虫明 長島

 岡山県瀬戸内市邑久町虫明は、古くから風待ちの港として栄え、江戸時代には岡山藩池田家の筆頭家老伊木氏が陣屋を設け、沿岸警備に当たった。

 JA裳掛支所の北側にある工場の辺りが、茶屋と呼ばれた伊木氏の陣屋があった場所である。

 工場の中に、「伊木氏茶屋跡」の石碑が建っている。

f:id:sogensyooku:20200111191322j:plain

伊木氏茶屋跡の石碑

 伊木氏は、元々香川氏を名乗っていた。尾張の出である。初代忠次は、信長に仕え、永禄四年(1561年)に美濃伊木山城攻略戦の功により、信長から伊木姓を賜った。

 伊木忠次は、信長の家臣である池田家に仕えるようになった。

 戦国の世が終わりを告げ、徳川の時代となった。寛永九年(1632年)、池田光政岡山藩主になると、伊木氏三代目忠貞は、藩主から邑久、上道、和気、浅口の各郡を任せられた。

 忠貞は、交通の要衝である虫明の地に陣屋を設け、家老職以下家臣50数名を駐在させた。以後230年間、虫明は伊木氏の陣屋町となった。

 伊木氏茶屋跡の石碑から東に行く通りは、かつて武家屋敷が立ち並んでいた。今は古い建物は少ないが、武家屋敷の土塀は残っていた。

f:id:sogensyooku:20200111192349j:plain

武家屋敷の土塀

 この伊木家の墓所が、伊木家菩提寺である興禅寺裏山の千力山と、対岸の長島にある。

 興禅寺は、現在は廃寺となっている。無人の寺の前に薄が生えるばかりである。

f:id:sogensyooku:20200111192612j:plain

興禅寺

 興禅寺裏の千力山には、伊木家第3,4,8,11,12,13代の墓がある。

f:id:sogensyooku:20200111192801j:plain

伊木家墓所登り口

 この中で、虫明に陣屋を構えた第3代伊木忠貞の墓所を紹介する。忠貞の墓は、奥方の墓と並んで建てられている。御影石製なのか、あまり風化しておらず、彫られた文字もはっきり見える。

f:id:sogensyooku:20200111193221j:plain

伊木忠貞の墓

 約350年前の墓と思えない美しさだ。

 虫明の対岸にある長島には、ハンセン病の国立療養所である長島愛生園と邑久光明園がある。

 ハンセン病は、かつては「らい病」と呼ばれていた。らい菌に感染することにより発症する。発症すると、末梢神経が麻痺し、体の一部が変形するなどの後遺症が残る。

 らい菌の感染力は極めて弱く、例え感染したとしても発症することは稀である。栄養状況や衛生状況によって左右される。現在の日本の衛生状況ならば、らい菌に感染したとしても発症することはまずないと言われている。

 しかし、明治期の日本では、らい病は、コレラやペストと同じく感染性の強い疫病であると誤解された。患者だけでなく、患者の家族も差別され、婚姻を拒まれたりもした。

 昭和6年には、全ての患者を療養所に収容することを義務付けた「癩予防法」が成立する。昭和28年には、「らい予防法」に改正された。

 この法律の問題点は、患者の退所規定がなかったことである。一度療養所に収容されると、一生外に出ることが出来なくなった。この法律の存在が、ハンセン病が伝染病であるという世間の差別と偏見を強めたと言える。療養所で亡くなっても、家族の墓に入ることを拒まれた患者もいる。

 らい予防法が廃止されたのは、平成8年である。廃止後も、療養所に収容された患者は差別を恐れ、なかなか退所することが出来ないでいる。

 長島には、昭和5年に国内初のハンセン病国立療養所長島愛生園が出来た。その際、旧来からの島民は全員島から退去した。

 ハンセン病の国立療養所が2つある長島は、治療法が確立されるまで、患者と関係職員以外立ち入ることができない、本土から隔離された島であった。昭和63年に、ようやく長島と本土を結ぶ邑久長島大橋が開通した。この橋は、「人間回復の橋」と呼ばれている。

f:id:sogensyooku:20200111203146j:plain

人間回復の橋

 私は、らい予防法が廃止された平成8年にこの橋を渡ったことがある。当時の私は、運転免許取り立てで、車で遠くまで行けることにうきうきしており、550㏄の丸目のホンダ・トゥデイであちこちをドライブしていた。

 地図で見た長島が、ハンセン病の療養所のある場所であることを知らず、ただ面白そうだと思って訪れた。当時橋を渡ったところにあった詰所で止められ、追い返された。

 帰ってからこの島の来歴を知り、自分の不明を恥じた。

 あれから23年ぶりに橋を渡った。当時あった詰所は無くなっていた。

 長島には、先ほど説明した伊木家の墓所がある。第5,6,7,9,10代の墓がある。この墓所は、どの参考書を読んでも、ネットで調べても位置が分からなかった。邑久長島大橋を渡ったところにある島内地図を見て、ようやく場所が分かった。 

f:id:sogensyooku:20200111203732j:plain

伊木家の墓所(長島)

 印象として、石垣や土塀が築かれていて、千力山の墓所よりも手間がかかっていると感じる。

f:id:sogensyooku:20200111204318j:plain

第6代伊木忠興の墓

f:id:sogensyooku:20200111204409j:plain

第6代伊木忠興の墓

 周囲の土塀の大半は風化して崩れているが、一部残った土塀の上には、瓦が葺かれている。

 最も奥にあるのは、第9代伊木忠真の墓である。土塀で囲まれている。

f:id:sogensyooku:20200111204647j:plain

第9代伊木忠真の墓

f:id:sogensyooku:20200111204735j:plain

 長島は、東西に細長い。西側にあるのが、邑久光明園である。大阪の外島保養院が、昭和13年に当地に移転し、開園した。

f:id:sogensyooku:20200111204933j:plain

邑久光明園

 島の東側には、昭和5年に国内初のらい病国立療養所として開園した長島愛生園がある。同年に建てられた旧事務本館が、平成15年に長島愛生園歴史館としてオープンした。

 歴史館は、事前予約すれば見学することが出来る。ハンセン病と愛生園の歴史に関する資料が展示されており、広大な園内を巡る見学コースもある。語り部の語りを聞くコースもある。

 私が訪れたのは、月曜日で、開館していなかった。

 長島愛生園の手前に「この先立ち入り禁止」の看板があったので、そこで引き返した。

f:id:sogensyooku:20200111205418j:plain

長島愛生園の石碑

 長島愛生園の手前には、渚があって、そこから沖合の小豆島がよく見えた。私が長島を訪れたのは年末で、陽が穏やかに照っている日だった。

f:id:sogensyooku:20200111205935j:plain

長島の渚

 今は穏やかに陽に照り映えるこの海も、外界から完全に隔離されていたかつての患者たちからすれば、絶望の海だっただろう。

 今邑久長島大橋がかかっている水路では、島から脱出を図った患者が流されて水死したこともあるという。

 島内には、墓もあり、島外の先祖の墓に入ることすら出来なかった患者が眠っている。
 渚からの眺めは美しいが、心に痛みを感じる美しさであった。