正條の渡し

 道はどこまでも続いている。アスファルトで覆われた道は四通八達し、今や日本のあらゆる場所に車で行けるようになった。

 しかしそうなったのも、モータリゼーションが盛んになった昭和40年代以降で、昭和30年代までは、舗装された道路はほとんどなかった。

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西国街道、正條宿の辺り。

 それまでの日本の道は、晴れた日は土埃が舞い、雨の日はぬかるむ未舗装路が大半だった。昭和30年代ころまでの日本の道は、江戸時代の道と大差なかったのかも知れない。

 江戸時代には、東海道や、中山道日光街道などの街道があり、道の途中には宿場町があった。当時の旅は徒歩である。歩き疲れた旅人は、夕方になれば宿場町の宿に泊まることになる。

 参勤交代の大名行列も同様である。領国から江戸に赴く途中に、宿場町で休むことになる。大名行列が泊まるとなると、尋常でない人数が一度に宿泊することになる。そうなると、宿場町は大忙しとなる。大名が宿泊する建物は、「本陣」と呼ばれていた。

 古代の大宝律令によって整備された官道である山陽道は、近世には西国街道と称されるようになった。

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明治天皇が宿泊した井口本陣跡

 兵庫県たつの市揖保川町にあるJR竜野駅の南側の狭い東西道は、かつての西国街道である。駅から約500メートル東に行けば、かつての宿場町の正條宿の辺りになる。かつて大名が泊まった井口本陣は、明治時代に明治天皇が宿泊され、今は跡地にその記念碑が建っている。 

 石の文化と言われるヨーロッパに対して、日本は木の文化と言われる。木造の日本の建物は、火災や地震で簡単に灰燼と化す。そうでなくとも、古くなればすぐに建て替えられる。

 日本では、ヨーロッパのように、中世からの街並みが丸ごと残っている場所はない。中世の建物が残っていたとしても、1つ2つだけぽつんと残っているだけである。日本に今も残る古い街並みは、せいぜい19世紀以降の建物が並んでいる街並みだ。

 このように、日本には古い「街並み」はあまり残っていないが、「町割り」は残っていたりする。建物を建て替えても、敷地や道の形はそう簡単に変わらない。西国街道の両側に並ぶ建物は新しくなっても、道そのものは昔からそのままの場所を通っていたりする。

 むしろ、建物が新しくなっているからこそ、江戸時代のまま残る道に時間の経過を感じることができる。正條宿付近の道は、狭くて軽四がすれ違うのがやっとだが、古い西国街道の面影を残している。

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「右ひめぢかうべ 左たつの山さき道」と彫られた明治18年の石碑

 タモリの「ぶらタモリ」という番組は、現代に残る古くからの道を探り当て、そこから町の歴史を考察する番組である。ビルが立ち並ぶ近代的な街並みの中に、アスファルトで舗装されているとは言え、中世からの道がそのまま残っていたりすると、ちょっとした感動を覚えるではないか。

 さて、正條宿から東に行くと、揖保川にたどり着く。江戸時代には、軍事的な理由で徳川幕府が川に橋をかけるのを禁じてしまったため、旅人や大名行列は、船で川を渡ることになる。

 正條宿から東の揖保川を渡るための舟の発着場所が、「正條の渡し」である。いまでは、ささやかな記念碑と椋の巨木が立つ。

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揖保川と正條の渡し跡

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正條の渡しの碑

 かつての西国街道は、川の東側にも続いていたが、戦後になってUCCの工場が建ってしまい、道は途切れてしまった。

 昔の人は、川を渡り、向こう岸からまた西国街道を歩いたのだ。

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正條の渡し跡から揖保川を望む。

 今では、正條の渡し跡の北側には、JR山陽本線の「揖保川橋梁」と、国道2号線の揖保川大橋が通り、交通量は多い。

 ところで番外編になるが、この揖保川橋梁はなかなか歴史あるものである。

 揖保川橋梁は、上りと下りの2本の線路が通っているが、南側の下りの橋梁は、煉瓦造りの橋脚で支えられている。

 この煉瓦造りの橋脚は、明治時代に山陽本線が開通した時に造られたものである。

 北側の上りの橋梁のコンクリート造りの橋脚は、大正時代に複線化した時に造られたものだそうだ。

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右が明治時代の橋脚、左が大正時代の橋脚。

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明治時代の煉瓦造りの橋脚。味がある。

 私は「撮り鉄」の趣味は持たないが、きっと鉄道ファンなら喜ぶ場所であるに違いない。

 人間が生活し、行動すれば必ず何がしかの痕跡が残る。交通はその最たるものだ。西国街道も、正條の渡し跡も、揖保川橋梁も、人間の生活の証である。人が生きた証というものは、大切にしたいものである。