住吉神社に祀られる住吉大神は、航海の神である。神功皇后は朝鮮征伐の際、軍を率いて、摂津から船で瀬戸内海を通って筑紫まで行き、玄界灘を越えて半島に渡った。
途中、航海の安全を祈って、瀬戸内海沿岸各地に住吉大神を祀った。明石市魚住町中尾にある住吉神社もその一つである。
摂津の住吉大社に伝わる、「住吉大社神代記」によれば、住吉大神が、「播磨の国に渡り住はむ。藤の枝の流れ着いたところに我をいわい祀れ」と託宣したという。住吉大社から藤の木を流すと、この中尾の地に流れついたそうだ。
その後、神功皇后が朝鮮征伐の際、ここに立ち寄り、神籬を立てて海上平穏を祈願した。
雄略天皇八年(464年)に、住吉大社から住吉大神を勧請して、神社を創建した。これが中尾住吉神社の由来である。
神社の目の前には、播磨灘が広がる。海に面して松林が広がり、その奥に、山門、楼門、能舞台、拝殿、本殿が一直線に並ぶ。
鳥居には、貞享四丁卯年(1687年)の銘がある。
鳥居を潜り、山門をまたぐと、慶安元年(1648年)に建立された楼門がある。山門のすぐ近くに建てられているので、正面から全体像を写すことは出来ない。
楼門の中には、木製の狛犬がある。
由来は分からぬが、元々は鮮やかに彩色されていたものであると思われる。
楼門を入って、正面に見えるのは、能舞台である。
この能舞台は、棟札により、寛永年間(1624~1644年)に初代明石城主小笠原忠真が建てたものということが分かっている。現存する能舞台は、正徳三年(1713年)に再建されたものである。
近代になって付けられたものだと思うが、洋風の鋳物が飾られていてモダンな感じがする。
神社の能舞台は、祭神に能や舞を奉納するためにある。そのため、拝殿に向かって建てられている。毎年5月1日には復活能が上演される。
海に近いこの能舞台で、月夜に能が上演されるところを想像すると、鳥肌が立つほど神々しい情景が浮かぶ。
拝殿は、鉄筋コンクリート製である。
拝殿の中には、魚住町西岡出身の江戸時代の画家石田幽汀の次男石田遊汀が描いた「加茂競馬(かもくらべうま)の図」が奉納されている。
また、文政二年(1819年)に奉納された大和型船模型が吊るされている。文化文政期の大型大和船の正確な模型であるらしい。
拝殿の背後には、住吉三神と息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后のこと)を祀る本殿が四つ並ぶ。
千木の形を見ると、向かって最も左側の本殿が、女神つまり神功皇后を祀る本殿であることが分かる。
本殿の裏手には、藤棚がある。中尾住吉神社の創建説話に出てくる藤の木が神木として植えてある。
この藤は、明治中頃に、中尾村の西海音助宮総代が名木を探して献樹したものだそうだ。毎年5月初旬の満開のころには、参拝客が多く来るそうだ。
境内を出て、鳥居に戻ると、鳥居の向こうに広がる播磨灘が見えた。
鳥居の脇には、笠朝臣金村が歌った、「万葉集」巻六第937首の、
往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅(なきすみ)の 船瀬の濱に しきる白波
の歌碑が建っていた。
歌意は、「行き帰りにいくら見ても飽きることがない。魚住の船着き場の浜にしきりに打ち寄せる白波は」というものである。
神亀三年(726年)、聖武天皇の印南野への行幸に付き従った笠朝臣金村がこの地で歌った歌である。笠金村は、山部赤人と共に、当時の宮廷歌人として活躍した人物である。
海と浜と松原。大阪の住吉大社周辺の昔の環境と同じである。
播磨灘沿岸は、昔は砂浜と松原が延々と続いたと思われる。須磨や舞子の海岸にその名残がある。
古代の航海者にとって、瀬戸内海沿岸は、自然の優しさを感じる懐かしい風景だったのではないか。