当ブログでは、令和元年9月8日の「姫路市御国野町」の記事で、播磨国分寺跡を紹介したが、今回は美作国分寺と国分尼寺の跡を紹介する。
岡山県津山市日上の字人神(にんじん)は、国分尼寺の尼寺(にじ)が転訛した字名だと伝えられる。
人神バス停のあたりが、かつて美作国国分尼寺があった場所とされている。ネットで調べると、人神バス停から約100メートル東の三角形の土地に、かつて国分尼寺の碑が建っていたようだ。
今は碑もなく国分尼寺の跡を表すものは何もない。ここに方一町ほどの寺域の国分尼寺があった。
天平十三年(741年)、聖武天皇は仏法の加護による国家の繁栄を祈願するため、全国に国分寺及び国分尼寺を建立させる「国分寺建立之詔」を発した。
この詔によって、全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)が造営された。
津山市国分寺には、現在も国分寺という寺院があるが、今の国分寺の西側の田んぼの広がる場所が、奈良時代に建立された国分寺の跡である。美作国分寺跡は、国指定史跡となっている。
昭和52~54年の発掘で、方二町の範囲に南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、中門と金堂が回廊で結ばれ、寺域の南東に塔が建つ標準的な国分寺式の伽藍配置の寺院があったことが分かった。
また、主な建物の基壇は、河原石で入念に仕上げられていたのが判明した。
発掘された瓦を研究したところ、奈良から招かれた瓦工人が造った美作国府の瓦と同じ平城宮様式のものであることが分かった。
金堂や講堂があった場所には、今は何も建っていない。
さて、国分寺跡の東側に建つ現在の国分寺(天台宗)は、境内が美しく整備されたお寺だった。
今の国分寺には、旧国分寺跡から出てきた建物の礎石が6つ残されている。古い石は、風格があるものだ。
旧国分寺は、薬師如来像をご本尊として行基菩薩が開基し、七堂伽藍を整備した。平安時代末期まで存続したが、承安二年(1172年)の兵火により、堂宇悉く焼亡した。
日本全国の国分寺も、概ね平安時代末期に滅んでしまったようだ。そう考えると、平安末期に流行した末法思想もあながち間違っていなかったのかも知れない。少なくとも、聖武天皇が理想とした仏法による鎮護国家構想は頓挫した。
元和九年(1623年)、津山藩主森氏によって、国分寺は再興された。現在の国分寺の堂宇は、文政十一年(1828年)に津山藩主松平氏の補助により建てられたものである。
境内の庭園は植木と庭石で美しく整備されており、ところどころに旧国分寺の礎石が置かれている。
寺内に咲く白い山茶花が美しかった。
また、屋根付きの回廊を控えた茶室があった。閑雅な空間であった。
私が境内を散策していると、尼僧から挨拶された。溌溂とした方であった。奈良時代から続く寺を後世に美しく伝えていく意気込みを感じた。
落陽の中の寺を散策しながら、一度挫折したとは言え、聖武天皇の理想はまだ消えずに残っているのではないかと明るい気分になった。