瀬戸内市 妙興寺 仲﨑邸

 備前福岡の町中にあるのが、日蓮宗の寺院、教意山妙興寺である。

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妙興寺山門

 寺伝によれば、赤松則興の追善供養のため、応永十年(1403年)に大教阿闍梨日伝上人により建立されたという。

 赤松則興なる人物は、調べてもよくわからない。赤松家の家系図にも出てこない名である。応永十年は、赤松惣家で言えば、赤松義則の時代である。

 ひょっとしたら、家系図に出てくる赤松氏のうちの誰かの別名なのかも知れない。

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妙興寺仁王門

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 妙興寺仁王門の中には、瀬戸内市指定重要文化財である金剛力士立像2躯がある。平成23~24年度の解体修理で、内部から銘文が発見され、寛永三年(1626年)に慶派仏師の清水源兵衛によって造立されたことが明らかになった。

 また、幕末から明治にかけての彩色修理は、播磨の塗師福原孝七郎、孝八郎親子が手掛けている。

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金剛力士立像

 杉材の寄木造で、目には水晶玉眼を嵌めている。鮮やかな彩色の像だ。

 私が訪れた時、寺は庫裏の修復工事中で、槌音が高かった。

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妙興寺本堂

 妙興寺には、宇喜多直家の父の宇喜多興家の墓と、黒田官兵衛の曽祖父黒田高政の墓がある。

 宇喜多直家の祖父宇喜多能家(よしいえ)は、赤松家家臣の浦上氏に仕えていた。能家は、邑久郡砥石城を拠点としていたが、天文三年(1534年)、同じ浦上家の重臣島村豊後守の攻撃を受け、城を枕に自害した。

 能家の子の興家は、当時6歳の直家を連れて、備後国鞆に落ち延びた。ほとぼりがさめたころ、備前福岡の豪商阿部善定の下に身を寄せた。

 興家は、善定の娘との間に、忠家、春家の2児をもうけたが、不遇のうちに天文五年(1536年)に福岡で没した。

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宇喜多興家の墓

 興家の没後、直家は善定や尼となっていた叔母の保護の下、福岡の地で少年時代を過ごした。 

 身寄りのない直家が、後年備前備中美作に覇を唱えるようになった。直家は乱世の梟雄と言われるが、かなりの才覚の持ち主だったのだろう。

 さて、興家の墓のすぐ奥には、黒田家の墓所がある。

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黒田家墓所

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黒田高政の墓

 ここ備前福岡の地で、黒田高政、重隆、職隆の三代が過ごした。黒田家雌伏の時代である。

 高政は、大永三年(1522年)にこの地で亡くなった。大永五年(1525年)、黒田重隆は、職隆を連れて播磨に移住し、御着城主小寺氏に仕え、姫路城を預かった。職隆、孝高(官兵衛)も姫路城守となり、孝高が姫路城を秀吉に譲った。

 宇喜多直家は、浦上氏に仕えて岡山城主となり、岡山発展の礎を築いた。

 城下町姫路の原型を築いた黒田氏は、関ケ原合戦後、黒田官兵衛の子長政が九州福岡藩主となり、今の福岡市発展の基礎を作った。

 そう考えると、今の姫路、岡山、福岡の三都市の発展の立役者の祖先の墓が、この妙興寺にあることになる。

 何だか愉快な気分になった。

 妙興寺を出て、北に行くと、福岡の大地主であった仲﨑氏の邸宅がある。平成25年から公開されている。

 土日のみの公開であり、私が訪れた月曜日は閉館日であった。

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仲﨑邸

 明治末から大正初年にかけて、約10年かけて建設された邸宅で、築100年以上となる。

 仲﨑邸は、敷地300坪を誇り、広い中庭や離れもある。国登録有形文化財となっている。

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仲﨑邸

 仲﨑邸の南側には、備前福岡の七つ井戸の一つがあった。備前福岡には、七つの小路があり、小路ごとに井戸が一つ掘られた。

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七つ井戸

 これらの井戸は、飲用などの生活用水や消火用水として使われた。各戸に水道が引かれていなかった時代には、住民は皆桶を持って井戸に水を汲みにやってきた。住民にとって、井戸は社交や情報交換の場であった。

 七つ井戸は、大正末年ころまで使われたという。

 宇喜多興家や黒田高政の墓を見て、備前福岡が各地の情報収集をするのに好適地だったと分かった。

 当時山陽道随一の市が立った福岡にいれば、商売で日本各地を歩いた商人から、山陽道沿いや日本各地の情報を得ることが出来たことだろう。

 雌伏していた宇喜多家や黒田家は、ここで情報を得ながら、雄飛の好機を窺っていたことだろう。

 ある家族の動向が、その後の日本有数の都市の発展にまで関わることを思うと、歴史というのはつくづく興味が尽きないものである。