姫路市夢前町宮置に、後期赤松氏の居城だった置塩(おじお)城の跡がある。
置塩城は、建築当時、日本国内の山城としては最大規模で、もし石垣が現存していたら、但馬竹田城を上回る壮麗な山城の遺構を見せてくれたであろう。
ここで赤松氏の歴史をおさらいする。元弘の乱(1333年)で活躍し、鎌倉幕府滅亡と室町幕府成立に献身した赤松円心から、範資、則祐、義則、満祐までを前期赤松氏という。
前期赤松氏は、主に兵庫県赤穂郡上郡町の白旗城や、兵庫県たつの市の城山(きのやま)城を本拠地とした。
満祐の代に室町幕府6代将軍だった足利義教は、有力な守護大名の力を削ぐために、惣家よりも庶流を重用する政策を取った。本家を貶めて、分家を上げたのである。それだけでなく、将軍は守護大名の暗殺までも行った。
次は赤松惣家がやられるとの噂が立った。満祐は、次は自分が暗殺されると予想して、先手を打って京の赤松邸で義教を殺害する。
結果、赤松氏は幕府と周辺の守護大名から総攻撃を受け、滅亡する。嘉吉の乱(1441年)である。
赤松氏滅亡後、赤松氏の領国だった播磨を与えられたのは、山陰の守護大名・山名氏であった。
赤松家臣団は、主家の再興のために、幕府と交渉する。幕府側の北朝は、禁闕の変で南朝に三種の神器の内、神璽を奪われていた。赤松家臣団は、幕府から、神璽を奪い返せば赤松家の再興を許すとの約束を取り付ける。
赤松家臣団は、吉野の山奥の南朝に入り込み、1年に渡り神璽の情報を収集し、チャンスを待ち続けた。
そして、長禄の変(1457~1458年)で、南朝から神璽を奪い取り、幕府から赤松家再興を許される。
こうして、幕府から加賀半国を与えられ、赤松家を再興したのが、赤松政則である。
政則は、応仁の乱(1467年)で、山名氏と対立する細川氏(東軍)についた。
あわよくば、播磨を支配する山名氏から、播磨を奪還するためだったのだろう。
政則の読みは当たる。山名氏は、応仁の乱の主戦場である京に戦力を集中させたので、播磨はがら空きとなる。
政則は、満を持して播磨に侵攻する。元々播磨の国人(こくじん。地元の豪族)達は、赤松氏の影響下にあったので、政則が播磨に侵攻するや、たちまち国人衆も政則に呼応し、あっという間に播磨は赤松氏の支配下に戻った。
赤松政則以降を、後期赤松氏と呼ぶ。
播磨の主となった政則が文明元年(1469年)に築城したのが、この置塩城である。
置塩山を登り始めると、あちこちに石垣として使われたと思われる石が落ち散らばっている。
そして、何故か中世最大級の山城の筈なのに、石垣がほとんど残っていないことに気が付いた。この謎については、後ほど述べる。
赤松政則は、加賀半国、播磨、備前、美作三国の守護大名となり、従三位まで昇りつめる。一代で赤松氏の全盛期を築いた。
その政則も、明応五年(1496年)に没する。跡を継いだのは、赤松庶流から養子に入った義村である。しかし、幼い義村は、赤松家臣の中で威勢を張っていた備前国守護代浦上氏の傀儡となり、最後は浦上氏により室津で殺害される。
その後、晴政、義祐、則房と続くが、赤松氏の有力な家臣や分家は、戦国大名として独立してしまい、赤松惣家は、置塩城周辺を支配するだけの小規模な大名となる。
置塩城を改築して、今残る規模にしたのは、晴政だったと言われている。
山を登り、置塩城跡に到達したが、確かに曲輪(くるわ)が何重にもあり、私が今まで見た山城の中では最大である。曲輪とは、山を切り開いて平に削った台地で、その周りを石垣や土塁で囲んだ。
茶室があったと伝えられる曲輪もある。客人を迎えて、ここで城主と客人が茶を喫したのだろう。
しかし、不思議にも石垣はほとんど残っていない。大石垣と呼ばれる一角に、かろうじて石垣が残っていた。
置塩城最後の城主は、赤松則房である。則房は、天正五年(1577年)、秀吉が播磨に侵攻してきた時に、すぐに降伏し、置塩城を開城する。
則房は秀吉の家臣となり、その後賤ケ岳の戦い、四国征伐、九州征伐、小田原攻め、文禄慶長の役と、秀吉の行った主要な戦に参加する。
則房は、四国戦役で功があり、秀吉から阿波国住吉に1万国の領地を与えられる。赤松氏最後の領地は、播磨ではなく、阿波だった。
それでも秀吉は、古くからの播磨の名家、赤松家の当主である則房に一目置き、「赤松殿」「置塩殿」と呼んでいたという。
秀吉は、則房が屈服した時に、すぐさま置塩城の廃城を命じた。戦国有数の山城の威容に脅威を感じたのではないか。
そして、秀吉は、天正八年(1580年)に、姫路城築城を開始する。
ここまで思って、はたと膝を叩いた。そうだ、置塩城の石垣は、姫路に運び込まれ、姫路城の石垣に転用されたのではないか。
置塩城跡に転がる石は、いかにも運んでいる途中にぼとぼと落ちたような様子で散らばっている。
家に帰って資料を調べると、果たしてそうであった。置塩城の建物や石垣は、秀吉が築城した姫路城に使われていたのだ。
私は、姫路城を訪れた時、との一門を観ることが出来なかった。との一門は、置塩城の大手門を移築したとされる門なのである。
後日、兵庫県立歴史博物館展示のパネルにあった、との一門の写真を撮った。
との一門は、漆喰塗りの姫路城の門の中で、異色の素木造りである。戦国時代の山城に相応しい門だ。置塩城からの移築説があるのも頷ける。
則房の跡を継いだ則英は、関ヶ原の戦で西軍に入り、石田三成の居城佐和山城に籠城したが、敗北して自決したとされる。則英の実在を示す史料がないので、則英は則房と同一人物だという説もある。いずれにしろ、赤松惣家は、徳川時代まで生き延びることは出来なかった。
赤松惣家は滅び、置塩城は跡形もなく解体されたが、その資材は姫路城建設に使われた。姫路城は、世界文化遺産・国宝に指定されたので、赤松家の痕跡と共に半永久的に保存され、後世に残ることだろう。
赤松惣家は滅んだが、播磨の寺社の建設や、祭事の振興に赤松氏が果たした役割は大きい。播磨の文化には、赤松氏の影が大きく広がっている。
赤松氏の栄枯盛衰は、鎌倉幕府滅亡、室町幕府成立、南北朝の動乱、応仁の乱からの下克上の時代、戦国時代、安土桃山時代、徳川幕府の成立期までをカバーする、一大伝奇ロマンのようである。
楠木正成や南朝の功臣のように美化されず、長年逆臣として扱われ、捨て置かれてきたところに面白みを感じる。
本丸跡には、瓦が落ちていた。置塩城の本丸御殿の瓦だろう。この屋根瓦の下で、赤松殿の執務が為されていたのだろう。
古ぼけた瓦にそっと触って、赤松氏の歴史を偲んだ。