和田寺から北に行き、国道372号線に出ると東に走る。
しばらく行くと、左手に小山のようにこんもりした丘が見えてくる。兵庫県丹波篠山市今田町上小野原にある小野原住吉神社である。
3日前の木津住吉神社の紹介記事の中で、何で航海の神を祀る住吉神社が丹波の山中にあるのか謎であると書いた。
ここに来てその謎が解けた。小野原住吉神社の説明板によると、この地は小野原荘と言って、摂津の住吉大社の荘園だったらしい。
鎌倉時代末期の文保年間(1317~1319年)に住吉大社から住吉大神が分祀され、この地域の各村に住吉神社が出来たそうだ。
小野原住吉神社は、木々が鬱蒼と茂る丘の上に社殿がある。この丘は、古墳というわけではないが、独特の雰囲気を持った場所である。
急な石段を上って社殿の前に出る。
小野原住吉神社では、毎年の秋祭りの宵宮で、蛙踊りという田楽が行われる。
紺色に鶴亀の模様を白く染め抜いた大広袖を着た8名が、神前で締太鼓とササラを持って、「へーっ、へーっ、かえろ、かえろ」と連呼しながら踊るという素朴なものらしい。
蛙踊りは、兵庫県無形民俗文化財に指定されており、丹波の奇祭としても知られているそうだ。
小野原住吉神社の社殿は、享保十三年(1728年)に再建されたもので、本殿には、住吉三社、春日社、八幡社、稲荷社の四座が祀られている。
蛙踊りが伝承されていることと、神社の建つ丘が蝦蟇がうずくまったように見えるので、小野原住吉神社は別名「蛙の宮」とも呼ばれている。
小野原住吉神社の建つ丘には、住吉大社の神がこの社に分祀された際に隠れたとされる「かくれ杉」がある。
樹齢は700年以上、高さ約16メートルの巨杉である。
本当に神様が隠れているのではないかと思うほど、神々しさを感じさせる大木であった。
ひょっとしたら、文保年間にここに神社が建てられた時に植えられた杉なのかも知れない。
次に小野原住吉神社から少し北東にある二村神社に行く。
二村神社の建つ場所の地名は、丹波篠山市見内(みうち)と言う。この地名には、次のような伝承がある。
伊弉諾尊が地上に降り立つとき、先に剣を地に落とした。その際、鶏に、「この剣が地に刺さらず倒れていたらコケッコと鳴け。刺さって立っていたら鳴くな」と命じて鶏を遣わした。
地に下りた鶏は、剣が倒れているのを見て、「コケッコ―」と鳴いた。
鳴き声を聞いた伊弉諾尊は、「この土地は堅く、神が住むことができる土地である」と考え、伊弉冉尊を伴ってこの地に降り立ったという。
伊弉諾尊、伊弉冉尊が降りたこの土地は、神内村と呼ばれるようになった。二村神社は、天平勝宝二年(750年)に創建され、伊弉諾尊を祀っている。
文明十四年(1482年)から、神内村は御内村と呼ばれるようになった。この年、二村神社を氏神とする各村の間で座席を巡る争いが起こり、各村が神輿や神器、文書などをそれぞれ持ち帰り、各村に二村神社を建てた。
慶安四年(1651年)以降は、御内村は見内村と呼ばれるようになり、現在に至る。
見内の二村神社は、丹波篠山市内の二村神社の本宮になる。ご神体として、平安時代後期に作られた木造伊邪那岐命坐像を有する。国指定重要文化財になっている神像だというが、非公開である。
それにしても、伊弉諾尊が国生みに先立って剣を落として、鶏に見に行かせたという挿話は、「古事記」「日本書紀」にもない話だ。
こういうほほえましい地名説話は、日本各地に残されている。日本の地名には、日本の神々の挿話と結びつけられたものが多い。
そう思えば、地名と言うものも大事にしなければならないと思う。