松原八幡神社

 家島から姫路港に戻り、国道250号線を東に行く。妻鹿の地域を抜け、白浜町に入る。

 山陽電鉄白浜の宮駅の南側にあるのが、松原八幡神社である。ここは、「灘のけんか祭り」と呼ばれる秋季例大祭で有名だ。

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松原八幡神社社頭

 毎年10月14日、15日に、その祭りは行われる。神社周辺の姫路市東山(旧東山村)・八家(旧八家村)・木場(旧木場村)・白浜町(旧宇佐崎村・旧中村・旧松原村)・飾磨区妻鹿(旧妻鹿村)の7か村の男たちが、自分たちの村に受け継がれる屋台を担いで、神社社頭や境内、御旅山と呼ばれる神域で練り合わせ、時には屋台同士を衝突させあう、豪壮で荒々しい祭りである。この旧7か村のことを灘地区と呼ぶ。

 過去には、屋台同士に挟まれて、練子(屋台をかつぐ男)が亡くなることもあった。

 屋台というと、播州の人間はどんなものかすぐ頭に浮かぶが、ご存じない方のために、以前訪れた姫路市書写の里美術工芸館で展示されていた屋台の写真を上げる。

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播州の屋台

 展示されている屋台は、灘地区のものではないが、播州の秋祭りで使われる屋台は概ねこのようなものである。

 祭りの時には、屋台の屋根の下に太鼓が設置され、太鼓を叩く子供が乗る。大人たちが屋台を担いで、屋台同士をぶつけあう間も、屋台に乗る子供たちは、優雅な身振りで太鼓を叩き続けるのである。

 私も、灘のけんか祭りを初めて目にしたときには、大変な衝撃を受けた。

 屋台は、地面に下ろす時に地響きがするほど重いのである。そんな屋台を、褌を締めて法被を着た数十人の屈強な男たちが担いで、掛け声をかけながら荒っぽくぶつけ合う姿は、勇壮豪華なのだが、祭りの盛んでない地域に育った私からすれば、最初は「なぜここまで熱心にするのか」と疑問に感じるほど熱気に溢れたものであった。

 youtubeなどの動画サイトでも、祭りの様子が流れているだろうから、一度ご覧になるといい。しかし、この祭りの迫力は、現地に行かなければ絶対に味わえない。

 神社社頭の広場で屋台は練り合わされるが、周囲には観客席が設置されている。

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松原八幡神社社頭の観客席

 この観客席に座るのは、主に地元の人たちである。一席座るのに数万円を支払う。この設備だけでも、祭りの本気度が伝わると思う。

 祭りは毎年10月14、15日に行われるが、この日が平日だと、地域の学校は全て休校になり(子供たちも祭りに参加する)、地域の男たちは仕事を休んで祭りに参加する。というより、地元では祭りの日は当然のように休業日である。遠くに働きに出ている男たちも、仕事を休んで地元に帰り、祭りに参加する。

 現代の一般の日本人からすると、祭りのために仕事を休むというのは、理解不能かも知れないが、播州の祭りに携わる人たちにとっては、祭りの方が普段の仕事より大事である。もし仕事に出て、祭りに参加しないと・・・大変なことになる。

 祭りの会場では、村同士の喧嘩が起ることがあるが、警備の警察官の指示に従う者などいない。村の長老格の氏子役員同士が介入し、喧嘩を収める。

 私は、祭りの期間中のこの地域には、神様が降臨しているのだと想定して、何となく理解することができた。けんか祭りでは、屋台の練り合わせが荒々しいほど、神様が喜ぶとされている。神様を喜ばせることが、普段の仕事や世俗の法律を超えているのである。

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楼門

 さて、祭りのことばかり書いたが、この神社は、天平宝字七年(763年)に、豊前宇佐八幡宮から分霊を勧請し、創建したとされる。なので祭神は、八幡神とされる品陀和気命(ほむだわけのみこと)即ち第15代応神天皇である。

 その他にも伝承があり、妻鹿村の漁人久津里の網に、「八幡大菩薩」と書かれた紫檀の霊木がかかり、その霊木を祀ったのが神社の始まりだという。こちらの伝承の方がロマンがあっていい。

 神社の楼門は、延宝七年(1679年)の造営である。

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幣殿

 幣殿、拝殿、本殿と社殿が続いているが、現社殿は享保三年(1718年)の造営である。

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本殿

 かつての寺院や神社は、寺領や社領と呼ばれる土地があって、その収穫を基に維持された。昔の大名は、石高に応じて兵力を養うことができたが、領地を持つ中世の神社や寺院も、武装した兵力を持っていた。

 戦国時代、松原八幡神社は、約3千人の兵力を有していたという。天正年間、秀吉が信長の命で播磨平定を進めていた時、松原八幡神社は、秀吉と争う三木城(現兵庫県三木市)の別所長治と、秀吉の双方から、援軍を要請された。

 しかし、古くから誼のある別所氏につくか、天下平定を進める織田方につくか、評議は決せず、結局別所につく者、秀吉につく者に二分された。

 別所氏はこれに激怒し、松原八幡神社を焼き払ってしまう。秀吉の天下となった後、秀吉は当時の松原八幡神社の態度を快く思わず、神社に転地を命ずる。

 秀吉の腹心黒田官兵衛孝高は、松原八幡神社を崇敬することが深かったので、秀吉に「松原は神社にとって由緒ある土地であるから、移転はこらえて欲しい」と懇願した。秀吉は移転することは許したが、その代わり千石の社領を60石に減らした。松原八幡神社は、江戸時代を通して、60石の社領御朱印地として維持する。

 このように、松原八幡神社にとって、黒田官兵衛孝高は恩人である。

 さて、史跡巡りをすると、現地に行って初めて知ることがある。私にとっても今回は初めて知ることがあった。

 境内に亀山雲平という人の顕彰碑があった。私が聞いたことのない人であった。

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山雲平顕彰碑

 この石碑の説明板を読むと、亀山雲平が「播磨聖人」と呼ばれた偉人であることが分かった。

 亀山雲平は、江戸時代後期に姫路に生まれ、江戸の昌平黌(しょうへいこう、江戸にあった官営の儒学の学校)で学んだあと、姫路に戻り、姫路藩の藩校好古堂の教授となった儒学者である。藩の大監察や隣交係も務めた。

 幕末に、佐幕側だった姫路藩が官軍側の備前藩に攻撃された時、備前藩と交渉し、姫路城の無血開城に導いたのが、亀山雲平だった。我々が今でも美しい姫路城を見られるのは、半ばは亀山雲平のおかげである。

 亀山は、維新後、節を通して明治新政府には仕官せず、松原八幡神社宮司となった。地元の熱望により、久敬舎(後観海講堂)という塾を開き、教育者として後半生を生きた。

 今でも松原八幡神社宮司は、亀山雲平の子孫が務めている。

 松原八幡神社にしろ、姫路城にしろ、文化財が現代に生き残った背景に、多くの人の熱意があったことが分かる。

 もうそろそろしたら、灘地区では祭りの準備が始まる。松原八幡神社の神様も、灘地区の人も、血が湧きたってそわそわし始めていることだろう。