主屋の土間から一段上がると囲炉裏の間がある。
囲炉裏の間の大黒柱と鴨居の梁は、ケヤキ材である。
囲炉裏の間は、石谷家家族の内玄関でもあり、出入りの人達と家人との情報交換の場でもあった。
見上げると、赤松の梁組があるが、この囲炉裏の間の上の梁組も見事である。
囲炉裏の間の隅には、電話室がある。石谷家住宅が出来た頃は、電話はまだまだ希少で、智頭宿の中でも引いているところは少なかったろう。
電話室の入って右側には、ガラスに覆われた建築当時の土壁がある。
囲炉裏の間から、昨日紹介した本玄関と脇玄関の方に向かうことにする。
大正から昭和初期に建てられた建物だが、何度か改修をしているのであろう、今でも瑞々しさを保っている。
本玄関に至る廊下の途中には、見事なケヤキの一枚板の引き戸があり、その足元にも、名のある木材で造られたものと思われる敷居がある。
ケヤキは木目が美しい材料である。材木の良さや石材の良さが分かるようになったら、こういう木造邸宅を見学するのが楽しくなるだろう。
脇玄関は今は閉まっているが、脇玄関から入った正面にケヤキの引き戸があり、そこを開ければ和室応接に至るようになっている。
本玄関は、戦後になってから、暖炉を備え、床をフローリングにした洋風の応接室に改装された。
平成元年になって、石谷家裏山から伐採した智頭杉を柱、長押、天井板に使って改装し、現在のような姿になった。
本玄関には床の間もあり、玄関というより一つの部屋ぐらいの広さがある。棚の上には、鳥取出身の彫刻家・長谷川塊記の作った裸女のブロンズ像がある。
ブロンズ像のある窓からは、和室応接や新建座敷と面する中庭を眺めることが出来る。
さて、脇玄関の目の前にある和室応接を見学する。
ここは、八畳の書院座敷で、床の間と床脇があり、中庭に面して座敷の周囲を栗板の濡縁がまわっている。
床の間は床柱を立てない変わった作りで、縁側も同じく庇柱を立てず開放的にしてある。
部屋内は杉材で仕上げられ、天井には杉根杢の板目を使用している。
天井板の所々に杉材の杢が浮き出ている。
また、平書院の障子は桟を扇形に象り、欄間に石谷家住宅や諏訪神社の俯瞰図を透かし彫りにしている。
この微細な透かし彫りの欄間を彫ったのは、地元智頭出身の仏師・国米泰石(こくまいたいせき)である。
泰石は、少年時代から手先が器用で、自ら彫った将棋の駒の出来の良さに驚いたほどだったという。
その才能を見抜いた石谷伝四郎は、智頭の豊乗寺の国宝調査に来た岡倉天心に泰石を引き合わせた。岡倉は泰石を日本美術院に採用し、東大寺三月堂の修復工事に派遣した。その後泰石は、西日本各地の国宝級の仏像の修復に当たった。彼が修復した仏像は、16府県320余体にも上るという。
今後の史跡巡りで、泰石が修復した仏像にも出会うことになるだろう。
泰石は、石谷家住宅の欄間の彫刻と鬼瓦の制作を手掛けた。泰石からすれば、自分の才能を見出してくれた石谷家への恩返しでもあったろう。
和室応接の周囲をL字に囲む栗板の濡縁からは、先ほどの本玄関の窓を眺めることが出来る。
思えば完成してからまだ100年経っていない石谷家住宅が、国指定重要文化財になるというのは余程のことだ。
一級品は、それほど時が経過しなくとも、世の中から認められるという見本のようなものだ。