地名にも歴史の痕跡は残っている。過去の歴史が忘れられても、地名だけはそのまま使われ続ける。地名の由来を調べると、今まで知らなかったことを知ることができる。
例えば、姫路市には、飾磨区、広畑区、網干区、勝原区、余部区、大津区という、区がつく地名がある。姫路市は政令指定都市ではないので、東京都の区や、大阪市の区のように、区に区役所があるわけではなく、区に法人格があるわけでもない。姫路市の〇〇区というのは、単なる地名である。
ではなぜ、そんな区がついた地名が残っているのか。姫路市は、昭和21年3月1日に、GHQの指導の下に、近隣の飾磨市、飾磨郡白浜町、広畑町、揖保郡網干町、余部村、勝原村、大津村と合併した。白浜町を除くそれぞれの自治体の地域の地名を、元々の姫路市の他の地名と区別するために、地名の前に〇〇区とつけたのである。例えば現在の姫路市飾磨区中島であれば、かつては飾磨市中島という地名であった。
昭和21年の合併を知る人は少なくなったが、広大な姫路市は、今でも区ごとに地域性があってなかなか面白い。
江戸初期の網干は、姫路藩領だったが、寛永十四年(1637年)に龍野藩領となった。当時の龍野藩の領主は、京極家である。万治元年(1658年)、龍野藩主京極高和は丸亀藩に移封されたが、網干地区28ヶ村だけは、京極家の領地として残された。幕末まで、網干は、讃岐丸亀藩の飛び地であった。
丸亀藩は、網干に陣屋を作って、代官、奉行を置き、当地を支配した。明治維新により、陣屋は取り払われたが、門だけが残された。その後しばらく興浜地区の壇尻庫として使用されていたが、昭和62年に改築され、丸亀藩興浜陣屋資料館となった。
資料館の裏に、今の壇尻庫がある。壇尻(だんじり)というのは、播州の秋祭りで、地元の男たちがかつぐ山車のことである。
播州は、祭りが盛んな地域である。地元の男たちにとって、祭りで壇尻をかつぐことが、一人前になった証である。地域の子供たちは、壇尻をかつぐ大人たちを見て育つ。かくて、壇尻は地域の象徴となる。祭りの時期が来るまでの間、壇尻は、こうした壇尻庫で大事に保管されている。
陣屋資料館の前の通りは、明治大正期に建てられたと思われる古い建物が並んでいる。なかなかレトロでいい。
陣屋資料館の近くに建つ旧山本家住宅は、大正7年に今の形が完成した。和洋折衷の三階建ての特異な姿である。
今日是非写真に撮りたいと思っていた、旧網干銀行本店が、修復中であった。残念である。
さて、網干地域の祭りと言えば、魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)の秋祭りである。魚吹八幡の秋祭りには、先ほどの興浜地区の壇尻も担がれて、社殿まで行く。
魚吹八幡神社は、神功皇后が朝鮮征伐の帰路に瀬戸内海を航行中、魚吹の地に立ち寄り、神託を受けて、この地に神武天皇の母の玉依姫を祀る小社を開いたのが始まりだという。第16代仁徳天皇が、霊夢を見て、神功皇后が建てた小社に、父の応神天皇と祖母の神功皇后を祀り、今の魚吹八幡神社の創建となった。
魚吹八幡神社のある姫路市網干区宮内のあたりは、古代は砂浜であったそうだ。魚が砂を吹き寄せて砂浜が出来たという伝説がある。地名には、様々ないわれがある。
保元のころ、石清水八幡宮の別宮となり、源平争乱の折も手厚く保護されたが、天正4年(1576年)の兵火で灰燼に帰した。
今の社殿は、正保2年(1645年)以降に再建されたものである。
このように、神功皇后の航海に因む神社であることから、建物には、波をモチーフにした彫刻が見られる。扁額の意匠もそうである。
特に拝殿の波の透かし彫りと瓦の造形が見事である。
本殿は、銅板葺きの簡素なものである。
拝殿の前には、日露戦役(明治時代には、戦争が行われた年から、「三十七、八年の役」と呼んでいた)の戦利品が奉納されていた。地元から出征した兵士にとって、誇りとすべきものだったのだろう。
神社の由来といい、奉納されているものといい、勇武の社と言っていいのかも知れない。
秋にもなれば、近隣の各地域の壇尻が男たちに担がれ、この神域で勇壮に練り合わせが行われる。
神社の由来と歴史が、地域の人たちをまとめる中核となっている。やはり人間は、過去との連続の中に自分の立ち位置や生きがいを見つけたがる生物である。