復活の日

 大学時代にSF作家になりたいと思ったことがある。

 三島由紀夫に、SF小説の姿を借りた「美しい星」という小説がある。自分たちが宇宙人だという思い込みを抱いた家族が、核戦争で滅亡しそうな人類を救おうと奔走する様を描いた小説である。もし普通の人間が、人類が生存に値するかというテーマの話をしたら、狂人と思われかねない。宇宙人という視点から見たら、人類を客観視することが出来る。人類が生存に値するかどうかという大テーマを、正面から論じることが出来る。三島の設定の妙である。

 人は自分のことをなかなか客観視することが出来ない。それと同じように、人類である我々は、人類をなかなか客観視することが出来ない。

 SF小説は、宇宙の中の地球という巨大な視点で人類を眺めるので、人類を客観視する立場に立つことが出来る。私は、そういう物の見方に憧れたのである。

 今、新型コロナウイルスという災厄が人類を襲っている。流石にこのウイルスのせいで人類が滅亡するとまでは思わないが、このウイルスの影響が長期間続けば、かなりのダメージを人類社会に与えると思う。

 大学生の時に、SF作家小松左京の「復活の日」という小説を読んだことがある。

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小松左京作「復活の日

 人類が開発した生物兵器のウイルスが流出して、世界中に蔓延し、南極に住む人と原子力潜水艦で航行中の人以外が全滅するという設定である。

 地球に落ちた隕石を敵国からの核攻撃と誤認した米ソの軍事コンピューターにより、自動的に発射された中性子爆弾放射線によって、ウイルスは死に絶える。その後南極大陸で生き残った人々が再び南米に上陸して、人類社会を再建するという筋書きである。

 私は、若いころに人間は何のために生きているのだろうと疑問に感じて、哲学書などを読んだことがある。しかし、答えは見つからなかった。

 人類が自分たちを客観視できない限り、生きる意味は見つからない。人類は、自分たちに知性と感情があるため、ついつい自分たちを自然界の中で特別な存在であると思い込みがちである。

 キリスト教は、神が自分に似せて人間を作ったと説いている。そうすると、特別な存在である人類が、災害や疫病や戦争で死んでいくことの理不尽さを説明できない。それを説明するため、宗教は昔から様々な理屈を考え出してきた。自分たちを特別な価値ある存在だと思っている限り、人類が生きる意味を見つけることは出来ない。人は特別なはずの自分たちを襲う災厄の理不尽さを理解することが出来ないからである。

 実は人間が生きる意味は、もう見つかっているのである。だがそれに気づくためには、自分たちを客観視しなければならない。

 それは、人類が生物の種の一つに過ぎない、という厳然とした事実に気づくことである。人類がただの生物の種の一つに過ぎず、私たちがよく叩き潰す昆虫や、害獣たちと同等の存在だと気づいたときに、ようやく生きる意味が見つかる。

 例えば、人類にとって、蚊やゴキブリに生存する価値がないという考えには、大方の人は賛同するだろう。では、人類が蚊やゴキブリ以上に生存する価値があるか、という問いにはなかなか答えることができない。

 地球の視点からすれば、恐竜やマンモスと同様、ゴキブリも人類も、滅亡しようがどうなろうが、どうでもいい存在の筈である。これが真理であると思われる。

 しかし、ゴキブリの生存が無意味だと人類が決めつけたところで、ゴキブリは人類の思惑にかまわずに繁殖を続け、殺虫剤や新聞紙から逃げ回るだろう。生物の種として生まれた以上、自分たちの種の生存と繁栄に全力を挙げるしかないからである。

 人類も同じである。客観的に見たら、人類とその文明の存続に意味はないと思われるが、人類という生物の種として生まれた以上は、我々は種の保存と繁栄に全力を尽くすしかないのである。これが人間が生きる意味である。

 そのために、他の生物を絶滅に追い込むことがあるかも知れないが、それは仕方のないことである。我々は特別な存在ではない。他の生物の種の生存にまで責任を持つ資格はない。

 生物の歴史を見ると、進化の過程で環境に適応できた生物は、生き延びることが出来た。

 我々人類もそうやって環境に適応して進化して、今の姿になった。人類は、技術を磨いて、自分たちの外の環境を変えることによって、肉体を進化させずとも、快適に暮らすことが出来るようになった。こうなると、肉体の進化は止まってしまう。

 今、人類社会が抱えている仕組みも、大半がダーウィン自然選択説で説明することが出来る。

 例えば、我々は人助けをしたらいい気持ちになり、人に迷惑をかけたら罪悪感を覚える。この善悪の起源について、宗教は超越的な何かの理由を持ち出して説明するが、自然選択説で考えれば、とてもシンプルに答えが見つかる。

 ここに危難に際してお互い助け合う人々が住む村があり、一方に他人を蹴落として自分だけ生き残ろうという人ばかりが住む村があったとする。災厄が来た時に、村全体が生き残る可能性があるのは、確実に前者である。

 我々はそうやって生き延びてきた人たちの子孫である。その遺伝子を受け継いでいる。自然界では、人助けをするといい気持ちになる傾向の人々が生き残りやすいので、自然淘汰の果てに、人助けに価値を見出す人が人類の大半を占めるようになったのである。そしてそれを家庭や学校で教えるようになり、国家や法律を作って、他人を蹴落として自分だけが生き残ろうとする傾向の人を規制するようになった。

 現在、人類の大半というより、ほぼ全員が国家機構の下で生活しているのは、その方が生存しやすいからである。国家や法律の存在も、自然選択説で説明できる。

 国家も法律も経済も社会制度も、全て人類という種が生き残るために、長い歴史の中で試行錯誤し、自然選択の果てに残ったものである。

 ここまで書いて、ようやく新型コロナウイルスの話になる。世界中が今新型コロナ対策に奔走している。ウイルス自体が人類を絶滅させることはないだろうが、人類の過剰な防衛反応が経済を委縮させ、しまいに大量の餓死者を生み、存亡の淵に追いやる可能性はある。

 それで人類が滅亡してしまったら、それは自然選択に敗れたということになる。しかし、人類という種に生まれた以上は、そうさせないために全力を尽くすべきである。

 経済活動を抑制してウイルスの感染を抑えると同時に、経済活動を壊滅させない程度に存続させる方法を、世界各国が試行錯誤の上模索している。この答えはなかなか見つからない。

 中国のような強権的なシステムが、欧米の民主的なシステムより生存する可能性が高いかも知れない。しかしこれは、中国のシステム下に住む人が幸福であることを意味しない。ただ自然選択説で考えれば、環境に適応できたシステムが、生き残るというに過ぎない。

 小松左京の「復活の日」を久々に引っ張り出して、ぱらぱらめくっていたら、南極以外の人類が絶滅する直前に、フィンランドヘルシンキ大学の文明史の教授が、生き残った人たちに向けて行った最後のラジオ講演の内容にこう書いているのが目にとまった。

それは私の専門とする文明史の決着点であります。-それは、人間もまた生物であり、生物にすぎない、ということであります。 

  新型コロナウイルスは、人間に遠慮や忖度をしない。人種や身分や国境に関係なく感染する。人間が足の引っ張り合いをしている間、待っていてくれないのである。

 一国で感染を制圧できても、他国で感染が続いていれば、再びウイルスが侵入してきて、第二波に襲われるかも知れない。

 お互い近づいてコミュニケーションを取ることで繁栄してきた人類に対するウイルスの挑戦である。確かにこれは自然界の生存競争に近い。

 これは、全人類が団結して対峙しなければならない事態である。足の引っ張り合いをするより、何が最善かお互い考えて実行していくしかない。

 こんなことを書いている私も、ただ家でじっとしていて、医療関係者を応援するだけである。

 とはいえ、まだ小説「復活の日」ほど事態は深刻ではない。その代わり、長期化しそうな気がする。人類の戦いは暫く続きそうだ。