備前長船刀剣博物館の前には、近代備前長船の刀匠今泉俊光の工房を再現した、今泉俊光刀匠記念館がある。
今泉俊光は、明治31年に佐賀県小城郡小城町で生まれ、祖父の影響を受けて幼いころから刀作りに興味を持ち、釘を潰して小刀を作ったりしていた。
その後岡山県内の紡績会社に就職したが、その傍ら刀鍛冶を研究し、長船の刀匠に誘われて刀の制作を始めた。
戦後の一時期の中断はあるものの、平成7年に97歳で亡くなるまで、作刀を続けた。
今泉の鍛刀技術は、ほとんど独学であり、自家製鋼や独自の焼き入れ方法などを導入していた。
記念館には、今泉が試行錯誤の果てに開発した、焼き入れ用の火床、水舟が展示してあった。
火床の中に炭を平らに積み、刀身全体をその中に埋没させ、上から団扇などで煽いで過熱し、火床を上下に傾斜させて、火床内の温度を平均に保つように調整した。そして直ちに手前の水を張った水舟に入れて急冷させた。
通常の火床での、刀身全体を平均的に加熱して赤める難しさを解消する目的で作られたものである。
記念館内には、今泉が約50年間作刀した鍛刀場が再現されている。
左の機械ハンマーは、板バネを利用してハンマーで鋼を叩く機械である。この機械が3代目に当たる。
右手の煙突の様なものは、火床(ほど)で、素材を加熱するところである。横に鞴が付いている。
中央には、素材を叩く金床がある。
備前おさふね刀剣の里には、刀職人達の実際の作業場が公開されている。
例えば、鍛刀場では、刀を打って鍛え上げる鍛刀の作業を公開している。
それ以外にも、塗、白銀、金工・刀身彫、研、鞘、柄巻の各職人が、作業を行う様子をガラス張りの工房で公開している。
私が訪れた時も、実際に職人さんたちが作業をしていた。
刀身彫の工房に展示していた短刀の刀身には、不動明王が彫られていた。
また、研の工房には、様々な砥石が展示されていた。刀を完成させるまでの様々な工程が興味深い。
備前おさふね刀剣の里には、ふれあい物産館という土産物売り場がある。ここには、ペーパーナイフや包丁などの土産物だけでなく、アンティークの鍔なども売っている。
ここでは、かつて日本刀の刀身も売っていたようだが、今は売っていない。
さて、備前おさふね刀剣の里から南に約300メートルほど行くと、長船の刀匠たちの菩提寺である、高野山真言宗の慈眼院がある。
慈眼院は、天平勝宝年間(749~757年)に唐僧鑑真により創建されたと伝えられる。古くから長船刀工の菩提寺となっている。
賽銭箱に鍔が付いていたり、刀剣型の絵馬があったりと、刀匠ゆかりの寺であることを髣髴とさせる。
境内には、刀匠横山元之進祐定が明治20年に寄進した、永徳四年(1384年)作の梵鐘がある。
梵鐘を打つと、余韻がいつまでも続く、美しい調べが響いた。この梵鐘は、元々は筑紫国の筑紫宮にあったという。瀬戸内市指定重要文化財である。
また、境内には、刀匠横山上野大掾祐定の墓がある。
歴代刀匠が眠る寺に、自分も眠ることになるのは、長船の刀匠たちにとって、思い描いていた人生の最後の姿だろう。
さて、慈眼院から東に数十メートル歩くと、横山元之進祐定が自宅に建てた、犬養毅揮毫による「造剣之古跡碑」がある。
横山元之進は、大正14年9月に、備前長船の史跡を保存し、その偉業を後世に伝えるため、私財を投げうって、屋敷敷地中央にこの石碑を建てた。昭和34年に、石碑は現在地に移動したそうだ。
日本刀は、世界でも日本でしか生産出来ない技術の粋を集めた武器である。
刀匠たちにとっては、自分が精魂込めて作った刀が、武士たちの精神の支柱となり、又戦いの武器となり、数多くの武人の生死を左右することになるのが、誇りであったことだろうと思う。
自分が作った刀を送り出すときの、刀匠の気持はどんなものだろう。