兵庫県加東市社の佐保神社の東側には、かつての門前町の通りの面影を残す商店街がある。
佐保神社からその商店街を北上すると、すぐ左手に見えてくるのが、持宝院(真言宗)である。
持宝院には、関西建築界の父と言われる、武田五一(たけだごいち)が設計した大師堂がある。
武田五一は、明治5年に広島県福山市に生まれた。東京帝国大学を卒業した後、ヨーロッパに留学し、そこで近代建築を学んだ。昭和13年に没するまで、主に関西の数々の建築に携わった。当ブログで紹介したものでは、昭和8年に再建された書写山圓教寺摩尼殿が、武田五一の設計である。
大師堂は、大正15年の建築である。国登録有形文化財となっている。
大師堂で特徴的なのは、向拝がやたらと長いことである。武田が、何を思ってこんな長い向拝を設計したのかは分からない。
さて、堂内に入ると、先ず巨大な弘法大師像が目に入る。これも近代に造られたものだろうが、ユーモラスなお姿だ。
弘法大師空海は、日本が世界に誇る偉大な宗教家、思想家であると思うが、釈迦やイエスやマリアは別にして、実在の人物でこれほど像が造られた人というのは、世界を見ても稀なのではないか。
実在した日本人の中では、間違いなく弘法大師が一番であろう。
弘法大師像の頭上の天井は、立派な格天井である。
加東市には、武田五一が設計した寺院建築が多数ある。後々紹介していくことになるだろう。
さて、持宝院から更に約100メートル北上した場所に、臨済宗の寺院、観音寺がある。
ここは、加東市家原という地名である。
観音寺は、家原浅野家の菩提所として、貞享三年(1686年)に創立された。
寛文十一年(1671年)に、赤穂藩浅野家から加東郡内十一ヶ村3500石を分地された浅野長賢は、家原の地に陣屋を構え、旗本家原浅野家の祖となった。
観音寺は、創立以来、家原浅野家の香華所として崇敬された。
赤穂浅野家は、元禄十四年(1701年)の浅野内匠頭の殿中刃傷事件で断絶となったが、家原浅野家は廃藩まで7代約200年に渡り存続した。
弘化四年(1847年)、観音寺の住職であった善龍は、7代目当主浅野長祚と図って、観音寺境内に、赤穂浅野家4代の墓碑と四十七士の墓碑を建立した。
廃藩後、観音寺は荒廃したが、明治17年、西田玄孚尼によって再興された。
境内の奥には、四十七士の墓碑がある。とは言え、四十七士の墓は、東京都港区の泉岳寺にあるので、この墓碑は墓というより供養塔である。
墓碑が出来てから今日まで、毎年12月14日には、盛大に義士祭が行われてきた。
中央に浅野家四代の墓碑があり、向かって手前右側が大石内蔵助の墓碑、手前左側が大石主税の墓碑である。そして周囲を囲むように、他の義士たちの墓碑が並んでいる。自刃した義士の戒名の上には、「刃」の文字が彫られている。
中には、最近再建されたような新しい墓碑もあった。堀部安兵衛の墓碑などはそうである。
赤穂義士ゆかりの地は、日本各地にあって、そこでは毎年討ち入りの日に義士祭が行われている。
なぜ赤穂義士の話は日本人に好まれるのだろう。
主君の無念を晴らすため、それぞれ個性のある人たちが、吉良邸討ち入りという目標に向けてどんどん収斂して行く過程が面白いのだと思う。
そして、目標を達成してから、主君の墓に報告に行った後、潔く縛について自刃したという姿に人々は感動するのだろう。
後世の人々に影響を与える行動の第一条件とは、一つのことをとことんまでやり抜いたということだと思う。