岡山県倉敷市児島味野1丁目に、国指定重要文化財の旧野﨑家住宅がある。
野﨑家を興したのは、寛政元年(1789年)に児島郡味野村に生まれた昆陽野武左衛門(こやのぶざえもん)である。
武左衛門の父の貞右衛門は、塩浜で失敗し、家財を失った。困苦の中で育った武左衛門は、児島郡で繁盛していた備前小倉織に注目し、足袋の製造・行商を開始し、販路を九州から大坂まで広げた。
しかし、武左衛門は、足袋製造の限界を見極め、親戚の助けを得て、味野村、赤﨑村沖合の浜の塩田開発に着手する。
塩田開発は文政十~十二年(1827~29年)に行われた。この塩田は、味野村と赤﨑村の両村から一字を取って、野﨑浜と名付けられた。野﨑の姓は、ここから来ている。
武左衛門は、野﨑浜のみならず、現玉野市の沖の東野﨑浜という塩田も開発した。さらに岡山藩の要請を受けて、福田新田という新田も開発した。
これらの功績により、武左衛門は嘉永六年(1853年)に、岡山藩から大庄屋格の地位を与えられた。
塩の製造と販売により、巨万の富を得た武左衛門は、味野村に広壮な邸宅を築いた。それが、旧野﨑家住宅である。武左衛門の全盛期だった天保~嘉永年間に建てられたものである。
主屋は長大な平屋建ての建物である。
主屋の北側に当たる向屋敷の縁側には、野﨑家の提灯と舟箪笥が置かれていた。
舟箪笥は、当時の北前船などに設置されていた箪笥で、船乗りたちが命の次に大事なものを入れていた箪笥である。
鍵が2つ掛けられるようになっている。木製のため、船が沈んでも、舟箪笥は浮くようになっていた。
かつて放映されたテレビ番組の中で、この舟箪笥が試しに開けられたが、中は空っぽだったそうだ。
当主の野﨑家の者は長屋門から敷地に入り、内玄関から屋敷に出入りしたことだろう。
内玄関の南側には、表書院の座敷が続いている。
表書院は、屋敷で最も格の高い建物である。訪問した藩主をもてなす空間だったろう。
藩主専用の門が御成門である。
御成門から真っ直ぐ進むとあるのが表玄関である。
この御成門と表玄関は、屋敷の主の野﨑武左衛門ですら使えないものである。藩主だけがここを潜ることが出来た筈だ。
表書院の前の庭の中心にある大きな石は、藩主を乗せた輿を据えるための石だったと言われている。
表書院の上の間は、藩主をもてなす部屋であり、野﨑家住宅で最も格式高い部屋である。
曲線的な欄間の意匠がアールヌーボーのようで面白い。
庭園の南東隅には、二畳の茶室観曙亭がある。
庭園内には、もう一つ四畳半の茶室容膝亭がある。
商売に忙殺されていた武左衛門は、偶には静かな茶室に客を迎え、茶を喫することもあったのだろう。
主屋の南端に当たる中屋敷からは、遥か先の向屋敷の座敷まで眺めることが出来る。
延々と続く座敷には驚かされる。日本家屋は、このように襖を開けていれば、風が吹き通る。暑く湿った日本の夏を過ごすための工夫である。その反面、冬は寒い。
中屋敷の前には、3つ目の茶室である臨池亭がある。
また、主屋の裏手には、台所があり、明治大正期の様々な道具が展示してあった。
現代の住宅からすれば、何ほどでもない道具の数々だが、当時としては一般庶民には手が出ない高価な代物と思われるものが並んでいる。
蔵の裏側には、当時の主要な資源だった薪を置く薪納屋や、洗面所、煉瓦製の風呂がある。
江戸時代後期から、明治大正昭和にかけての生活が窺える。興味深かったのは、防空壕があったことである。
昭和20年には、岡山市や水島も空襲を受けた。幸いに野﨑家住宅は戦災を免れた。
味噌納屋には、米を発酵させて麹を作るための部屋があった。明治時代に作られた麹製作用の木箱が積まれていた。
人間が生活する家には、様々な工夫がなされ、時代と共にどんどん快適になっている。こんな広壮な野﨑家住宅だが、便利さと快適さでは現在の一般民家の方が格段に上だろう。
立派な城郭や寺社もいいが、人が生活する一般住居の歴史を辿るのも一興かも知れない。