正楽寺は、奈良時代の天平勝宝年間に、聖武天皇の勅願により、報恩大師が備前国に開いた四十八寺のうちの一寺である。
正楽寺は、江戸時代初期に堂舎を悉く焼失したが、正徳年間(1711~1716年)に本堂などが再建された。
山門は、文化十四年(1817年)に建てられたものである。
山門軒裏の板張りには、雲と波の浮彫が彫られている。ちょっとやり過ぎだろうと思えるほど凝った彫刻だ。山門は、播州赤穂坂越の棟梁・野村長右衛門信慶により建てられた。
山門の仁王像も、なかなかに力強い。
寺を訪れたのは夕方だったが、静かであった。お寺の人が竹ぼうきで掃除をする、さらさらという音ばかりが聞こえる。
正楽寺は、真言宗の寺院でありながら、どちらかというと建築様式は禅宗風である。
本堂は、正徳元年(1711年)の建立である。本堂に安置されるご本尊の十一面観自在菩薩は、恵心僧都作の霊験あらたかな尊像である。33年に一度開扉され、拝観することができる。
本堂横の石造の仏像が、ご本尊のレプリカだろう。
それにしても優しいお顔である。
玄関と客殿は、本堂、鐘楼と並んで、備前市の指定文化財だが、完全に禅宗様式の作りだ。網干の龍門寺を思い出した。
正楽寺の西側には、江戸初期の儒学者・陽明学者、熊沢蕃山(くまざわばんざん)の屋敷跡がある。
熊沢蕃山は、元和五年(1619年)から元禄四年(1691年)の間を生きた学者である。16歳の時に京都所司代板倉重宗の推薦で岡山藩主池田光政に仕えた。光政が蕃山を政治に登用しようとしたが、蕃山は辞退し、近江に隠棲し、四書を研究した。蕃山は近江の陽明学者・中江藤樹に学び、27歳の時に光政に請われて備前に戻った。
光政は、稀代の名君と呼ばれる人物である。農民政策に情熱を注ぎ、家臣よりも百姓を大事にすると言われた。
光政は、寛文十年(1670年)、日本初の藩士と庶民のための学校、閑谷学校を開学する。今の教育県、岡山の礎は光政が築いたのではないか。
その光政の学問上の師が蕃山である。蕃山は、光政のブレーンとして、大洪水や飢饉対策に手腕を発揮した。
蕃山は、明暦三年(1657年)、狩りで負傷したことがきっかけで引退する。そして自らの知行地である蕃山の地に隠棲する。
蕃山は、ここでしばらく隠棲した後、京都に移った。熊沢蕃山が学んだ陽明学は、江戸時代の官学である朱子学からすれば異端の学であった。陽明学は、理論よりも実践を重んじる学である。
身分の上下や礼儀作法を重んじる朱子学と異なり、中江藤樹が始めた日本陽明学は、全ての人への孝(敬愛)を唱えた。藤樹の弟子である蕃山は、武士と農民の身分を区別する幕府の政策を批判した。
蕃山は、幕府や朱子学者に睨まれ、各地を転々とし、68歳で幕府から軟禁されることになる。
勝海舟は、蕃山を「儒服を着た英雄」と評したそうだ。
熊沢蕃山屋敷跡の北側には、備中松山藩の漢学者・山田方谷宅跡がある。
山田方谷は、明治維新後、閑谷学校再開のため、明治6年に備前に招かれ、閑谷学校に来学した。山田方谷は、尊敬する熊沢蕃山の屋敷跡の近くに草庵を建てて滞在した。
方谷は、明治の世になってからも、はるか昔の蕃山の学問をここで偲んだことだろう。
それにしても、池田光政とその家臣のことを調べると、初期岡山藩では本当に「賢人政治」が行われていたと感じる。備前には、池田光政ゆかりの遺跡が数多くある。これから、少しづつ紹介していくことになりそうだ。