大塩平八郎の乱が世上を賑わした天保八年(1837年)、現在の兵庫県加古郡播磨町古宮に彦太郎という男子が生まれた。後、アメリカでジョセフ彦と改名した。
日本人として歴史上初めてアメリカの大統領と面会し、日本初の新聞を刊行した人物である。
彦太郎が13歳の嘉永三年(1850年)、彦太郎は船乗りの父と共に住吉丸という船に乗り込み江戸に向かった。
江戸で栄力丸という船に乗り換えた帰路、遠州灘に至った時、暴風雨に遭い、17名の乗員と共に約50日間漂流することになった。
彦太郎らは太平洋でアメリカの商船に救出され、サンフランシスコに運ばれた。ここから彦太郎の数奇な運命が始まった。
播磨町大中にある播磨町郷土資料館には、ジョセフ彦に関する資料が展示してある。
資料館には、彦太郎が乗船して遭難した栄力丸の模型が展示してあった。
アメリカ船に救助された彦太郎らは、サンフランシスコの地を踏んだが、当時日本との国交樹立、通商条約締結を目論んでいたアメリカは、彦太郎たちを送還する機会を日本と国交樹立するきっかけにしようとした。
彦太郎たちは、マカオまで移された。そこでペリー提督の艦隊と合流して日本に戻る手筈だった。しかし、ペリー艦隊のマカオ到着が遅れたため、彦太郎らは再びアメリカに戻った。
そのペリー艦隊が浦賀に現れた嘉永六年(1853年)、彦太郎ら18名は、アメリカの新聞に載った。まだまだアメリカにとって日本が未知なる国だったころだ。
彦太郎ら18名は、図らずも歴史上初めて写真撮影された日本人となった。
彦太郎は、サンフランシスコで税関長サンダースの知遇を得て、学業の支援を受け、英語を学んだ。
ワシントンでは第14代アメリカ大統領ピアースと会見した。
1854年、彦太郎はサンダース婦人の勧めでカトリックの洗礼を受け、ジョセフ彦と名乗るようになった。
1858年、ジョセフ彦はアメリカの市民権を獲得し、21歳となった翌1859年、アメリカ領事館の通訳としてハリスと共に来日した。
日米修好通商条約の締結にも通訳人として関わった。そのためか、ジョセフ彦は尊王攘夷派の志士に命を狙われ、文久元年(1861年)にアメリカに戻ることになる。この年は南北戦争が起こった年である。
アメリカに戻ったジョセフ彦は、リンカーン大統領と会見する。もちろん、リンカーンに会った日本人はジョセフ彦しかいない。
文久二年(1862年)、ジョセフ彦は横浜のアメリカ領事館に戻り、通訳を再び務める。
翌文久三年(1863年)には、米艦ワイオミング号に乗り、米英仏蘭連合艦隊と長州藩との戦争である下関戦争を艦上から目撃する。
祖国が砲撃されるさまをジョセフ彦はどう見たか。
元治元年(1864年)には、日本初の新聞である「新聞誌」を発刊(翌年「海外新聞」に改題)した。故にジョセフ彦は、新聞の父と呼ばれている。
慶応三年(1867年)の大政奉還後、ジョセフ彦は長崎に転居し、長州藩の代理人となる。
明治2年の版籍奉還後は、大蔵省に出仕し、大阪造幣局設立に尽力する。
その後のジョセフ彦は、国立銀行条例を作ったり、貿易会社を経営したりと多忙であった。
ジョセフ彦は、明治30年、60歳で東京で亡くなった。
そんなジョセフ彦が、明治3年に両親のために建てた墓が、播磨町北本庄の蓮花寺に残っている。
墓石の裏に英文でジョセフ彦が建立したことが記されている。
地元の人たちからは、「横文字の墓」と呼ばれている。
同じように漂流してアメリカに行ったジョン万次郎は著名だが、ジョセフ彦はあまり知られていない。私も「兵庫県の歴史散歩」下巻を読んで初めて存在を知った。
ジョセフ彦は、後に不平等条約として明治政府が改正に苦労した日米修好通商条約の締結という点で、日本の運命の転機に大きく関わった。
日本の歴史を思い返すと、面白いことに歴史の転機が常に船から来ていることに気づく。島国だから当たり前だが、鉄器や漢字や儒教や仏教やキリスト教や鉄砲や蘭学や明治の洋学は、全て船で日本にもたらされた。
鎌倉幕府が倒れるきっかけとなった蒙古襲来も、江戸幕府が倒れるきっかけとなった黒船来航も、大日本帝国の終焉の舞台である戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印式も、全て船が関係している。
平成に入って日本人の安全保障に対する考えを大きく変えた、北朝鮮による日本人拉致事件も船が関係している。
最近では、平成22年の尖閣諸島中国漁船衝突事件が、その後の日本の政治情勢を変えるきっかけになっている。
今やインターネットや飛行機で世界は緊密につながっており、安全保障面では弾道ミサイルや軍用機、ドローンの存在が大きくなっているが、未だに日本に到達する物理的に大きな力は、船からもたらされるものと思われる。
次に日本の歴史の転機となる出来事にも、必ず船が関係していると思う。