牛窓の古墳 疫神社

 前島からフェリーに乗って牛窓に戻る。

 本蓮寺の裏手にある天神山には、天神社があり、その裏に牛窓天神山古墳がある。

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天神社

 天神社は、天神様である菅原道真を祀っている。

 道真が太宰府に左遷された時、途中牛窓に立ち寄って、この山の岩に腰かけて、はるかに讃岐の島山を望み、讃岐守だった若いころを思い出し、さめざめと涙を流したという。

 道真の死後、道真を慕う里人が、腰掛岩の跡に社を建てた。それが天神社の創建である。

 道真公が太宰府に向かう途中に立ち寄った場所が、ことごとく聖蹟となって社が建っているのが面白い。

 さて、天神社の裏にある牛窓天神山古墳は、4世紀後半ころの前方後円墳で、全長85メートルである。

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後円部

 前方後円墳の形は、鬱蒼と茂る木々のため、はっきりと認識できない。

 後円部の頂上には、竪穴式石槨の一部と思われる石が露出している。

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後円部から前方部を写す

 後円部から前方部には一条の道が通っている。道の先まで見ると、大きな古墳であると分かる。

 朝鮮半島にある広開土王碑によれば、西暦391年に倭の大軍が朝鮮半島に上陸し、百済新羅加羅を服属させたとある。

 神功皇后が実在の人物かは別にして、神功皇后が活躍したとされる時代と広開土王碑記載の時代は重なる。神功皇后の朝鮮征伐に符合する軍事作戦が実際に行われていたのである。

 倭国は、4世紀後半には、海外で大規模な軍事作戦を展開できる国力を有していた。牛窓天神山古墳も、そんな時代に築かれた古墳である。

 瀬戸内海航路は、当時の政治の中心である畿内と、先進文化が渡来する九州北部を結ぶ大動脈である。瀬戸内海沿岸に古墳が多数あるのは、当然のことだろう。

 牛窓町紺浦には、疫神社(素戔嗚神社)がある。

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疫神社

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拝殿

 疫神社には、唐子踊(からこおどり)という踊りが伝承されている。秋祭りの際に奉納される稚児舞で、紺浦地区の2名の男子が、鮮やかな色彩の異国風の衣装を身にまとって、小太鼓や横笛、歌(歌の意味は不明)に合わせて踊る。岡山県指定重要無形民俗文化財となっている。

 踊り手の男子は、6~7歳の子が2名選ばれ、11~12歳になると次に選ばれた2名と交替する。

 牛窓海遊文化館には、唐子踊の人形が展示されていた。

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唐子踊の人形

 社伝では、神功皇后三韓から捕虜として連れ帰った王子がこの地で踊ったものが伝えられたとしている。

 衣装や歌、踊りの動作からして、李氏王朝の朝鮮の色合いが強いので、朝鮮通信使が伝えたものではないかとも言われている。

 実際のところはよく分かっていない。しかしこの踊り、一度見てみたいものだ。

 牛窓町鹿忍に行くと、鹿歩山古墳がある。

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鹿歩山古墳

 鹿歩山古墳は、5世紀前半ころの前方後円墳である。全長は約84メートルである。

 周囲には周濠が掘られている。写真では伝わりにくいが、かなり明確な周濠の跡がある。

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周濠

 周濠の向こう側には、前方部があるが、後円部には藪が邪魔して行くことが出来ない。

 前方部のふくらみが確認できただけである。

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前方部

 前方部の上には、内部が空っぽの祠があった。

 鹿歩山古墳の南側の山中にあるのが、二塚山古墳である。

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二塚山古墳

 道路から山中に入るが、墳丘の形はなかなか認識できない。

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二塚山古墳

 二塚山古墳は、6世紀後半に築造された古墳で、牛窓沿岸の古墳では、最も新しい。全長55メートルの前方後円墳である。

 牛窓地域が、日本の黎明期から開けていて、朝鮮通信使が伝えた文化が残っていることが分かった。

 古くから人々が船で牛窓沖を行きかい、牛窓に寄港した。海が伝えた文化は、今もこの町に息づいている。