8月9日に台風9号が九州から中国地方を横断した。
こんなコンディションの日に、物好きな私は美作の史跡巡りに出掛けた。
この日の目的地は、津山市の北部で、私が訪れた時は丁度台風が津山市に接近していて警報が出ていた。
しかし、台風の中心に近い方が案外静かなのか、それほど風はひどくなかった。雨は当然降っていたが、こちらもそれほどひどくなかった。
おかげで真夏ではあったが、気温30度を下回る中で史跡を巡ることが出来た。
今日紹介するのは、JR津山駅とJR鳥取駅を結ぶ因美線の鉄道遺産である。
まず訪れたのは、美作河井駅である。
美作河井駅は、昭和6年に開業した。今の木造駅舎は開業当時のものである。
無人駅であるが、私が訪れた時は、駅の清掃に訪ねて来られた方がいた。
駅舎に入ると、どこか懐かしい様子である。
JR因美線は、単線、つまり線路が一本しか通っていない。
線路が一本しかない単線の鉄道においては、運転本数が増えるにしたがって、路線の途中で、上り列車と下り列車がすれ違う必要が出てくる。これを交換という。
しかし、単線であるため駅と駅の間ですれ違うことが出来ず、交換設備のあるような規模の駅ですれ違うことになる。
駅ですれ違った後は、列車はそれぞれの目的地へ進行するが、 このとき、列車の進行方向には、次の交換設備のある駅まで、対向列車がいないことが前提となる。
そうでなければ、列車同士が正面衝突するという大事故になる。
事故を防ぐためには、交換設備のある駅同士の間の区間に入る列車を、確実に1本のみとしなければならない。
そのために、路線を交換設備のある駅ごとに区切り、その区間に入るための「通行証」を1つ発行し、 それを列車に携行させるという方法をとった。
「通行証」が1つしか発行されないために、その「通行証」を携行している列車のみが、 その区間に入ることになり、衝突事故を防ぐことができる。これを「閉塞」という。
この「通行証」の一つがタブレットであり、タブレットを使った閉塞方式は、タブレット閉塞と呼ばれる。
タブレットとは、中心に丸や三角などの形が刻まれた円盤形の板である。
美作河井駅は、交換設備のあった駅であった。次の交換設備のある駅までのA区間に入るには、そのためのタブレットが必要である。
例えば上り列車がB区間を通って美作河井駅に着くと、次のA区間に入るためのタブレットを持った下り列車が美作河井駅に着くのを待った。A区間を通って来た下り列車が駅に着くと、A区間のタブレットを下り列車から受け取り、下り列車にはB区間のタブレットを渡して、それぞれが出発するという具合だ。
極めて原始的なやりかただが、因美線では平成9年の急行「砂丘」が廃止されるまで、このタブレット閉塞のやり方で衝突事故を防いできた。因美線は、JRでタブレット閉塞が行われた最後の路線である。
今はコンピューター制御の列車集中制御装置で列車を効率的に運航している。
また、美作河井駅には、近代化遺産の美作河井転車台がある。
美作河井転車台は、現在は使われていない。明治時代に外国から輸入された設備で、明治5年に新橋ー横浜間の鉄道に導入された転車台と同一仕様である。
当時の転車台として、完全現存するものとしては、国内唯一のものであるらしい。
この転車台は、近年まで、鳥取から来るラッセル車(除雪車)の折り返しに使われていた。
知和駅も、昭和6年の開業当時そのままの姿をしている。
昭和6年と言えば、満州事変の起こった年である。この駅舎も、開業後地元から出征する兵士を見送り続けたことだろう。
昨年紹介した美作滝尾駅と同じく、珍しい木製改札が残っていた。
今は使われていない駅員室には、黒電話が置かれていて、当時の雰囲気を出している。
静かな田舎駅で執務していた人の姿が思い浮かんだ。
駅の時刻表を見ると、列車の本数は、1日上り6本、下り6本づつだった。この駅はいつまで使われることだろう。
さて、ここから南下し、次の駅、美作加茂駅に行く。
美作加茂駅は、美作河井駅の次に交換設備のあった駅だった。タブレット閉塞を用いた場合、美作河井ー美作加茂間は、1個のタブレットを持った列車しか通行できなかったわけだ。
美作加茂駅の駅舎は、レトロ調だが実は新しく、平成15年に建ったものである。
美作加茂駅は、平成11年まで腕木式信号機が使われていた駅である。
駅に設置された列車の進行の可否を示す信号機は、今では全て電気を使った色灯式信号機になっているが、昔は機械で木製の腕木を上下させて停止や進行を表した腕木式信号機が用いられていた。
美作加茂駅は、因美線で最後まで腕木式信号機が使われていた駅である。
時代と共に使われる道具はどんどん変化していく。道具だけでなく、人も組織も変化していく。今ときめいていたものが、明日は顧みられなくなる。時の移り変わりというものは、本当に面白いものだ。