当ブログもついに日本本土から離れ、離島に行くことになった。
今日は、播磨灘に浮かぶ家島についての記事である。
家島諸島には、主要な島として、家島本島、坊勢(ぼうぜ)島、男鹿(たんが)島、西島がある。私が訪れたのは、家島本島である。家島(いえしま)のことを、播州では、何故か「えじま」と呼ぶことがある。
家島に行くには、姫路港(飾磨港)から連絡船に乗らなければならない。
姫路港にあるポートセンター前から、渡船が発着する。小豆島行きのフェリーにもここから乗ることができる。
ポートセンター2階には、姫路みなとミュージアムがあって、姫路港の歴史を紹介している。船が来るまでの待ち時間に見学した。
中でも明治時代初期の飾磨港のジオラマが目を引いた。帆船が浮かび、瓦葺木造建築や煉瓦造の建物が並ぶ飾磨港の姿は、ノスタルジックである。ジオラマの奥には、以前紹介した恵美酒天満神社がある。背景の絵には、遠く姫路城が描かれている。姫路の城下町と港が一体となって発展したことが実感できる。
姫路港から家島までは、大人片道千円である。車を船に乗せることはできない。スイフトスポーツは、港の有料駐車場で待ってもらうことになった。
船に乗り、姫路港を出発すると、約30分で家島の宮港に着く。行きに乗った船は、小さい船であった。
離島というと、過疎地域というイメージがあると思うが、家島は違う。家島は漁業が盛んで、高い漁獲量を誇り、裕福な家が多い。一度外に出た若者も、島に戻ってくるという。
家島には、島の住居と別に、対岸の姫路市街にマンションや車を所有している人が多い。宮港周辺も、住宅が櫛比し、人口密度が高そうだ。
家島で私が訪れた史跡は、家島神社である。家島の北東に突き出た天神鼻という岬にある神社だ。
天神鼻という名のとおり、ここは天神・菅原道真公を祀っている。
家島神社の創建は、社伝によれば、神武東征に遡る。神武天皇が、九州から大和に向かう途中、家島に立ち寄ったところ、港内がたいへん静かだったので、「あたかも家の中にいるようだ」と感想を漏らしたことから、家島と呼ばれるようになったという。
神武天皇が、天神を祀ったことが家島神社の創建である。また、神功皇后が三韓征伐の時に家島に立ち寄り、家島神社に祈願したところ、全山が鳴動したという。
道真公が、大宰府に向かう途中に、家島に上陸し、漢詩を岩に書き付けたという伝承が残っている。それ以降、天神と習合した道真公も合祀されるようになった。
宮港から家島神社に向かう途中に、道真公が上陸したとされる浜があり、道真公が漢詩を書きつけたとされる岩がある。そこは「詩ヲ書キ場」として祀られている。当然、岩には何も書かれていない。
詩ヲ書キ場からしばらく歩くと、家島神社が見えてくる。
家島神社鳥居の横に、万葉歌碑がある。家島は、古くから瀬戸内海航路の寄港地として知られ、多くの旅人が家島を歌に詠んできた。
歌碑は、「万葉集」の研究家で知られる犬養孝の揮毫である。遣新羅使が、半島で冷たくあしらわれ、失意の中日本に帰ってきた時の歌だ。
いへしまは なにこそありけれ うなばらを あがこひきつる いももあらなくに
(家島は 名にこそありけれ 海原を 吾が恋ひ来つる 妹もあらなくに)
家島を見ると、その名のとおり家に帰ったように落ち着く。海原を、私は家や妻を恋しく思いながら帰ってきた 。(家島には)妻はいないのに。という歌意だろう。
家島神社の社殿は、小高い丘の上に建つ。参道の途中で、男鹿島が見えた。
男鹿島は、島の大半が砕石場となっている。ご覧のように、島が砕石のために大きく削られている。
第15代応神天皇の時代に、飾磨の地に雌雄の鹿がいて、雄鹿がこの島に渡ったので、男鹿(たんが)島という名前になったという伝承がある。雌鹿が残った対岸の本土側には、妻鹿(めが)という地名が残っている。
家島神社の建物自体は、そう古くない。
ごく一般的な、木造銅板葺きの社殿だ。
建物は新しいが、家島神社は、平安時代の「延喜式」で名神大社に列せられており、古くから尊崇されていた。
以前紹介した津田の細江(飾磨港)で潮待ちした菅原道真公が、波が静まってから家島に渡り、この神社に詣でたのだろう。
帰りは、家島本島の中心街である真浦まで歩く。
真浦の海の駅前から姫路に帰る船が出る。海の駅の近くに、地元で「どんがめっさん」と言う、亀そっくりの岩があった。
主人を待ち続けた大海亀が、そのまま石になったという伝承が残っている。どんがめっさんは、今では航海の神となっている。
帰りは、大型船「高速いえしま」に乗って帰る。快適であった。
島から自分が普段住んでいる本土を眺めるだけで、別世界に来たような気分になる。島には島独特の時間が流れている。
島めぐりというのも、面白いかもしれない。