聚遠亭 附龍野神社

 山川出版社の「歴史散歩シリーズ」をガイドに、史跡巡りを始めてはみたものの、「歴史散歩シリーズ」にはあまりにも多くの史跡が載せられていて、それを全て巡るのは至難の業だ。

 しかし、一度凝り始めると、徹底してやってしまう性格なので、しばらくは、載っているところ「全部巡り」を目標にやっていきたい。

 今ガイドにしているのは、山川出版社兵庫県の歴史散歩」下巻である。播磨、但馬、(兵庫県側の)丹波三田市の史跡が載っている。これだけでも相当な数だ。中にはとてもマイナーな場所も含まれている。この地域で、全国的に有名なのは、姫路城くらいだろう。しかし、「史跡に上下はつけられない」と言った以上、マイナーどころもなかなか割愛できない。

 今日取り上げるのは、龍野藩脇坂家の庭園であった聚遠亭である。 

f:id:sogensyooku:20190610201556j:plain

心字池上の茶室

 聚遠亭は、龍野城から西に約500メートル行った場所にある。ここからは、龍野の市街が一望できる。

 聚遠亭の象徴的建物は、心字池上にせり出した茶室である。

 龍野藩脇坂家第9代藩主脇坂安宅は、安政年間(1854~1859年)に京都所司代の職にあった時、炎上した御所の復興に尽力したことが認められ、孝明天皇から茶室を賜ったそうだ。その茶室をこの場所に移築したのが今の聚遠亭らしい。ということは、この茶室は元々京都にあったものなのか。池の水は濁っているが、浮御堂のような姿は優美である。

 聚遠亭は、元々龍野藩上屋敷があった場所である。今はその場所に、脇坂家の別邸「御涼所」(おすずみしょ)がある。

f:id:sogensyooku:20190610202830j:plain

脇坂家の別邸、御涼所。

 御涼所には、無料で入ることが出来る。恐らく幕末に建てられたものだろうが、質素な中にも雅趣がある。私が理想とした書斎は、こういう場所なのかも知れない。無料で入館できるから、ここに「鷗外全集」でも持ち込んで、庭を眺めながら日が暮れるまで読もうと思えば読める。かつて藩主が味わった風雅を、今は誰でも楽しめる。

 さて、御涼所の入り口から入ると、すぐに目に入るのが、地下道である。

f:id:sogensyooku:20190610203635j:plain

御涼所の床下の地下道。龍野城に続いていると言われている。

 入口近くの板の間の下にある地下道だが、今は見学できるように、板を外して上をガラス張りにしてある。

 この地下道がどこに続いているのか分からないが、恐らく龍野城のどこかに通じていて、緊急の際に藩主が脱出できるようにしていたのではないか。

 さて、聚遠亭から南に行くと、龍野藩の藩祖・脇坂安治公を祭る龍野神社がある。

f:id:sogensyooku:20190610204920j:plain

脇坂安治公を祭る龍野神社

 脇坂安治は、羽柴秀吉柴田勝家が激突した賤ケ岳の合戦で活躍した「賤ケ岳七本槍」の一人である。秀吉の播州攻め、賤ケ岳の合戦、九州征伐小田原征伐、文禄、慶長の役と、秀吉の下で活躍したが、関ケ原の合戦では最終的に徳川方についた。戦に明け暮れた生涯であった。生没年は、天文二十三年(1554年)から寛永三年(1626年)である。脇坂家が龍野藩に入る約50年前に亡くなっている。脇坂安治自身は龍野の地を治めたことはないが、龍野脇坂家の藩祖としてこの地に祭られている。

 まさに軍神、と言ってよいほどの戦の鬼である。

f:id:sogensyooku:20190610204713j:plain

龍野神社本殿。武人安治公に相応しい雄勁な姿。

 安治公が愛用した十文字の槍は、龍野歴史文化資料館に展示してある。

 毎年4月第一日曜日に行われる龍野桜まつり・龍野武者行列では、龍野神社から武者行列がスタートし、甲冑姿に扮した市民が町内を練り歩く。

 武神となった安治公は、泰平な世の武者行列を目を細めて見ていることだろう。