柵原鉱山資料館 前編

 岡山県久米郡美咲町吉ヶ原の柵原ふれあい鉱山公園内にある柵原鉱山資料館には、大正時代から昭和時代にかけて最盛期を迎えた柵原鉱山に関する資料を展示している。

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柵原鉱山資料館

 慶長年間に、津山藩森忠政が、津山城を築城するための石材を集めていた際に、柵原で褐鉄鉱の露頭が見つかったのが、柵原で鉱物資源が見つかった初めであるとされている。

 柵原鉱山で、硫化鉄鉱、銅鉱、褐鉄鉱などの鉱物資源の本格的な採掘が始まったのは、明治15年からである。

 大正元年ころから、化学肥料や化学繊維の製造に必要な硫酸の原料として、硫化鉄鉱の価値が高まったことから、硫化鉄鉱に特化した採掘が行われるようになった。

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硫化鉄鉱

 硫酸は、化学工業の原料としてなくてはならないもので、その国の化学工業の水準は、硫酸の消費量を見れば分かると言われている。

 柵原鉱山の硫化鉄鉱の鉱床は巨大であり、採掘も容易で、品質も高かったらしい。鉱山の最盛期は昭和30~40年代で、月産7万トンを達成していた。

 柵原には鉱山で働くために、全国から人が集まり、昭和30年代には、柵原は鉱山の町として非常な賑わいを見せた。

 柵原鉱山資料館の1階には、当時の柵原の町を再現した空間がある。昭和30年代の街並みだ。

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昭和30年代の柵原の再現

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 昭和30年代は、私が生まれる前の時代であるが、不思議とノスタルジーを覚える。

 柵原の鉱山労働者家族が日常の買い物をしていたのが、鉱山が経営する供給所である。

 戦前は、生活必需品や作業用品は、鉱山社宅に住む従業員が共同購入して販売していたそうだ。

 従業員が増えてから、鉱山が供給所を経営するようになる。

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供給所の写真

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再現された供給所

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 売られている商品のパッケージもレトロでどこか懐かしい。日本の消費生活の原風景を見るかのようだ。

 供給所では、食料品や日用雑貨だけでなく、電気製品、洋服などが売られ、貸店舗には時計・宝石店から理容室まであり、町内の人々に大いに利用されたという。

 また、昭和7年には、従業員の福利厚生施設として、集会所が建設された。収容人員は約3000人であり、岡山県下では最大級の大きさであった。

 戦後には映画を上映したり、山神祭には当時の人気スターの来演があったり、娯楽施設として利用された。

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集会所の写真

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三田明のコンサート

 柵原鉱山は、平成3年に閉鎖された。

 石油精製時に、水素化脱硫装置、硫黄回収装置を用いることによって副産物として生産される回収硫黄が、急速に市場に出回るようになったため、硫黄の価格は急落した。

 また昭和60年のプラザ合意後、円高が急速に進み、海外産の輸入鉱石の価格が下落し、柵原鉱山の硫化鉄鉱は値段で太刀打ち出来なくなった。

 柵原鉱山は閉鎖され、片上鉄道も廃線となった。主要産業を失った柵原の町は、今も発展の道を模索している。

 今コロナウイルスで日本経済にも甚大な影響が出ているが、時代の推移と共に産業や町が消長するのは歴史の必然である。

 我々も、後世の人々から「懐かしいなあ」と回想されるノスタルジックな生活を、今この瞬間に過ごしているのである。