城下町豊岡

豊岡陣屋の付近には、かつて豊岡藩の家臣が住んだ武家屋敷が並んでいた。 豊岡陣屋跡から東に行くと、豊岡藩家老石束家の屋敷跡がある。 石束家屋敷跡 寛文九年(1669年)に、石束源五衛毎公(つねとも)の娘として、この地で生まれたのが、赤穂藩家老大石内…

門尾三本松峠

大樹寺から県道282号線を東に行くと、すぐにヤマメ養殖場の看板が見えてくる。 ここを左に曲がると、すぐ左手の山際に、因幡毛利氏最後の当主毛利豊元の墓とされる宝篋印塔がある。 毛利豊元の墓 因幡毛利氏は、毛利次郎貞元による反乱が鎮圧された後も生き…

福知山市 大内城跡 男塚古墳

舞鶴若狭自動車道六人部PAは、小高い丘の上に造られている。この丘からは、城跡や遺跡、古墳などが発掘されている。 まずは、六人部PA(上り)の西側にある大内城跡を訪れた。 大内城跡は、丘陵上に築かれた城跡で、防御機構はそれほどなく、城跡というより…

近衛殿

昨日の記事で、この地を訪れて亡くなったという伝承が残る近衛経忠について書いた。 中谷神社の西側には、近衛経忠の墓所と言い伝えられる近衛殿という一角がある。鏡野町指定史跡になっている。 近衛殿 近衛経忠は、近衛家の第八代当主で、乾元二年(1302年…

香々美新町宿

赤峪古墳から進路を北東にとり、江戸時代の宿場町、香々美新町に赴いた。 香々美新町宿 津山藩森氏の時代に、美作津山と伯耆倉吉との間に倉吉街道が整備された。新町は、津山から倉吉街道を伝って倉吉に赴く場合の最初の宿場町であった。 江戸時代には、馬の…

陣屋町天城 後編

海禅寺から南に行くと、日蓮宗の寺院、恵光山正福寺がある。 恵光山正福寺 この寺の山門は、下津井城の城門を移築したものであるという。 正福寺山門 正福寺の山門は、意外と小ぶりな山門である。こんな城門を持った下津井城は、ささやかな城だったのだろう…

入佐山 円覚山宗鏡寺

明治館から外に出て、東に向くと、歌枕として名高い入佐(いるさ)山が見える。 入佐山 入佐山は、月が入る名所として古来から和歌に詠われてきたが、元々は出石神社のある豊岡市出石町宮内にある此隅山に続く山嶺を指していたとされている。 天正二年(1574…

一乗山経王寺 加藤弘之生家

歴史と学びの小径を東に歩き、出石町下谷にある日蓮宗の寺院、一乗山経王寺を訪れる。 一乗山経王寺(左が鐘楼) 寺伝によれば、永禄年間(1558~1570年)にこの地に真言宗の寺院、会稽山薬王寺が創建された。 薬王寺は、江戸時代にこの地を訪れた法音院日道…

土師百井廃寺跡

青龍寺から南下し、古代の八上郡衙跡とされる万代寺遺跡が発掘された鳥取県八頭郡八頭町万代寺に行った。 万代寺遺跡のあった辺り 今は遺跡が発掘された痕跡はなく、田が広がるだけである。 昭和57年の発掘調査で、大型の建物がロの字型やコの字型に配置され…

乾氏墓地

下船岡神社の周辺には、下船岡の落ち着いた町並みが広がる。 船岡は、大江川と見附川が合流する場所で、水陸交通の要衝として栄えた地である。 鳥取藩池田家の家老乾(いぬい)氏の知行地となり、陣屋が置かれた。 下船岡の町並み 下船岡には古い民家が多く…

洲本市 専称寺 江国寺

遍照院から道を挟んで南側にあるのが、浄土宗の寺院、心念山専称寺である。 地名で言うと、洲本市本町8丁目になる。 専称寺山門 この寺には、庚午事変(稲田騒動)に関わって刑死、獄死した徳島藩士22名を追悼した庚午志士之碑がある。 慶応三年(1867年)…

洲本市 千福寺 遍照院

旧鐘淵紡績洲本工場跡地から、洲本市内の寺町というエリアに行く。 寺町 江戸時代初頭、徳島藩は、淡路の政庁を由良湊に置いていたが、由良が地理的に不便であったため、寛永八年(1631年)に政庁を洲本に移した。これに伴い、武家や町人だけでなく寺も洲本…

再度公園 神戸市外国人墓地

大龍寺の参拝を終えて、スイフトスポーツを駆り、再度山北側の再度公園に赴いた。 再度公園は、昭和12年に開設された公園で、六甲山の峰を越えた北側にある。地名では、神戸市北区山田町下谷上になる。 この一帯は、かつて空海が入唐前と帰朝後に訪れて、修…

角藤定憲 難波抱節

徳倉城跡から下山して、JR津山線野々口駅の近くにある角藤定憲(すどうさだのり)の墓に詣でた。 角藤定憲は、日本で初めて壮士芝居を興行した人物で、新派演劇の祖とされている。 角藤家の墓地 壮士芝居や新派と言われても、現代人には何のことだか分からな…

高田屋嘉兵衛 後編

高田屋顕彰館・歴史文化資料館には、高田屋嘉兵衛に関するもの以外の展示品もある。 寛政五年(1793年)十一月、石巻から江戸に向かう途中に遭難した若宮丸一行16名は、アリューシャン列島の一島に漂着した。 その地でロシア人に助けられた一行は、シベリア…

湊川神社 前編

まだオミクロン株が猛威を振るい始める前の昨年12月26日に、神戸の史跡巡りを行った。 最初に訪れたのは、神戸市中央区多聞通3丁目に鎮座する湊川神社である。 ここは、神戸市内では生田神社に次ぐ初詣客数を誇っており、神戸市を代表する神社の一つである…

市川喜左衛門の墓 宗形神社

妙善寺の参拝を終え、岡山市北区芳賀にある市川喜左衛門の墓に詣でた。 ここは、芳賀にある顕本寺の裏山の果樹園の中にあり、軽トラ1台がようやく通ることが出来る細い道を行かなければ辿り着けない。車で行く事はお勧めしない。 市川喜左衛門は、天文二年…

岸田吟香ゆかりの地

両山寺の参拝を終えると、もはや日が西に傾いていた。 今回の美作の旅の最後の目的地である、岸田吟香生誕地に向かった。 岸田吟香(本名銀次)は、天保四年(1833年)、美作国久米郡垪和(はが)村大字中垪和字谷に住む岸田秀治郎の子として生まれた。 吟香…

油木北奥の前古墳 唐臼墳墓群

鶴田藩の西御殿跡から西に行き、津山市油木北(ゆききた)にある奥の前古墳を訪れた。 油木北の小さな寺院の駐車場から、古墳への山道が続いている。 油木北奥の前古墳への道 道を進み、墓地を過ぎると、説明板が目に入る。その説明板の前に、4世紀後半に築…

佐良山古墳群 

後醍醐天皇が歌に詠った佐良山は、現在の笹山だと言われている。 笹山の西麓には、横穴式石室を持つ直径15メートル以下の円墳を主とした、180基以上の古墳群がある。佐良山古墳群と呼ばれている。 その中で、最古の横穴式石室を有する中山一号墳を訪れた。 …

村岡陣屋跡

昨日の記事で書いたように、兵庫県美方郡香美町村岡区村岡は、江戸時代に交代寄合旗本の山名家が領有し、陣屋を置いた場所である。 その陣屋は、今は跡形もないが、かつて陣屋があった御殿山は、公園として整備されている。 御殿山公園への登り口 御殿山公園…

霊石山 前編

慶長五年(1600年)に関ヶ原の合戦で功績を上げた亀井茲矩(これのり)は、同年因幡鹿野城主となり鹿野藩の初代藩主となった。 因幡の千代川は、古代から洪水を多発させた暴れ川で、亀井茲矩が藩主になったころの鳥取平野は、川の氾濫と農業用水の便の悪さか…

大安興寺 大義寺

能引寺の虎御前の墓に手を合わせた後、再び鳥取市用瀬町に戻った。鷹狩にある真言宗の寺院、医王山大安興寺を訪れた。 大安興寺は、かつては今の寺の背後にある医王山上に伽藍があったが、昭和になって麓に移った。 医王山 7世紀に播磨や丹波にて数多くの寺…

虎石山能引寺 

大江神社から南下し、鳥取県八頭郡八頭町下野にある臨済宗の寺院、虎石山能引寺に行った。 虎石山能引寺 参道脇の地蔵尊 能引寺は、日本三大仇討の一つとされる、曽我兄弟の仇討ちと関連がある。因みに日本三大仇討の他の2つは、元禄赤穂事件と伊賀越の仇討…

佐治谷

用瀬(もちがせ)の宿場町から西に向かって佐治川沿いを走ると、俗に佐治谷七里と呼ばれる東西に細長い佐治町に入る。 佐治川 佐治谷には、佐治川沿いに小さな集落が続いている。この地を開拓したのは、鎌倉時代に佐治谷の地頭職になった武家の佐治氏である…

万燈山古墳

津山市加茂町塔中にある万燈山古墳は、6世紀末に築かれた円墳である。 古墳は、めぐみ荘という老人ホームから北に行った突き当りの丘上にある。 万燈山古墳がある丘 古墳への登り口 登り口から登り始めると、舗装路に出る。舗装路に出てすぐに左側に登る道…

静の里公園

淡路市志筑にある静の里公園は、源義経の妾であった静御前(しずかごぜん)の伝説地の一つである。 静の里公園 静御前は、白拍子(しらびょうし)であった。 白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、男装して今様(いまよう)などを歌いながら舞った…

郡家古墳 伝淳仁天皇高島陵

淡路市郡家(ぐんげ)の町の東側の山中に、郡家古墳がある。 郡家バス停のすぐそばから、古墳に上がっていく坂道がある。入口に目立たない看板が立っている。 郡家古墳への道 郡家古墳の看板 上の写真の坂を上がり、最初の民家の脇の細い道を通ると、古墳に…

与太郎塚 硯井天満宮

塩竈神社の参拝を終え、児島半島を西に横断した。 そして、岡山県玉野市八浜町大崎にある与太郎塚を訪れた。 与太郎塚 天正十年(1582年)、児島郡八浜村で、児島半島制圧を目論む毛利軍と、織田家の勢力下に入っていた宇喜多軍が衝突した。八浜合戦である。…

龍峰山静泰院

ケレップ水制群の見学を終え、岡南大橋を渡って岡山市南区浦安本町にある臨済宗の寺院、龍峰山静泰院を訪れた。 静泰院は、かつて岡山市中区小橋町にあったが、昭和39年の新京極橋の架橋に伴い当地に移転した。 静泰院 山門 静泰院には、岡山藩初代藩主池田…