魚住の泊 明石原人

 兵庫県明石市大久保町江井島にある江井島港は、沖に淡路島を望む風光明媚な漁港である。

 江井島港は、行基菩薩が開いた摂播五泊と呼ばれる古代の港の一つ、魚住の泊があった場所である。

 ちなみに摂播五泊は、室生泊(たつの市御津町)、韓泊(姫路市的形町)、魚住泊(明石市大久保町)、大和田泊(神戸市兵庫区)、河尻泊(尼崎市神崎町)の5つである。

 行基は、寺院だけでなく、港も築造した人だったようだ。

 今の江井島港には、魚住の泊のモニュメントが建っている。

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魚住の泊のモニュメント

 魚住の泊は、江井島に流れ入る赤尻川の河口に、石椋で築島を造って港としたものである。

 平成に入ってからの江井島港の物揚げ場築造工事で、石椋として使われた玉石が多数発掘された。これにより、江井島港のある場所が、古代の魚住の泊のあった場所と特定された。

 モニュメントの土台部分に、この玉石が埋め込まれている。

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モニュメントの説明

 モニュメントの説明板には、2月17日の「中尾住吉神社」の記事で紹介した笠金村の万葉歌が記載されている。

 明石の浦から眺める海の姿は、沖に淡路島を控え、きらきらと輝いて、切ない美しさだ。笠金村が「見ていて飽きない」と歌ったのも分かる気がする。

 江井島港から東に行き、明石市大久保町西八木に至る。海沿いの遊歩道沿いのフェンスに、「明石原人」腰骨発見地の説明板が掲げられている。

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明石原人腰骨発見地

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 昭和6年に、明石で転地療養をしていた直良信夫が、西八木の屏風ヶ浦で人類の腰骨を発見した。

 直良は、旧石器時代人の腰骨と思い、この骨を東京大学人類学教室の松村瞭教授に送り鑑定を依頼した。だが松村は何の評価もせずに「大事に保管するように」と手紙に書いて送り返した。

 東京に転居していた直良の自宅は、昭和20年5月の空襲で焼けてしまった。自宅に置いていた腰骨は、この時に失われてしまった。

 兵庫県立考古博物館には、この腰骨のレプリカが展示してあった。

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「明石原人」の腰骨のレプリカ

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直良信夫と当時の屏風ヶ浦の写真

 しかし昭和23年、東京大学教授長谷川言人は、大学に残っていた腰骨の石膏模型を検討して、原人の骨と認定し、明石原人と名付けた。

 人類は、猿人、原人、旧人、新人と進化してきたとされている。原人は、180万年前から数十万年前まで地球上に生息していた人類と言われている。

 石器や火を使用していたが、脳の容積は、我々現生人類の3分の2から4分の3ほどの大きさだったという。

 アジアでは、北京原人ジャワ原人の化石が発掘されたが、彼らは現生人類の直接の祖先ではなく、絶滅したとされている。

 その原人の化石が日本から発掘されたとしたら、驚きの事実である。

 だが昭和57年には、東大教授遠藤萬里らによって、「明石原人」の腰骨は、実は縄文時代から現代までの人類の骨であると結論づけられた。

 昭和60年には、国立歴史民俗博物館の春成秀爾により、人骨発見地で発掘調査が行われた。その結果、人骨は発見されなかったが、6~12万年前の地層から加工された木材片が出土した。

 6~12万年前であれば、原人ではないにしても旧人が住んでいた可能性はある。

 結局、肝心の腰骨の現物がなくなった今となっては、直良が発見した骨がいつのころの人類の骨かは分からない。

 ここに原人が住んでいたかどうかは永遠の謎になってしまった。

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明石の海

 昭和60年、亡くなる直前の直良に対し、明石市は文化功労章を送った。病床の直良は、記念のメダルを娘の手から受け取った翌日、静かに息を引き取った。

 「明石原人」腰骨発見地前の堤防に登って海を眺める。沖合には多くの船が浮かんでいる。

 数万年前のことになると、当時の単なる日常的な生活も、現代人からすれば大いなる謎となる。我々が生きている平凡な日常も、数万年後の人々からすれば(その時に現生人類が生存しているかはわからないが)、大いなる謎であろう。