昭和37年6月に、兵庫県加古郡播磨町の播磨中学校の生徒3名によって発見されたのが、播磨町大中にある大中遺跡である。
10年に渡る発掘によって、大中遺跡は、弥生時代後期(3世紀)を中心に栄えた集落遺跡であることが分かった。
3世紀と言えば、邪馬台国の時代である。倭国連合とも呼ばれる首長連合が出来ていたと言われている。
大中遺跡は、そんな時代の遺構である。
現在の大中遺跡は、公園として整備されている。園内には当時の住居が再現され、播磨町郷土資料館や兵庫県立考古博物館が併設されている。
遺構復元ゾーンには、復元された3世紀の住居や、発掘された竪穴住居の跡が展示されている。
大中遺跡では、大量に廃棄された土器の下から住居跡が見つかった。使わなくなった竪穴住居の穴に土器を捨てていたものと思われる。
そんな土器群の下から見つかった住居跡が、第1土器群下住居跡である。
写真のように、竪穴は長方形で、柱が2本しかなく、長方形の短辺にベッドのようなへこみがある。
この住居跡に建っていた住居が復元されている。
2本の柱だけだと、建物が安定しないのではないかと思えるが、部屋のスペースは広く活用できそうだ。このような簡単な構造の住居跡は、非常に珍しいらしい。
夜になると、出入り口の戸は閉められたことだろう。
トイレや水はどうしていたのだろう。当時は井戸もなかっただろうから、河や池から水を汲んで、土器の甕に溜めていたのだろう。
住居内で調理をすれば、煙が充満したことだろう。弥生時代の生活を想像するのは面白い。
大中遺跡公園には、復元された住居が多数あって、歩くとさながら古代の集落に入り込んだようだ。
また、1101号住居と呼ばれる弥生時代後期の復元住居は、埴輪や銅鐸によく描かれている住居のような形をしている。
1101号住居の床は、土床であるが、奥に炊事場と思われる二段になった穴があり、その左右に河原石が2個置かれている。当時の何らかのまじないであったと思われる。
大中遺跡の道路を挟んで西隣には住吉神社があり、その横には潰目池がある。潰目池の池底から、縄文時代以前の先土器時代の磨製石器が見つかっている。山之上遺跡という。
住吉神社の境内に、山之上遺跡を示す説明板が立っている。
土器のない時代には、煮炊きができないから、生肉か焼いた肉か、調理せずにそのまま食べられる木の実や果物を食べていたことだろう。
土器の発明は、生活水準を劇的に上げた、画期的な出来事である。
播磨町郷土資料館には、山之上遺跡から発掘された石器や、大中遺跡から発掘された土器や銅鏡などが展示されている。
石器は、固いサヌカイト製が多かったそうだ。矢の先につける石鏃も、サヌカイト製で、矢の本体は針葉樹か竹が使われた。
農業がまだ行われず、土器で煮炊きも出来ない時代にエネルギー源になるのは、やはり鳥獣や魚の肉だったろう。
土器が使えるようになってからは、ドングリを煮て渋みを取ってから食べることが出来るようになった。
そうなると、木の実でも相当食いつなげる。
先土器時代の過酷な生活を想像した後に大中遺跡から発掘された弥生式土器を見ると、相当生活水準が上がっていると感じる。
弥生時代には、農業が始まっているので、食糧事情は以前よりは安定していたことだろう。そうなると、人口が増え始める。
弥生時代の食事を再現したものが展示されていたが、正直言って美味しそうである。ただ当時は調味料がほとんどなかっただろうから、味は薄かっただろう。
播磨町郷土資料館の展示で一番驚いたのは、弥生時代にタコ壺漁が行われていたということである。土器でイイダコ壺が製作されていたようだ。
今は大中遺跡のある辺りは、海岸線から離れているが、当時は海岸の近くにあったものと思われる。
そして、イイダコ壺は、普段は紐で竪穴住居の柱からぶら下げていたようだ。当時の生活が実感できる。
海岸沿いにあった大中遺跡の様子が模型で再現されていた。
また大中遺跡からは、内行花文鏡の破片が出土している。
このような内行花文鏡を用いていたのは、祭祀を行っていた人物であったろうと思われる。鏡は、当時のハイテク製品であっただろう。
文字のない時代の生活を想像するのもなかなか楽しいものである。当時から、人々が様々な工夫をして生活水準を上げて、現在に至ったことがよく分かる。
人間の生活の歴史は、工夫の連続の歴史である。継続した工夫と発展の跡を追っていくのも楽しいものである。