、神戸市中央区元町通、栄町通にまたがる中華街、南京町に行った。

 因みに、南京町という地名はない。あくまで通称である。

 南京町の西端にある西安門から町に入った。

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西安

 

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 1868年1月1日に、欧米五ヶ国との条約に基づいて、神戸港が開港された。条約締結国の人々は、居留地に居住することが許可されたが、条約未締結国の人達は、居留地に住むことが出来なかった。

 日本政府は、東は旧生田川(現フラワーロード)、西は宇治川(現在は暗渠)、北は六甲山麓、南は海に囲まれた区域を雑居地として、そこに条約未締結国の外国人が居住することを許可した。

 清は当時日本とまだ国交を結んでいなかったため、商売などのために中国から日本に渡って来た華僑たちも、雑居地に住みついた。

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南京町の東西通り

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 日本に来た華僑は、雑居地の内、居留地の西側の現在の南京町エリアに居住した。南京町は、昭和初期には商業地として非常に繁盛したようだが、神戸大空襲で壊滅的な被害を受けた。

 しかし、昭和57年ころから、南京町広場や長安門が整備され、現在のような姿になった。

 現在の南京町は、北は元町通、東はフラワーロード、南は栄町通、西は鯉川筋メリケンロード)に囲まれた東西に長い長方形の区域に広がっており、町の中央に十字形に道が通っている。

 真ん中に南京町広場があり、町の東の入口に長安門、西の入口に西安門、南の入口に海栄門、北の入口に一対の獅子像がある。

 私がここを訪れたのは、昨年12月26日で、まだオミクロン株が流行し始める前であった。人で雑踏して大変賑やかだった。

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中華料理屋

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店先の北京ダック

 南京町には、中華料理屋や中国雑貨店、食材店などが軒を連ね、店先でラーメン、水餃子、肉まんやシューマイ、点心などを販売している。
 どれも手ごろな値段でその場で食べることが出来るので、どの店にも行列が出来ている。どこも人、人、人だ。

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点心などのメニュー

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 日本人向けに味付けを変えているのかも知れないが、手ごろな値段で異国の味を体験できるため、多くの人が惹きつけられるのだろう。

 恐らくこの日神戸市内で最も雑踏していたのが、南京町だと思う。というより、毎週末この雑踏だろう。

 人が何よりも食に引寄せられることの証だ。

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雑貨店

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中国の食材

 南京町は、横浜中華街、長崎新地中華街と並ぶ日本三大中華街の一つである。
 かつては、南京町は中華街の一般名称だったが、戦後横浜と長崎は、南京町という名称を中華街に改名した。

 神戸だけは何故か改名しなかった。今では、南京町という名は神戸にしかない。

 南京町は、横浜中華街に比べれば、遥かに規模が小さいそうだが、居住する華僑の数は神戸の方が上だそうだ。

 神戸の華僑の多くは、山手に居住しており、南京町には商業施設しかないため、規模が小さくなっているらしい。

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南京町広場

 町の中心の南京町広場に来たが、ここも人ばかりである。

 私がここを訪れたのは、お昼時ではなく、午後3時ころだった。南京町は、おやつを食べるにも手ごろである。昼でも夜でも、どの時間帯でも人が多そうだ。

 南京町広場の南には、臥龍殿という公衆トイレがある。

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臥龍殿

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 こんな中華風の意匠をしているが、トイレである。平成5年に完成したそうだ。

 臥龍とは、時を待ってやがて飛翔する英雄のことを指す意味の言葉で、「三国志」が好きな人なら知っているだろう。

 中国の旧正月である春節には、南京町でも春節祭が行われ、その際には豊作祈願の龍舞や、駆邪と降福を祈る獅子舞、中国舞踊、太極拳の演舞などが行われるが、臥龍殿には、龍舞に使われる龍の着ぐるみが置かれている。

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龍舞に使われる龍

 この龍が舞うときが、神戸に春が来る時だ。

 ここから南に行くと、南京町の南の出入口の海栄門がある。

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海栄門

 ところで華僑の出身地は、福建省広東省など、華南地方が多いそうだ。

 日本だけでなく、東南アジアなどに分布する華僑を見ると、最初の移民から時代を経て数世代経っても、中国の生活様式や食文化を守っている人が多いように感じる。

 日本人は、移民をしても、すぐ現地に同化してしまう。これはなぜかと考えてみたが、日本人が日本人たる要素が、日本の風土の中にあるからではないか。

 日本人は、日本の風土を離れると、日本人としてのアイデンティティを失うのではないか。日本の宗教である神道と仏教だけでなく、和歌や俳句やお茶などの日本の文化の多くは、日本の風土に分かちがたく結びついている。

 逆に言うと、日本人のアイデンティティは日本の風土の中にあると言えるのではないか。

 確かに桜も紅葉もない地に行って、それでも日本人たり得るのは難しい。外国に神社を建てても、あまり意味がないような気がする。神社は、あくまで日本の風土に棲む神々を祀るためのものだからである。日本の神々が、海を渡るのは考えにくい。

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中国茶の店

 それでは、なぜ華僑は中国人としてのアイデンティティを保ち続けられるのだろう。世界中に離散したユダヤ人は、ユダヤ教を信仰することでアイデンティティを維持し、国を失って約2000年後にイスラエルを再建した。

 中国にはユダヤ教のような強固な理念があるのだろうか。

 答えは分からないが、私は中国の民衆宗教である道教に鍵があるような気がする。

 道教は、黄帝を祖とする中国の多神教で、呪術やまじないを用いる現世利益の教えだ。老荘思想を基盤に据えており、神仙術や気功や太極拳もここから来ている。

 道教は日本の神道と異なって、確かに海を越えても通用しそうだ。

 フラワーロードに面した町の東側の入口には長安門がある。

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長安

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長安門の脚の彫刻

 長安門は、昭和60年に完成した。長安門の脚には、微細な龍の彫刻が施されている。

 確かに、龍や獅子の彫刻は、道教寺院(道教では寺院のことを観という)によくある装飾である。

 町の北の入口には、一対の獅子像がある。こちらは昭和63年に設置された。

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獅子像

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 南京町を訪れて、ふとこれからの日本について考えた。日本は、少子高齢化により、これから否応なく移民政策を取らざるを得なくなるだろう。

 平安時代弘仁六年(815年)に編纂された「新撰姓氏録」という書物は、畿内に住む日本の氏族の祖先からの系譜を集大成した書物だが、取り上げられた1182の氏姓の内、326氏が諸蕃という外国から渡来した氏族であった。全体の3割弱である。

 日本列島に元々人がいなかったことを思えば、日本人は全員移民の子孫であると言える。弘仁年間でも、畿内の氏族の約3割は外国由来の氏族が占めていた。

 日本の成り立ちを説いた「日本書紀」は、日本のナショナリズムの根源のような書物だが、テキストを研究して見ると、「日本書紀」執筆当時の日本人は漢文を自在に扱えなかったため、渡来人が文章を執筆した可能性が高いことが分かった。そうなると、日本のアイデンティティとは何かという問題に立ち返らざるを得ない。

 先ほども言ったように、日本の風土が日本人のアイデンティティを形成する。今まで日本に来た移民たちも、日本の山水に親しむうちに、日本に同化してきた。それがこれまでの日本の歴史であり、これからの日本の姿であろう。