市川喜左衛門の墓 宗形神社

 妙善寺の参拝を終え、岡山市北区芳賀にある市川喜左衛門の墓に詣でた。

 ここは、芳賀にある顕本寺の裏山の果樹園の中にあり、軽トラ1台がようやく通ることが出来る細い道を行かなければ辿り着けない。車で行く事はお勧めしない。

 市川喜左衛門は、天文二年(1532年)、この芳賀の地に生まれ、早くからキリスト教に入信し、大坂の教会で伝道師として活動した。

 しかし慶長元年(1596年)、キリスト教禁圧に踏み切った豊臣政権に捕らえられ、長崎で処刑された。

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市川喜左衛門の墓

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 なぜ喜左衛門は処刑されたのか。

 慶長元年(1596年)、土佐沖で遭難して浦戸に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の水先案内人が、秀吉が派遣した五奉行の一人、増田長盛に対して失言をする。

 水先案内人は、長盛に世界地図を示して、スペイン領が広大であることを自慢した。  

 長盛が、「どうしてスペインはそんなに領土を拡大できたのか」と尋ねると、水先案内人は、「スペインは、征服予定地にまず宣教師を派遣してキリスト教を普及させ、信者が相応の数になった時、軍を派遣し、その国のキリスト教徒を内応させ、たやすく征服する」と答えた。実際フィリピンはその方法でスペインに征服されていた。

 この失言が秀吉の耳に入った。秀吉は即座にキリスト教禁令を出し、大坂と京都でスペイン人宣教師、日本人伝道師、日本人信者26名を捕え、耳を切り落として両手を縛り、首に縄をかけて市中引き回しの上、長崎に移送し、そこで処刑した。市川喜左衛門もその時処刑された一人であった。

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市川喜左衛門の墓

 カトリック教会は、1862年に、処刑されたこの26人を聖人とし、その殉教日を祝祭日とした。

 昭和33年に、喜左衛門の子孫の手で、この墓が建てられた。

 余り知られていないが、天正八年(1580年)には、長崎を領有するキリシタン大名大村純忠が、領地の長崎と茂木をイエズス会に寄進するという出来事があった。

 大村は、ポルトガルイエズス会から武器援助や経済援助を得ていたが、佐賀の戦国大名龍造寺隆信の攻勢にさらされていた。大村は、長崎が龍造寺の手に落ちて信仰が弾圧されることを恐れ、イエズス会に長崎の行政、司法、徴税権を寄進した。

 言うなれば、長崎はポルトガル領になったのだ。長崎を訪れたポルトガルの貿易商人は、アフリカやマカオで行ったように、日本人を買い取って奴隷として海外に売り飛ばした。また、キリシタン大名領内では、神社仏閣が破壊されていた。

 天正十五年(1587年)、秀吉は島津氏を屈服させ、九州一円を制圧した。

 秀吉は、博多滞在中に、ポルトガルによる奴隷貿易キリスト教徒による寺社の破壊などを理由に、第一回のキリスト教禁令を出し、教会領となっていた長崎、茂木を取り返し、直轄領とした。

 私は数年前、中央公論社の「日本の歴史」第14巻「鎖国」を読んで、この事実を初めて知って驚いた。

 一時的とは言え、長崎が外国領になり、日本人が奴隷として海外に売り飛ばされる事態になっていたことを知らない日本人も多いだろう。

 市川喜左衛門には、スペインの日本征服計画の先棒をかついだ認識はなかっただろう。処刑されたのは、明らかな見せしめであり、悲劇的な死とも言える。

 しかし、日本をヨーロッパの侵略から守ろうとした秀吉の行動も、為政者としては当然のことである。

 さて、そこから南西に走り、岡山市北区大窪にある宗形神社を訪れた。

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宗形神社

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宗形神社鳥居

 この神社の創建は、かなり古いようで、あまりよく分かっていない。

 祭神は、天照大神御子神、田心姫(たごりひめ)命、湍津姫(たぎつひめ)命、市杵嶋姫(いちきしまひめ)命の三女神である。この三柱の神は、宗像三神と呼ばれ、航海の神とされている。

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拝殿

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本殿

 なぜこの航海の神が、内陸部に祀られているのか。恐らく古代にはこの大窪のあたりまで海が迫っていたものと思われる。

 宗形神社は丘の上にあるが、かつてはここから沖合を行く船を見守っていたことだろう。

 宗形神社の裏に回ると、小さな円墳がある。

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宗形神社古墳

 直径15メートルほどの円墳である。平成9年の造成工事中に発見された。

 赤色顔料を塗った箱型石棺から男女2体の人骨が確認され、鏡片、勾玉、鉄製の鋤、斧、鎌、小刀が見つかったという。

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宗形神社古墳の出土品

 この宗形神社の近くには、備前国一宮の吉備津彦神社がある。この辺りは古代吉備地方の政治の中心地だったと思われる。

 この古墳の被葬者も、古代吉備の有力者と何らかの関係があったのかも知れない。

 今日は、日本の古いキリスト教信仰に関する史跡を紹介した。私は、キリスト教イスラム教の価値を認めるのに吝かではないが、この世界宗教が普及したことにより、それ以前の古い信仰が多数息絶えたことも事実である。

 日本の文化には、自然崇拝のような、原始的な信仰の要素が残っている。私は、日本にそうした原始的な信仰や文化が、今も残っていることを貴重なことと感じている。