大中遺跡公園の中に建つ兵庫県立考古博物館は、兵庫県の遺跡から発掘された考古資料等を展示する博物館である。平成19年に開館した。
考古博物館は、高床式倉庫を模した塔を持つモダンな建物である。
館内は、無料ゾーンと有料ゾーンとに分かれており、子供連れでも楽しめる体験コーナーもある。
無料ゾーンの壁には、縄文時代から幕末までの陶磁器が展示してある。
磁器が登場するのは、江戸時代に入ってからである。秀吉の朝鮮出兵の際に、半島から連れてきた朝鮮の陶工が、九州で伊万里焼や薩摩焼といった磁器を作り始めた。
現代人が使う食器は、ほとんどが磁器かガラス器である。それ以前の日本の食卓の姿は、今とはかなり様相が異なっていたことだろう。
今から2万5千年前の日本では、環境を激変させる出来事が起こった。姶良カルデラの噴火である。
姶良カルデラとは、今の鹿児島湾北部(桜島より北側)において、直径約20キロメートルの窪地を形成する巨大カルデラである。実は、鹿児島湾の北半分は、マグマの噴火口なのである。
姶良カルデラの噴火により、膨大な灰が噴出され、西日本から関東までが火山灰で覆われた。日本列島はその後寒冷化し、それまで日本に生息していたナウマンゾウが絶滅した。
西日本の地面を掘れば、姶良カルデラから噴出された灰が一定の年代の層に堆積しているのが分かる。
この噴火を境に、日本の動植物の種類にも変化があった。ナウマンゾウが絶滅した代わりにイノシシやシカが増えて、狩りの対象が変化した。石器の形も変化していった。
考古博物館には、ナウマンゾウを狩りする人間の等身大の模型が展示してある。
現代からすればゾウが日本列島にいたというのは想像もつかない。逆に考えれば、今から2万5千年後の日本列島の姿も想像がつかない変化をしていることだろう。
ゾウ狩りだけでなく、石器時代の漁業の姿も再現されていた。
当時には、既に鹿の骨で製作した釣り針や、軽石の浮き、石の重りなどがあったようだ。
獣肉と魚肉は、当時の貴重な蛋白源であった。
弥生時代になると、大陸から伝わった農業が列島に広がっていく。農業の器具も変化していく。
鉄器が普及する前の鋤や鍬は、木製であった。稲穂を収穫する際に摘み取る包丁も石包丁や木の包丁であった。
道具が原始的だと、作業効率も上がらない。食糧生産も増大しない。食糧生産量は、当時の人々の生死に直結する。
収穫を左右する天候がよくなるように、神々に祈る祭祀が行われるようになる。
青銅が大陸から伝わり、銅鐸や銅剣といった祭祀の用具が造られるようになる。銅剣を模した石剣や木剣が登場する。
また土器には、毎年角が生え変わる鹿が田畑の恵みの象徴として描かれた。
弥生時代になると、鉄器が列島に伝来する。鉄器は、農作業の効率を劇的に上げた。斧はそれまでは石斧であったが、鉄製の斧となり、格段に威力が増した。
田畑を作るために森林を切り開いただろうが、斧はそのために必要な道具である。鉄を加工するには、炉の温度を上げるために燃やすための豊富な木材が必要である。豊かな森林がある日本列島は、鉄の加工に向いた土地柄だろう。
人間は、道具を工夫して作り出して、それを用いて共同作業することによって、大量の食料を安定して得て、人口を増やすことができた。
進化論の考えでいけば、効率の良い道具を考え出して、仲間同士で助け合う共同作業をよく行った人々が、環境の変化から生き延びて子孫を残すことができた筈である。
我々はそうやって生き延びた人々の子孫である。我々が道具が好きで、仲間や社会から離れて生きると不安になり、社会に貢献したいと思うのも、我々に流れる血のためである。
我々が物欲や人間関係の悩みや、人の役に立ちたい気持ちを持つのも、全て先祖の生存競争と環境適応の結果なのかも知れない。