用瀬(もちがせ)の宿場町から西に向かって佐治川沿いを走ると、俗に佐治谷七里と呼ばれる東西に細長い佐治町に入る。
佐治谷には、佐治川沿いに小さな集落が続いている。この地を開拓したのは、鎌倉時代に佐治谷の地頭職になった武家の佐治氏である。
建暦三年(1213年)に鎌倉幕府から佐治郷の地頭職を授かった佐治但馬守四郎重貞は、本姓を尾張氏という御家人であった。
佐治重貞は、佐治郷に来て、まず佐治町刈地の地を切り払い、開発した。
刈地の入口にある小丘は、今は刈地農村公園という名称の公園となっているが、かつて佐治四郎重貞の屋敷跡があったとされる場所である。
この小丘上に、かつて佐治四郎を切明大明神という神様として祀ったお社があったが、今はなくなっている。
佐治谷を切り明けて開発した佐治四郎を集落の祖神として祀ったのだろう。
切明大明神はなくなったが、佐治四郎の墓所と伝えられる宝篋印塔が残されている。
この宝篋印塔は、室町時代後期のものらしいので、佐治四郎が亡くなってから300年近く時間が経ってから建てられたものになる。
そんな後年になって石塔が建てられたということは、それだけ佐治四郎が佐治谷の住民の記憶に残っていたという事だろう。
佐治四郎の墓のすぐ傍に石垣で囲まれた低い台地があった。
この台地が何かは分らぬが、恐らく廃絶された切明大明神のお社の跡地だろう。
こうして鎌倉時代の実在の開拓者が神様として祀られていることを考えると、山陰地方を中心に国土を開発した神様として祀られている大国主神も、実在した人物なのではないかと思えてくる。
山と野を切り開いて最初に田畑と集落を作った人物は、子孫から尊敬されてしかるべきだろう。
刈地の集落の西側の森の中に、佐治氏の根拠地だった群佐羅山城跡の傍に建てられた刈地神社がある。
畑の奥に埋没するように鳥居が見えたので、鳥居に向かって歩いていった。
鳥居を潜ると、道が下りになり、谷川まで下りることになった。
そこから登りになった。石段を登りきったところに社殿があった。
刈地神社の祭神も恐らく佐治四郎であろう。
本殿は覆屋で覆われている。所々見事な彫刻が施されている。
日本の人口は、平安時代には約500万人、江戸時代には約3000万人、明治時代は約6000万人、現代は約1億2500万人である。
有史以来急激に人口が増えたが、それだけ古代から現代までに開拓された村落や町が、日本中に無数にあるということだ。
日本人は開拓して集落を作ると、まず土地の神様を祀るためお社を建てたものだ。
これからの日本は、急激に人口が減っていき、廃村も増えてくることだろう。
これは残念ながら避けられないことで、仕方がないことだと思う。少子高齢化は、日本だけでなく、世界中がこれから直面する問題である。
いかに整然と美しく町や村を畳んで縮んでいくかも、これからの日本人に課せられた、前向きに挑戦すべきことであると思う。