新宮宮内遺跡、宮内天満神社

 JR姫新線播磨新宮駅から北に行くと、国指定史跡となっている新宮宮内遺跡がある。

 ここは、縄文時代から中世にかけて、集落があった場所である。この集落の最盛期は、今から約2100年前の弥生時代中期である。

 昭和40年以降の発掘により、弥生時代の竪穴式住居の跡や、円形周溝墓、方形周溝墓などが見つかった。

 最近になって、竪穴式住居の姿が再現された。中でも珍しいのは、土葺きの屋根を備えた、土葺屋根竪穴住居である。

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土葺屋根竪穴住居

 木を組んで、その上に土を被せて屋根にしている。見学した日は蒸し暑い日だったが、中に入ると、これが地下室のようにひんやりして、心地が良い。

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土葺屋根竪穴住居の中

 ただ、暗い室内にいると窓が欲しいなと思う。窓というのは、日本建築史上画期的な発明だったのではないか。

 遺跡の中心には、円形周溝墓が復元されている。相撲の土俵のような墓の周りには、溝が掘られている。

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円形周溝墓

 円形周溝墓の西側からは、20基以上の土壙墓が見つかった。土壙墓の一つには、木棺が据え付けられた跡があり、底から石鏃が多数見つかった。石鏃は、当時矢の先につけられていたものである。石鏃の位置からして、この土壙墓には矢で射られたままの姿で埋葬された人が入っていたものと認められた。

 その埋葬時の状況を再現したのが、「弥生戦士の墓」である。

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弥生戦士の墓

 まだ矢の先に金属ではなく石をつけていた時代に、既に戦争で亡くなった人がいた。集落を守るために先頭になって戦った人の墓であったのだろう。争いの是非は問わないが、戦士は手厚く葬られるべきである。

 遺跡の南側には、オーソドックスな竪穴式住居が復元されている。

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弥生時代の竪穴式住居

 建物の屋根の上には、今でも神社建築に見られる、千木、鰹木が載っている。日本の建築の根源の姿を見る思いだ。

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竪穴式住居の屋内

 屋内の床の中心部には穴が掘られている。ここに土器を据えて煮炊きをしたのだろう。

 最近世間では引きこもりが話題になっているが、こんな住居に住んでいては、引きこもることは不可能だ。引きこもりには、物理的な原因もあるのではないか。

 さて、新宮宮内遺跡からの出土品は、遺跡の北側にある、たつの市埋蔵文化財センターに展示されている。

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たつの市埋蔵文化財センター

 非常に立派な建物だが、入場無料である。

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新宮宮内遺跡の出土品

 弥生時代には、包丁も斧も石製であった。金属を使い始めたことが、どれほど画期的なことだったか。当時の人からしたら、初めて目にする金属器は、さぞかし驚愕すべきハイテク製品だったろう。それも、たかだか2000年前の話である。短時日の間の人類の発展の速度を思う。

 埋蔵文化財センターから北に行くと、宮内天満神社がある。

 

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天満神社拝殿

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宮内天満神社さや堂

 天満神社の本殿は、国指定重要文化財である。本殿といっても、外からは見えない。外から見えるのは、本殿を守るために覆うように建てられた「さや堂」である。

 拝殿の窓から、さや堂の中に鎮座する本殿を見ることができる。

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宮内天満神社本殿

 宮内天満神社の創建は、正平24年(1369年)である。当時この付近にあった城禅寺の霊岳禅師の枕元に、天神様(菅原道真)が立った。禅師は感激して、天神を寺の鎮守堂に祭った。これが、宮内天満神社の創建である。

 その後嘉吉の乱で赤松氏が一度滅亡し、その際赤松氏ゆかりの城禅寺も焼失したが、鎮守堂は残った。

 天文十三年(1544年)に、龍野城赤松政秀の家臣喜多野氏が施主となって、書写山圓教寺大塔を建てた棟梁藤原新右衛門尉光重父子を用いて、今の本殿が建てられた。文化十年(1813年)に、本殿を守るために「さや堂」が建てられた。昭和41年に本殿が解体修理されて、新築当時の鮮やかな色彩がよみがえった。

 赤松政秀という人は、室津の室山城主を息子の婚礼の際に襲って花嫁ごと殺害したかと思えば、斑鳩寺三重塔や宮内天満神社本殿を建てたりして、どんな人だったのか興味を覚える。

 それにしても、この鮮やかな本殿を令和元年の今まで、475年に渡って守り通してきた地元の人たちの努力に敬意を表したい。