和辻哲郎生家、八葉寺

 姫路市仁豊野(にぶの)にあるJR仁豊野駅の東側に、大正から昭和にかけて活躍した哲学者、倫理学者の和辻哲郎の生家がある。

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和辻哲郎生家

 和辻哲郎は、「古寺巡礼」「風土」「日本精神史研究」「日本倫理思想史」などの著作で知られる。

 私が和辻の著作で最後まで読んだのは「日本精神史研究」くらいだが、和辻の著作には、いつか読んでみたいと思うものが多くある。「古寺巡礼」も、書店で立ち読みしたことがある。

 「古寺巡礼」は、大正八年(1919年)に出版された。前年に和辻が奈良や飛鳥の寺院を巡って、寺院建築や仏像を観た感想を書いた書物である。

 仏教寺院は、明治維新後の廃仏毀釈で、国家や世間から虐げられ、大正時代になってからも、一般には「ただの古ぼけたもの」ぐらいにしか思われていなかった。

 しかし、和辻の「古寺巡礼」によって、寺院建築や仏像を芸術作品として観るという視点が提供され、寺院が一挙に観光地として見直されるようになった。「古寺巡礼」は、昨今の寺院巡りブームの原点となった著作である。

 和辻は戦後、「国体は変更されていない」と象徴天皇制を擁護し、三島由紀夫の「文化防衛論」にも影響を与えている。

 和辻の生家は、医者の家であった。生家前には、「春の来た日に和辻哲郎ここに生まれる」と刻んだ石碑が建っている。

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和辻哲郎の碑

 ただ私は、若い和辻が晩年の鷗外の仕事を批判したのを面白く思う。

 私は、森鷗外を深く尊敬しており、特に晩年の史伝三部作と呼ばれる「澁江抽斎」「伊澤蘭軒」「北条霞亭」を至高のものと思っている。鷗外のこれらの著作は、江戸時代の儒者兼医者の伝記である。鷗外は、世間的に無名に近いこれら儒者の手紙や漢詩や日記類を集め、墓地に足を運んで墓誌を読み、更に子孫を訪ね当てて、子孫から家に伝わる口伝を聞いて、それら断片的な情報をつなぎ合わせて伝記を書いていった。

 鷗外の冷静で格に入った文章で、平凡な儒者本人やその家族、友人の日常が、資料を基にただ淡々と静かに書かれている。

 今ではネットの「青空文庫」で無料でこれら史伝を読むことができるが、読む人の大半が、「何だこれは」と思うであろう文章である。鷗外が史伝を東京日々新聞(今の毎日新聞)に連載していた時は、新聞読者から、あまりの面白みのなさと退屈さに「こんなものを載せるな」と非難が殺到したらしい。

 和辻哲郎も、鷗外史伝を批判した一人であった。和辻は、大正5年7月に雑誌「新小説」に発表した「文化と文化史と歴史小説」という文の中でこう書いた。和辻27歳の時である。

私は部分的にしか 読まなかった「澁江抽斎」をここで批判しようとは思わない。(略)私は澁江抽斎にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は「掘り出し物の興味」である。しかし埋没されていたと云うことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は「掘り出された」ことと独立して判定せられねばならぬ。(略)彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思えない。

  分かり易く言うと、「澁江抽斎は鷗外先生が書くに値するほどの人物ではない。それを先生が書いたのは、無名の人物を掘り出したという興味でしかない」ということだろう。

 和辻は、鷗外がもっと日本の思想史に影響を与えた大人物を書くべきだと思ったのである。

 確かに鷗外には、世間に知られていない「掘り出し物」を掘り出して伝記を書くことを楽しんでいるところはあったと思う。

 しかし、鷗外史伝を読むと、鷗外の真意はそんなところになかったことに気が付く。鷗外史伝の文章には、鷗外の空想や作り話は一切挟まれず、推測も僅かにしか書かれていない。冷静な筆致ではあるが、資料に基づいてあくまで事実を追尋していく執念を感じさせる文章である。そこから読みとれるのは、「人間が生きたという事実を尊重する」という姿勢である。一般の歴史小説のように話を盛って面白く作ることが、事実への侮辱であると感じているかのような態度である。この鷗外史伝の姿勢に気が付くと、凡百の小説家が「人生」を描いたとする小説が、「ちゃち」に見えてくる。

 若い和辻は、鷗外がもっとドラマティックで面白い小説や、大思想家に関する著作を書くことを期待していたのだろう。しかし若い和辻は気が付かなかった。鷗外は、地味だが世界の誰もなし得なかった大著作を書いたのである。

 そして、当ブログも、過去に生きたどんな人間でも、生きた事実は尊重するという姿勢で書いている。これは鷗外から学んだことである。

 さて、史跡巡りから大きく脱線してしまったが、和辻哲郎生家から少し北に行き、姫路市香寺町に入る。ここに天台宗の寺院、八徳山八葉寺がある。

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八葉寺

 八葉寺は、天平八年(736年)に行基菩薩が開山したと伝えられ、平安時代の学者で漢詩文の大家である慶滋保胤(よししげのやすたね)が出家して寂心上人と名乗り、ここに堂を建立し、中興したとされる。

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八葉寺境内

 寺は車1台がようやく通れる細い道を上った山上にあって、人影はない。

 境内の弁財天の祀られている池には、蓮の葉が浮かんでいる。

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弁財天

 池には、上の木々の梢が反映していた。面白い写真が撮れた。

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 印象派の絵画にでも出てきそうだ。私は写真は下手だが、美しい写真は撮りたいと思う。

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本堂

 本堂は、慎ましい形である。本尊は、十一面観音像である。

 本堂からしばらく歩いたところにある奥の院は、寂心上人が建立したとされる。

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奥の院

 奥の院には、兵庫県指定文化財である厨子がある。厨子には、大永五年(1526年)6月18日と制作年月日が明記されているらしい。

 厨子には、書写山圓教寺を開いた性空上人から寂心上人に送られた沐浴の湯釜が安置されている。厨子も湯釜も拝観はできなかった。

 奥の院の横には、年代が分からない宝篋印塔がある。姫路市の指定文化財である。

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宝篋印塔

 奥の院の周辺には、崩れた墓石が多くあった。戒名が読み取れるが、どんな所縁でここに葬られているのかわからない。誰のものともわからぬ墓だが、麦藁帽を脱いで頭を下げた。