志染の岩室

 兵庫県三木市志染町井上に、千体地蔵と言われる地蔵群がある。

 中心にある地蔵尊は、山から突き出た砂岩に刻まれたものである。

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千体地蔵中央のお堂

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地蔵尊

 この地蔵尊は、伝承によれば、天平三年(731年)12月に行基菩薩が彫ったものとされている。しかし実際の製作年代は不詳である。

 室町時代のころから、子安地蔵として信仰を集め、いつしかこの地蔵尊の周囲に多数の地蔵尊が奉納されて、今のように無数の地蔵尊が集まる場所となった。

 地蔵尊が彫られた砂岩には、よく見ると、地層がそのまま残っている。これはこれで面白い。

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千体地蔵

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 数多い地蔵菩薩を見ると、何かに祈らずにはいられない人間の性を思い知る気がする。

 三木市志染町窟屋には、記紀にも書かれている志染の窟屋(しじみのいわや)の伝承地がある。

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志染の岩室

 第21代雄略天皇は、ライバルとなる皇族を次々と殺害して帝位についた天皇である。「日本書紀」によれば、雄略天皇の諱(いみな)は大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)と言う。

 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣や、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の鉄刀には、「獲加多支鹵(わかたける)大王」と刻まれている。

 これらの古墳の築造年代は、5世紀後半である。これらの鉄剣や鉄刀の銘のワカタケルが雄略天皇の諱と一致するため、雄略天皇が5世紀後半に実在した天皇であるとする説が有力である。

 また雄略天皇は、『宋書』・『梁書』における「倭の五王」中の倭王「武」にも比定されている。

 5世紀には、第16代仁徳天皇の子である三兄弟が皇位に即いた。第17代履中天皇、第18代反正天皇、第19代允恭天皇である。允恭天皇の子の安康天皇が第20代の天皇となった。

 安康天皇は、眉輪王に暗殺されたことで有名だが、自分の次は、履中天皇の子である市辺押磐皇子皇位につけようとしていた。安康天皇から見れば、市辺押磐皇子は従兄である。

 これをこころよく思わなかったのが、安康天皇の弟である大泊瀬幼武尊即ち後の雄略天皇である。

 大泊瀬幼武尊は、市辺押磐皇子を猟に誘い、猪がいると偽って射殺してしまう。また、市辺押磐皇子の弟の御馬皇子も謀殺して、混乱に乗じて帝位に即く。

 市辺押磐皇子の子の億計・弘計(おけ・こけ)は、見つかれば確実に雄略天皇により殺害されてしまうため、播磨国明石郡に逃亡し、身分を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の下で牛馬の世話をしながら過ごした。

 この億計、弘計が隠れ住んだのが、志染町窟屋にある志染の岩室とされている。

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窟屋の金水

 志染の岩室の内部には、湧き水が溜まっている。この水には、ひかり藻が生息している。

 春になると、ひかり藻の作用で、水が金色になる。これが窟屋の金水と呼ばれているものである。

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 近年、水が金色になることは稀であるそうだが、私が見学に訪れた時には、ひかり藻

が金色になっていた。

 かつてここに億計・弘計の兄弟が隠れ住んでいたのだ。

 さて、雄略天皇の後を継いだのが、雄略の子の第22代清寧天皇である。しかし、清寧天皇には子が出来なかった。ここに皇統断絶の危機が訪れた。雄略天皇が、ライバルの皇族を悉く殺害したために、継承者がいなくなっていたのである。

 そんな時、後の播磨国司山部連(やまべのむらじ)の祖、久目部小楯(くめべのおだて)が、縮見屯倉首の新居での酒宴に参じた。

 この時、弟の弘計は、兄の億計に、「災いの時代(雄略天皇の代)が過ぎてしばらく経った。今こそ名を現わす時だ。今宵こそその時だ。」と進言する。反対する億計に対して、弘計は、「われわれはイザホワケ(履中天皇)の孫だ。それがここで牛馬の世話をして終わるなら、死んだも同然ではないか。恐れることはない。」と説得する。

 久目部小楯の前で二人は舞いながら歌を歌った。そして歌の中で、弘計が「我々は市辺押磐皇子の裔である」と明かす。

 驚いた小楯は、二人の前に拝跪し、清寧天皇に皇孫が生存していたことを報告する。清寧天皇は喜んで億計・弘計を皇子として迎えた。

 勇気を出して身分を明かすことを決意した弟の弘計の方が先に天皇となる。第23代顕宗天皇である。兄の億計は第24代仁賢天皇となる。

 しかしその後、仁賢天皇の子の第25代武烈天皇にも子が出来ず、ここに第16代仁徳天皇以来の系統は断絶する。

 第26代天皇として北陸から迎えられ、即位したのは、第15代応神天皇の5世の孫である継体天皇である。「皇統譜」を辿れば、今の皇室は、応神天皇に結び付く。応神天皇が、八幡神として各地に祀られているのも、これに関係があるのかも知れない。

 和気清麻呂が、皇統維持のご神託を授かったのも、宇佐八幡宮である。

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 現代も皇統断絶が危ぶまれている。女系天皇の容認や、皇籍離脱した旧宮家皇籍復帰など、議論が盛んである。

 この後どうなっていくかは分からないが、私は日本の歴史を顧みて、案外安心している。 

 皇室が日本の象徴として君臨する根拠は、憲法上は「日本国民の総意」となっているが、私は文化上は今でも皇室が日本の神々の子孫とされていることにあると思っている。

 これは冗談ではなく、現実に宮内庁が保管する公文書である「皇統譜」には、世系第一世として天照皇大神が記載されている。つまり、天皇が日本の神々の子孫であることは、現在でも日本政府の公式見解なのである。制度の違いこそあれ、今の日本政府が、奈良時代に「日本書紀」を編纂した政府と同一であることがこれで分かる。

 もし皇室に聖性がなく、我々一般の国民と同等の存在であるならば、国民の象徴として君臨する必然性がそれこそ無く、国民の中の人気者を選挙で選んで日本の象徴にしてもいいことになる。皇室が君臨する根拠は、あくまで聖性にしかない。
 聖性のある存在を世襲制によって国の元首にする形がよいのか、選挙で選ばれた代表を国の元首にする方がよいかは、色々議論があるだろうが、私は国家の中心に、無私に徹して国民の幸せを祈る存在がいた方がいいのではないかと思っている。