瑠璃山東光寺

 犬山神社から北上し、鳥取市用瀬町古用瀬にある真言宗の寺院、瑠璃山東光寺を訪れた。

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瑠璃山東光寺

 東光寺は、和銅元年(708年)に行基菩薩が開基したと伝えられている。当初の寺号は、瑠璃山長福寺といった。

 その後2度の火災に遭ったが、鳥取藩主池田光仲により再建された。この際に、寺号を東光寺に改めたという。

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本堂

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 本堂は、明治26年1893年)に再建されたものである。

 赤褐色の石州瓦が葺かれている。

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石州瓦の鬼瓦

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唐破風下の彫刻

 昭和51年に東光寺裏山の墓地の造成工事を行っていたところ、川原石で築かれた経塚が発掘された。経塚は、平安時代末期のものであった。

 経塚の中から、それぞれ須恵器の壷に入った青銅製の経筒と鉄製の経筒が見つかった。

 経筒とは、写経したお経を納めた容器のことである。

 平安時代末期には、末法思想というものが流行した。釈迦入滅後500年は、釈迦が唱えた教えが正しく行われる正法の世が続くが、次の1000年は教えが形だけ行われる像法の世となり、その後は全く正しい教えが行われない末法の世になるという考え方である。

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唐破風の格天井に描かれた絵画

 日本では、「周書異記」という書物の記載から、永承七年(1052年)を末法元年とする考えが広まった。

 末法の世を恐れた貴族たちは、後世に経典を伝えるため、経典を書写し、経筒に納めて寺院に埋めた。

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東光寺山経塚跡の碑と説明板

 末法思想は、仏教が誕生したころから経典に書かれていたそうだ。

 釈迦の入滅がいつかは正確には分らぬが、概ね紀元前500年ころとされている。

 その約500年後には、元々の釈迦の教えから逸脱(ある意味大きく進化)した大乗仏教が現れ、その約1000年後には、イスラム教徒の侵攻でインドの仏教は決定的に没落した。

 日本では、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、いわゆる鎌倉仏教が誕生したが、これら新仏教の誕生にも、末法思想による仏教衰滅の危機感が影響を与えているだろう。

 自分たちが生きている間に、人の世や人の心の拠りどころが滅びるかもしれないという恐怖感が、場合によっては新しい文化を生み出すこともあるようだ。