備前市の市街地は、山によって東西に分かれている。東側が片上、西側が伊部という地域である。伊部は、備前焼の窯元が多数軒を連ねる焼き物の町である。
今日は、片上で訪れた資料館と寺院を紹介する。
資料館は、備前市歴史民俗資料館である。
備前市歴史民俗資料館は、入場無料であった。1階には、発掘された古備前や、窯の模型などが展示されていた。
備前焼は、他の陶器と比べて高温で焼かれるので、固く焼き締められる。実は私は備前焼のこの固さがあまり好みではない。それでも、備前焼のどっしりした大壺だけはなぜか好きである。こういうものを庭先に飾りたいと思う。
備前焼は、形作った器に釉薬を塗らずに窯に入れ、そのまま焼く「焼き締め」という方法で作られる。焼くときに使う薪(赤松を使う)の灰が窯の内部で陶器にかかり、高温で溶けて流れる。それが焼き上がった時に陶器の景色を作り出す。これを灰釉という。この灰釉の生み出す景色は、窯の内部での偶然でしか出来ないので、備前焼が好きな人はそこが面白いという。
陶芸は、木火土金水(もっかどごんすい)の全てを使って器を作り出すという技術である。陶器は粘土と水で出来ている。釉薬には金属が入っている。陶器を焼く時は、木材を燃やし、火を起こす。出来た作品は道具であると同時に芸術品である。陶芸をやる私の知人は、陶芸を「究極の道楽」と言っていた。
私は陶芸をやらないが、やり始めたら面白いのだろうと思う。
資料館では、企画展として、戦時中の生活に関する資料を展示していた。
中でも目を惹いたのは、「火たたき」という、空襲で発生した火災を消火する道具である。
先端の藁縄で巻いた三角の部分に水をつけ、火を叩いて消火したのだそうだ。火たたきの現物が残っているのは、非常に珍しいらしい。戦争当時は一家に1本どころか何本もあっただろうが、戦争が終わればすぐに処分されただろう。歴史の証人の一つだ。
また、戦局が進むと、金属が不足してきたので、陶器で手榴弾を作ったようだ。備前焼の人間国宝山本陶秀も、軍の指示でだろうが、備前焼の手榴弾を作った。
ところで、当ブログは、戦争に関して、特定のイデオロギーには立たない。戦争賛美も単純な反戦もしない。
ただ、戦争という重たい人間の営為の中で、人々が生きたという事実を尊重するのみである。
1階廊下には、竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれる消火用のポンプが置かれていた。
てっきり大正時代ころの道具かと思ったら、明和元年(1764年)に江戸町火消に配られて、明治まで使われたそうだ。
2階には、備前出身の文学者や画家などに関する展示があった。
柴田錬三郎が三国志を小説にした「英雄ここにあり」は、私が中学時代に愛読した本だ。私の実家にあった「英雄ここにあり」そのままの装丁の本が展示してあった。昔読んだ本を目にすると、古い友人に会ったような気になる。本から「よお、その後どうだい」と声を掛けられた気分だ。
25年ほど前、戦後の文学者のインタビュー映像を並べたNHKの番組を観たが、その中で柴田が、「純文学をしようと思ったけど、純文学じゃ食えねえんですよ。だから時代小説を書いた」と口をへの字に曲げて言っていたのを思い出した。正直な人である。
さて、JR西片上駅から西に行くと、真言宗の寺院、真光寺がある。真光寺は、天平十一年(739年)に行基菩薩が開山したと伝えられる。備前四十八寺の一つである。
真光寺の仁王門と本堂や三重塔の間には、国道2号線が通っていて、寺域が分断されている。
仁王門は、朱色が鮮やかである。現在の仁王門は、正徳元年(1711年)の建立である。備前市指定文化財となっている。
仁王門を通って、国道2号線を跨ぐ歩道橋に登ると、国指定重要文化財の三重塔が見える。
三重塔は、建築様式からいうと、室町時代のもののようだ。元々牛窓の蓮華頂寺にあったものを、慶長十八年(1613年)にここに移築したらしい。翼を広げて今にも飛び立ちそうな形をしている。
内部には、桃山時代の仏師八木浄慶が三石のろう石で造った大日如来坐像が安置されている。
真光寺のもう一つの国指定重要文化財である本堂は、応永年間(1394~1428年)に三間の本堂として再建されたものを、永正十三年(1516年)に五間の本堂に大改修したものである。
重厚で渋い建物だ。
真光寺は、私が岡山市や倉敷市に車で出かける時に、いつも前を通っていた寺だが、改めて史跡巡りで訪れて見ると、なかなかいい寺であった。
普段何気なく通過している寺社に行ってみると、新しい発見があるかも知れない。