姫路から京都まで貫通しているのが、国道372号線である。姫路から加西市、加東市を抜けて、丹波篠山に至り、そこから京都府の亀山を通過して京洛に到着する。
高速道路を使わずに、車で播州から京都に行くには、神戸や大阪を通過するルートと、この国道372号線を使うルートと2つある。言うまでもなく、372号線の方が道は空いている。時間は多少かかるが、高速代を払わずに車で京都に行くなら372号線だ。数年後に私が京都の史跡巡りをする時に、何往復もするだろう。
国道372号線は、何も最近できた道ではない。古来から、丹波道(京街道)と言って、丹波を経由して京と播州を結ぶ道であった。
源平合戦で、源義経が播州に侵攻した時に通過したのもこの道である。
その丹波道を眼下に見下ろすのが、標高423メートルの三草山である。
交通の要衝である三草山は、源平が激突した三草合戦の舞台となった。
この山は、登山道も整備され、ハイキング客に人気の山である。
三草山に登るには、何通りかのコースがあるが、私は朝光寺拝観後に、近くの畑コースから登り始めた。
三草山は、山頂に三草山神社があり、山全体がご神体として崇められている。畑コースの登山道入り口にも、鳥居があった。
登山道が整備されていて登りやすい。中腹まで登ると、馬の鞍のような山頂部が見えた。
平資盛ら3千余騎の平氏の軍勢は、三草山西の山口に布陣し、丹波道を遮断した。義経率いる源氏の軍勢1万余騎は、丹波小野原に布陣していた。
寿永三年(1184年)2月4日、義経軍は、2日かかる丹波道の道のりを1日で駆け抜け、合戦は明日になるものと油断して休憩していた平氏軍を、夜闇に乗じて奇襲した。
「平家物語」巻第九には、三草山合戦の条りをこう書いている。
思ひもかけぬ寅の刻ばかりに、源氏一万余騎、三里の山をうちこえて、西の山口へ押し寄せ、鬨をどつとぞつくりける。平家あわてさわぎ、「弓よ」「矢よ」「太刀よ」「刀よ」と言ふほどに、源氏、なかをざつと駆けやぶりて通る。「われ先に」と落ちゆくを、追つかけ、追つかけ、散々に射る。平家の勢、そこにて五百余人討たれけり。
「平家物語」は、それまでの仮名文字主体の和文に漢語を当てはめて、和文でも論理的な文章を書けることに成功した、日本の文の歴史の中でも画期となる作品である。現代の日本語の文章の原型は、この時代に成立したと言って良い。
しかも琵琶法師が語れるように、音楽的な名調子の文章となっている。「平家物語」は、まことに全編玉のような名文の連続である。読めば随喜の涙が流れる。現代語訳で読んでも、この名調子は味わえない。
この三草山の条り、義経軍の迅速さと、慌てふためく平氏の姿が、簡潔かつ音楽的な文で綴られている。
三草山山頂では、登山客がリラックスして休んでいた。山頂からは、四囲を眺めることが出来る。
東側の丹波側を眺めると、山が隆起しているのが分かる。丹波の山々だろう。
山頂には、赤松家が築いた三草山城の記念碑もあった。
建武三年(1336年)には、ここに赤松出羽守則友が城を築いていたらしい。
その後、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱の際に、赤松家討伐のため、京から播州に攻め寄せた幕府軍を防ぐために、赤松国祐が三草山城に配置された。
嘉吉の乱で赤松惣家が滅亡した後は、新たに播州守護となった山名持豊と、赤松家生き残りの赤松満政がここで争った。満政は破れ、一時赤松家の勢力は播州から一掃された。
山頂には、三草山神社の本殿があった。ささやかな本殿である。
数多くの武士たちが、古くからの要衝だったこの山麓で命を落としていった。そんな武士たちは、今の世をどう思っているだろうか。
高速道路の開通で、めっきり交通量は減ったが、今でも国道372号線は、播磨と京都を結んでいる。
普段何気なく通る道や、目にする山にも、数多くの歴史が秘められているのだ。