以前、兵庫県高砂市米田町米田が宮本武蔵の出生地であるという説を紹介した。今回は、若いころ武蔵が修行を重ねた美作市宮本の地を紹介する。
美作市宮本には、武蔵の生家とされる家が伝わっている。
伝宮本武蔵宅の説明板によれば、武蔵の祖父は、竹山城主新免氏に仕えた平田将監で、実父は平田無二斎であるという。将監、無二斎とも十手術の達人で、新免氏の剣術指南であった。武蔵は、この家で生まれ、この地で育ったそうだ。
吉川英治の小説「宮本武蔵」は、この地に伝えられている伝承を採用した。小説では、平田氏は、主君から新免の姓を名乗ることを許されたと書いている。
武蔵の養子伊織が書いた、泊神社棟札によれば、武蔵は美作の新免氏の養子になったという。
武蔵は、宮本を名乗ると同時に、晩年になっても書簡に新免武蔵と署名したりしている。武蔵が平田姓を名乗ったことはない。平田氏が新免氏を名乗っていたかは分からない。
伝宮本武蔵宅は、平田無二斎が建てたとされている。昭和17年の火災で、茅葺屋根が焼け落ちて、今のように瓦葺の屋根になったが、大黒柱などは当時のものが使われている。
今でも平田氏の子孫が住んでおり、家の中は見学できない。私が訪れた時も、家人が玄関を出入りしていた。
伝宮本武蔵宅の前には、宮本武蔵生誕地の石碑が建っている。碑文は、熊本藩主の末裔、細川護成が揮毫している。高砂の宮本武蔵・伊織生誕地碑の揮毫者は、護成の孫の護貞であった。護貞の子が、かつて総理大臣を務めた細川護熙氏である。
この地が武蔵生誕地かどうかは分からないが、この地で武蔵が剣術修行をしたことは間違いないであろう。武蔵の初決闘の地は、宮本の村から近い兵庫県佐用郡の平福である。
伝宮本武蔵宅の隣には、讃甘(さのも)神社がある。
讃甘神社の鳥居は、扁額の上に屋根が載る特異な形をした両部鳥居であった。
神社の説明板によると、武蔵は幼少の頃、この神社の境内で遊び、神職が二本の撥を左右の手に持って太鼓を叩き、等しく音が出るのを見て感得し、二刀流を編み出したという。
讃甘神社は、讃甘郷の総鎮守で、祭神は大己貴命である。かつては荒巻大明神と呼ばれていた。
今の社殿は、嘉永三年(1850年)の建築で、その際郷社に列せられ、社名を讃甘神社に改めた。
今ある社殿は、武蔵が死んでから遥か後に再建されたものだが、ここは武蔵にとっても思い出深い社であったことだろう。
讃甘神社の道路を挟んで向かい側に、宿泊研修施設武蔵の里五輪坊がある。
敷地内には、武蔵の銅像が建っている。二刀流の姿である。
この宮本武蔵像は、文化勲章受章者で、日本芸術院会員であった彫刻家富永直樹の作で、平成7年に設置されたものである。
なかなか凛々しい武蔵像である。いずれはこの銅像も、歴史的文化財として評価される時が来るだろう。
武蔵の里五輪坊の中には、武蔵資料館という一室がある。
武蔵は、29歳の時に、巌流島で佐々木小次郎と対決した。それまで60余度無敗であったという。
その後は、全国で修行を重ね、50歳で兵法を極めたとされる。又、二天と称して書や画を描いた。二天の画は、非凡の作と思う。眼光炯々たる武蔵の眼が背後から浮かび上がってくるような画を描いている。
武蔵資料館には、そんな二天の画の複製品や、武蔵が使った武具などが展示されている。
「布袋観闘鶏図」の、達観した様子で闘鶏を見下ろす布袋の図は、武蔵の精神的高みを窺わせる。
枯木鳴鵙図は、渡辺崋山が購入したことで有名だが、高い枯木にとまる鵙の姿に、孤高の人武蔵が現前したかのような印象を受ける。
武蔵と言えば、佐々木小次郎との決闘で、木太刀を用いたが、武蔵が使っていた木太刀の複製が展示されていた。
武蔵が日本人にこれほど人気があるのは、剣の道を追求して、常人には計り難い達人の領域に達したからだろう。日本人には、鍛錬と工夫を重ね、一つの道を極めて、精神的高みに達した人を尊敬するところがある。
剣の道でなくとも、どんな職業や芸術でも、精進すればそれなりに見えてくるものがあると思う。ただ、自分が道を掴んだと思った時点で、それは道ではなくなるのだろう。道を究めたと思わずに、精進を続けていくしかない。
思えば日本人は、精進する自分の姿を武蔵に重ねているのかも知れない。