渋川海岸

 宇野港から南に行き、岡山県玉野市玉の町並みに入る。

 ここには、大正6年に開設された三井造船所がある。

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三井造船

 当時、三井物産株式会社は、海運業から造船業に経営を拡大していた。昭和12年には、株式会社玉造船所として独立し、昭和17年三井造船と改称した。

 日本の軍艦建造の歴史を見ても、日露戦争のころまでは主力艦船の建造は外国に発注していた。

 日本が初めて造った国産戦艦薩摩は、明治43年に竣工した。

 大正に入って、ようやく日本は本格的な自前の建艦技術を身に着けたようだ。

 大東亜戦争で活躍した巡洋戦艦金剛級も、大正時代に建艦された。

 三井造船所は、令和に入っても、海上自衛隊の最新鋭ステルス護衛艦「くまの」などを建造している。

 三井造船所から南下すると、瀬戸内海航路の潮待港、風待港として繁栄した日比港がある。

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日比港

 文政九年(1826年)には、シーボルトが日比港を訪れ、この地の塩田に興味を持ち、その時のことを「江戸参府記」に記しているという。

 当時は廻船問屋や船具問屋など、数々の商家が立ち並んでいたそうだが、今ではその面影はない。

 ここから更に西に行き、玉野市渋川にある渋川海岸に行った。

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渋川海岸

 渋川海岸は、岡山県下有数の海水浴場だが、新型コロナ禍のため、今年は海水浴場としてはオープンしていなかった。

 わずかなキャンプ客がいるだけで、閑散としたものだった。

 渋川海岸の近くに、昭和28年に玉野市が開設した玉野市玉野海洋博物館渋川マリン水族館)がある。

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渋川マリン水族館

 ここには、瀬戸内海をはじめとする日本の海洋生物180種が飼育されているほか、貝類標本、船舶模型、魚類剥製、網での漁の模型などが展示されているという。

 面白そうだが、私が訪れた時は既に夕刻で、受付は終わっていた。

 この水族館の前に、西行法師の銅像がある。

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西行法師像

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 西行法師は、仁安三年(1168年)秋、かつて並々ならぬ愛顧を被った崇徳上皇の配所跡を訪ねるため、渋川海岸に至った。

 崇徳上皇は、保元の乱で敗れて讃岐に配流となり、配所で死去した。

 配所での上皇は、仏道に目覚め、写経に勤しみ、筆写した経典を戦死者の供養のため京の寺院に奉納することを朝廷に願い出た。

 しかし後白河法皇は、「呪いが込められているのでは」という理由でこれを拒否した。

 激怒した崇徳上皇は、舌を噛みきり、自らの血で写経に呪詛の言葉を書きつけた。  

 それは、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」という内容のものであったらしい。

 崇徳上皇の呪いのとおり、この後、政治の実権は朝廷から武士に移り、約700年の間朝廷に戻ってこなかった。

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渋川海岸

 大政奉還で、実権が朝廷に戻った時、明治天皇が忘れずに行ったのは、崇徳上皇の霊を京に遷して祀ることだった。即ち今の京都の白峯神宮である。

 しかし、その大日本帝国も戦争に破れた。戦後になって、国民主権の時代となり、文字通り民が主となる世がやってきた。崇徳上皇の呪詛は、今も生きているのだろうか。

 さて、崇徳上皇は、失意のまま讃岐の配所で死去した。そして、日本史上最大の怨霊として畏れられるようになった。

 西行は、僧侶として崇徳上皇の怨念を鎮めるために旅に出て、讃岐三野津に船で渡るため、渋川までやってきたが、当地で風待ちを余儀なくされた。

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西行さんこしかけ岩

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 渋川海岸には、「西行さんこしかけ岩」という、西行法師が腰掛けたとされる岩が残っている。

 西行の「山家集」には、この時にあったことをこう書いている。

 日比渋川と申す方へまかりて、四国の方へ渡らんとしけるに、風あしくて程へけり。渋川の浦田と申す所に、幼きもの共の、数多ものを拾ひけるを問ひければ、つみと申すもの拾ふなりと申しけるを聞きて、

 「おりたちて 浦田にひろふ 海人の子は つみよりつみを 習ふなりけり」 

  西行が渋川で風待ちをしていると、海岸で何かを拾う幼い海人の子がいる。何を拾っているのかと尋ねると、「つみ」という名の貝であった。

 西行は、仏道で罪とする殺生を生業としなければ生きていけない漁民の暮らしに思いを馳せて、この歌を作ったという。

 西行さんこしかけ岩から前を眺めると、対岸の讃岐が目に入る。真正面には瀬戸大橋が通る。西行の時代にはなかったものである。

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渋川海岸から眺める讃岐と瀬戸大橋

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瀬戸大橋

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讃岐の山々

 讃岐に渡った西行法師が、崇徳上皇の御陵で、上皇の怨霊と対面する話は、江戸中期に上田秋成が、「雨月物語」の中の「白峰」という話に書いている。

 上皇の怒りの激しさに、西行も困ったことだろう。

 夕刻の閑散とした暑い渋川海岸を歩きながら考えた。西行が「罪」と考えたことは、果たして「罪」なのだろうか。

 動物は、植物も含めた他の生物を食べなければ生きていけない。殺生があって初めて生態系は維持される。

 最近ヒグマに襲われて人が食べられたことがニュースになった。犠牲者には気の毒だが、ヒグマに罪はない。

 我々が生きるために他の生物を殺して食べることは罪ではない。今日も私は人間に殺されたタコを食べた。

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対岸の讃岐

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対岸の高松市

 生物は、他の生物を殺して食べる。しかし、糞という形で養分を自然界に返すし、自分が死ぬと、死体を他の鳥や獣や虫やバクテリアに提供して自然界に返す。ヒグマも死ねば他の生物に食われるのだ。

 生態系の循環を罪と捉えるなら、生物であることをやめて石にでもなるしかない。

 ところが、生態系から命は貰い続けている筈の人間は、糞は下水に流して自然界に提供しないし、自分の死体は燃やして灰にしてしまい、他の生き物に提供しない。生態系から見れば、人類は、他からもらうだけもらって、何も返さないケチな生き物だ。

 生態系の循環からすれば、文明化された人間は、自然界で最も役に立たない必要ない生物である。

 そういう私も、日本社会の法律と習慣に従って、自分の死体は焼いてもらうだろうが、自然界の中では最もどうでもいい生物の一員だったという認識を持って死ぬだろう。

 そんなことを考えていると、渋川海岸の西に日が傾いていた。