鷲羽山 後編

 第二展望台から、鷲羽山山頂を目指した。

鷲羽山の山頂方面

 山頂と言っても、鷲羽山は低山で、山全体がなだらかである。そう苦労せずとも山頂に至ることが出来る。

花崗岩の山肌

 鷲羽山は、全体が花崗岩で出来ている。山肌は花崗岩がむき出しになっている。遊歩道も、花崗岩が風化して生じた真砂土に覆われている。花崗岩の表面も真砂土もざらざらしていて滑りにくい。非常に歩きやすい。

 しばらく遊歩道を歩くと、鷲羽山ビジターセンターがある。

鷲羽山ビジターセンター

 鷲羽山ビジターセンターのテラスからは、瀬戸内海の景観を堪能することが出来る。

 また館内には、瀬戸大橋の模型や、瀬戸内海が陸地だったころに生息していたナウマンゾウの化石などが展示されている。

 鷲羽山ビジターセンターは、鷲羽山第一展望台となっている。

 鷲羽山ビジターセンターの西側に、鷲羽山の山頂である鍾秀峰(しょうしゅうほう)が聳えている。

鍾秀峰

鍾秀峰への石段

 鍾秀峰の名称は、昭和6年にここを訪れたジャーナリストの徳富蘇峰が、「瀬戸内海の美景を全てここに集めている」という意味で命名した名である。

 花崗岩が集まった鍾秀峰には、樹木が生えておらず、360度周囲の風景を見渡すことが出来る。鍾秀峰は、鷲羽山の山頂展望台とも呼ばれている。

鍾秀峰の山頂展望台

 ここから南東を眺めれば、眼下に鷲羽山ビジターセンターがあり、釜島、松島やその先の讃岐の山々が見える。

南東の眺め

 北を眺めれば、児島の市街が見下ろせる。

児島市街

 南には、瀬戸大橋がある。カメラをズームにすれば、橋上を走る車を捉えることが出来る。

瀬戸大橋

橋上を走る車

 西を眺めれば、下津井の町並みがある。

下津井の町並み

 島と岬に守られた下津井は、帆船の時代には、風待ち、潮待ちの港として機能した。  

 江戸時代には、西国航路の要港であり、江戸時代後期に整備された四国街道の終点でもあった。

 鍾秀峰から下りて、遊歩道を西に歩くと、石室が露出した鷲羽山古墳群の3つの古墳を見学することが出来る。

 山頂側にあるのが鷲羽山第三古墳である。

鷲羽山第三古墳

 山頂付近にあった花崗岩をそのまま石室に使ったようだ。

 鷲羽山古墳群は、6世紀から7世紀にかけて築かれたものである。

 横穴式石室を備えた円墳が主に築かれたが、ほとんど風化していて、円墳自体は残ってない。

第二古墳

 第三古墳から遊歩道を西に歩くと、途中に第二古墳があり、最後に第一古墳がある。

第一古墳

 第一古墳の西側に、一本松展望台がある。ほぼ真下を瀬戸大橋が通っている。

 カメラをズームすると、讃岐平野の円錐形の秀麗な山々が見えた。

真下を通る瀬戸大橋

讃岐平野の山々

 かつて金毘羅大権現に参るために、四国街道の終点である下津井から参拝者が船に乗って讃岐に渡った。

 讃岐の山々を遠目に見ていると、金毘羅詣りをした江戸時代の人々も、この地から四国をこのように望んだのだと思い浮かべた。

鷲羽山 前編

 12月24日に備前の史跡巡りを行った。

 瀬戸内海国立公園の中で、国の名勝に指定されている鷲羽山(わしゅうざん)を目指した。

 鷲羽山の手前、岡山県倉敷市大畠1丁目の、瀬戸中央自動車道の高架の西側にある延命地蔵尊を訪れた。

延命地蔵

 延命地蔵尊は、小高い丘の中腹に建つ、鉄筋コンクリート製の小屋に覆われている。小屋は開いていないかと思ったが、戸に手をかけるとガラガラと開いた。

延命地蔵

 小屋の中には、延命地蔵尊や他の地蔵尊が祀られていた。延命地蔵尊は、巨大な岩に刻まれた摩崖仏である。

 摩崖仏の脇には、応安元年(1368年)二月の銘が刻まれている。南北朝期に刻まれたお地蔵様だ。

延命地蔵

 私は燈明と線香を上げ、お地蔵様の前に正座して「般若心経」を誦した。心が少し軽くなった気がした。

 延命地蔵尊は、石造地蔵菩薩立像として、岡山県指定文化財となっている。

 ここから鷲羽山に向かう。鷲羽山から瀬戸内海に突き出た久須見鼻にある鷲羽山不動明王の裏から、瀬戸内海を覗いた。

鷲羽山不動明王の入口

釜島

 鷲羽山不動明王の裏手からは、目の前に瀬戸内海に浮かぶ釜島を眺めることが出来る。

 釜島は、塩釜島とも呼ばれ、かつては製塩地であったという。

 島の北西には、塩釜明神が祀られているというが、ここからは見えない。また、天慶二年(939年)に海賊藤原純友が立て籠もったという釜島城跡もあるという。

 この島に渡航する定期船などはない。眺めるだけで終わった。

 鷲羽山は、全体が花崗岩で形成された標高約133メートルの低山で、遊歩道が山を横断している。

鷲羽山の案内図

鷲羽山の観光駐車場

 鷲羽山の東側にある観光駐車場に車を駐車し、歩き始めた。

 観光駐車場から坂道を西に登ってすぐの場所に、鷲羽山第二展望台がある。

鷲羽山第二展望台

第二展望台からの眺望

 第二展望台は、花崗岩が崩れた真砂土で覆われた広場になっており、高台に有料の双眼鏡が据え付けられている。

 第二展望台の正面眼下には、松島が見える。

松島

 松島の名称は、「潮待つ島」から来ているという。島の南岸には、潮待ち用の小さな港が設けられていたという。

 島の北側には、藤原純友を祀る純友神社がある。

 この辺りの島々は、藤原純友の弟の純基が拠点を築き、兄の純友と連携して朝廷の討伐軍に抵抗した場所だという。

 松島の左に目を転じると、先ほどの釜島が見え、その先に四国の山々が見える。

釜島と四国の山々

 ああ四国。いずれ書くことになるかもしれないが、四国は私の第二の故郷と言っていい。四国の地に足を踏み入れると、懐かしいような、温かいような、若い時に戻ったような気分になる。

 四国に広がる弘法大師空海の霊跡、四国八十八ヵ所霊場も、いずれ歩きながら巡りたいと考えている。

 さて、その四国に自動車や電車で渡ることが出来る瀬戸大橋の全景を、この第二展望台から眺めることが出来る。

瀬戸大橋

 しかし、瀬戸大橋があまりにも長大なので、1枚の写真に全貌を収めることが出来ない。

下津井から始まる瀬戸大橋

瀬戸大橋が架かる櫃石島

黒島と与島にかかる瀬戸大橋

 瀬戸大橋が架かる櫃石(ひついし)島、黒島、与島を眺めることもできる。この3島は、讃岐(香川県)である。いずれ訪れることになるだろう。

 第二展望台の西側には、鷲羽山レストハウスというレストランがある。

鷲羽山レストハウス

 ここは眺めが良さそうなレストランである。私が訪れた時は、まだ朝だったので開いていなかった。

 鷲羽山レストハウスの手前の展望スポットからは、岡山県側の下津井から香川県側の坂出まで架かる瀬戸大橋の全体を視野に入れることが出来る。

瀬戸大橋の全貌

 香川県側は霞んで見えるが、上の写真の左端には讃岐富士がうっすらと見えている。
 鷲羽山の南側は、変化に富んだ多島海で、日本のエーゲ海といってもいい明るい風光である。

 もしこの近くに住んでいたら、毎朝散歩したいほど眺めのいい場所である。

 この絶景を眺めて、鷲羽山近傍に住む人が羨ましいと感じた。

玄武洞ミュージアム その4

 古生代最後のペルム紀中生代最初の三畳紀の間に、地球の酸素濃度が低下し、生物の大量絶滅が起こったが、この原因は現在でもまだ特定されていない。

 酸素濃度が下がったため、肺の前後に気嚢を持ち、呼吸後の空気を肺に溜めず、効率的に酸素を取り入れることが出来る恐竜が繁栄した。

メソサウルスの化石

 上の化石は、両生類から進化した水陸両棲の爬虫類、メソサウルスのものである。メソサウルスはペルム紀から生息していた。

 メソサウルスの化石は、アフリカと南米の両方から見つかっており、両大陸がかつて1つの大陸であったことを証明したと言われている。

 約2億5千万年前に三畳紀に入ると恐竜が本格的に登場し、カメ、トカゲ、ワニといった爬虫類も繁栄した。

亀の甲羅の化石

トカゲの化石

 三畳紀は気候は乾燥していて、乾燥に強いソテツ、イチョウ、イチイなどの植物が繁茂していたという。

 また、菌類が樹木を分解出来るようになって、その過程で二酸化炭素が発生するようになり、大気中の二酸化炭素濃度は上昇し、気温が上がった。

 こうして温暖湿潤ジュラ紀が約2億年前から始まる。

 酸素が少ないこの時代、酸素濃度が地上よりまだ高い海中に進出する恐竜が出てくる。

 首長竜や魚竜がそうである。

首長竜プレシオサウルスの化石のレプリカ

魚竜イクチオサウルスの化石

 酸素濃度が12%まで低下したこの時代、気嚢を持たない哺乳類は、横隔膜を上下させることで肺に空気を入れやすくし、生き延びた。

 ジュラ紀に登場したのは鳥類である。小型の肉食恐竜が、飛行できるように進化したのが始祖鳥であるという。

始祖鳥の化石のレプリカ

 始祖鳥は胸骨が発達しておらず、尾に骨があるが、鳥類は進化の過程で、尾は軽い羽根になり、骨は軽い中空構造になり、翼の筋肉をつなぎとめる胸骨が発達した。

 また恐竜と同じく気嚢を持つ鳥類は、高い高度でも呼吸をすることが出来る。

 今我々が何気なく目にする烏やスズメも、まぎれもない恐竜の子孫であり、恐竜がかつて地球上に生息していた証でもある。

 約1億4500万年前から白亜紀が始まる。白亜紀には酸素濃度が上がって寒冷化が進んだ。

 植物は花を咲かせるようになった。恐竜は多種多様な発達を遂げた。

 恐竜の中で最も人気のあるティラノサウルスもこの時代に登場した。

ティラノサウルスの子供の化石のレプリカ

 ティラノサウルスは、最大の肉食恐竜だが、玄武洞ミュージアムに展示してあるのは、アメリカで発掘されたティラノサウルスの子供の化石のレプリカである。全長は成獣の2/3で、体重は1/4であるらしい。

 ティラノサウルスの化石のレプリカの隣に、ジュラ紀の肉食恐竜アロサウルスの鍵爪の化石のレプリカが置いてある。

アロサウルスの鍵爪の化石のレプリカ

 刃物のように鋭い爪である。倒した獲物の体を切り裂いて食べやすくするために進化した機能だろう。一種の機能美を感じる。

トリケラトプスの頭部の化石のレプリカ

 草食恐竜の代表格であるトリケラトプス白亜紀に登場した。

 海にはモササウルスがいた。

モササウルスの化石のレプリカ

 モササウルスは、白亜紀の海の支配者で、鋭い円錐状の歯でアンモナイトを食べていた。

 こうして繁栄していた恐竜だが、約6600万年前に絶滅した。原因は巨大隕石の衝突や火山噴火で大気中に膨大な塵が上がり、太陽光を遮って寒冷化したためだと言われている。

 寒冷化した環境下では、小型の変温動物で、お腹の中である程度の大きさまで子供を育ててから生む哺乳類の方が生存に適していた。

 恐竜が絶滅した約6600万年前から新生代が始まる。

新生代第三紀モグラの化石のレプリカ

新生代第三紀の馬の化石のレプリカ

新生代第三紀のマシラミスの化石のレプリカ

 新生代は、古第三紀、新第三紀、第四紀に分かれるが、古第三紀には小さな哺乳類が主流だったようだ。新生代の地球は、徐々に寒冷化に向かった。

 約2300万年前から約260万年前まで続いた新第三紀には、大陸に草原が広がり、大型の草食獣や肉食獣が出現し、我々人類の祖先も約700万年前にアフリカ大陸に誕生した。

猿人アウストラロピテクスの化石

 約700万年前にヒト族がヒト亜族とチンパンジー亜族とに分かれた。そうして分かれたヒト亜族が猿人アウストラロピテクスである。

 約260万年前には、原人が現れた。原人は石器や火を使用するようになった。

 人類が道具を使い始めてからの時代は第四紀と呼ばれている。

第四紀に登場したマンモスの顎の化石

 第四紀には、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が交互に訪れた。

 人類は、氷期が訪れると過酷な環境に晒されて進化した。

 高校の世界史の資料集の最初の方を見ると、氷期がやってきたタイミングで、原人が旧人に入れ替わり、旧人が新人つまり現生人類に入れ替わったのが分かる。

 生物は、新しく訪れた環境の変化に適応できないものは滅び、適応できたものが生き残るという淘汰のメカニズムにより進化してきた。

 最近の氷期は約12,000年前に終わり、間氷期になって気候が温暖な状態で安定したため、人類は農業を始め、文明を築くことが出来た。

 いずれ再び氷期が来るのは間違いがない。その時は、現生人類は絶滅し、環境に適応した者が新しい人類に進化するだろう。

 生命の歴史を見て気づかされるのは、生物が何度も絶滅してきたということであり、我々人類も生物の一種である以上、その例外ではないということである。

 今の人類は自分たちの子を産んで育て、日々労働して文明の発展と維持に努めている。だがこの人類の文明が、地球環境の変化でいずれ絶滅するのは確実なことである。

 そうすると、今の我々が生きて努力していることに何の意味があるのか、という疑問が生じる。

 人類は、そんな疑問に当面したくないので、なるべくそういう未来を考えないようにしている。しかし生命の歴史を見ると、現生人類の将来の絶滅は、避けることが出来ないことである。

 そんな運命を有する現生人類の生存に意味があるかどうかは、人類以外の存在が決めることではない。

 我々にとってゴキブリの生存の意味がどうでもいいように、ネズミにとって人類の生存の意味はどうでもいいことである。将来高度に進化したAIが、人類の生存が無意味だと計算の結果結論したとしても、それもどうでもいいことである。

 自分たちが生きている意味を決めるのは自分たちである。どうせ滅亡するからと言って、自暴自棄になるわけにもいくまい。

 将来の滅亡を見据えた上で、人類が生きる意味を模索するのが、人間らしさであると思われる。

玄武洞ミュージアムの前を流れる円山川

 

玄武洞ミュージアム その3

 玄武洞ミュージアムの2階には、生命が誕生してから人類誕生に至るまでの生命の歴史に関する資料が豊富に展示してある。

 本物の化石もあれば、レプリカもあるが、とにかく見ごたえのある展示であった。

 我々の住むこの惑星、地球が誕生したのは、約46億年前と言われている。地球誕生からの約40億年間は、先カンブリア時代と呼ばれている。この時代にも、バクテリアのような生命が海中に生息していた。

 約30億年前に、突然変異により、光合成をして酸素を放出するストロマトライトという藍藻類が海中に生まれた。

ストロマトライトの化石

 ストロマトライトが誕生するまで、大気中に酸素はほとんど存在しなかった。ストロマトライトが放出した酸素は、海中で鉄分と結びついて縞状鉄鉱層を形成したが、酸素が余剰状態になると、次第に大気中に放出されるようになった。

 今地球上で生きている生物は、ほぼ全て酸素をエネルギー源として取り入れているが、酸素は金属を錆びさせるように、強力な酸化作用を起こす。

 海中にいた原始生物は、酸素の出現でほとんど絶滅した。酸素は有毒であると同時に、これを有効に使うことが出来れば強力なエネルギー源になる。酸素を有効活用できるように突然変異した生物は生き残った。

 細胞膜を持つ真核生物は、酸素のおかげで出現した。我々人類もその一部である多細胞生物も、酸素の力がなければ体を維持できない。細胞が多数集合することで、生物は様々な機能を持てるようになった。

 約5億4千万年前から、古生代が始まる。古生代最初の時代は、カンブリア紀と呼ばれる。

 カンブリア紀には、爆発的に生物の種類が増えた。現代に生きる生物の種の祖先のほとんどがこの時代に誕生した。これをカンブリア爆発という。

目を持った捕食者アノマロカリスの模型

 生物の種類が爆発的に増えた原因は、目を持つ生物が誕生したからだと言われている。

 目を持つことで、生物は他の生物をすぐに発見し、捕食出来るようになった。このため生物間で生存競争が激しくなり、競争の過程で進化が進み、多様な生物が生まれた。

 目は他の生物を捕食するために生まれた器官である。目を持つ人間も捕食者である。人間は自分たちをそんなふうに考えたくないかも知れないが、自分たちの食生活を考えた時、それが嘘ではないとすぐに気づかされる。

 また、カンブリア紀に誕生したのは、目だけではない。脊索が誕生した。

カンブリア紀の脊索動物ピカイアの化石のレプリカ

 脊索動物は、背中側に神経管を持っている。脊索動物から脊椎動物が進化したが、神経管を背骨が包むようになった脊椎動物は、神経管の先に脳を持つようになった。

 これも生存競争の中から獲得した機能だろう。背骨を持つ我々人類も脊椎動物だが、その祖先である背骨を持つ魚類は、カンブリア紀に誕生した。

 カンブリア紀には、固い甲殻を持った三葉虫なども誕生したが、約4億8500万年前に始まったオルビドス紀には、海中でその三葉虫が繁殖した。

オルビドス紀の三葉虫の化石

 約4億4千万年前に始まったシルル紀は、大気中の二酸化炭素の濃度が今の約20倍で、現代人が問題にする地球温暖化どころではない温暖な気候であった。

 この時代には、海中に三葉虫やウミユリ、軟体動物が生息し、サンゴ礁が広がっていた。

ウミユリの化石

 シルル紀には、顎を持った魚が誕生した。生物は顎を持つことで、効率的に食料を摂取することが出来るようになった。また、鼻孔を持った魚も誕生した。

 顎を持った魚類のシーラカンスは、この時代に登場した。

シーラカンスの化石

 顎や鼻孔を持つ我々人類も、顎や鼻孔を最初に獲得したこの時代の魚類の子孫である。

 約4億1900万年前から始まったデボン紀は、魚類の時代と言われる。

 この時代に、アンモナイトも登場する。

アンモナイトの化石

デボン紀のヒトデの化石

 デボン紀になると、大気中の酸素濃度が増え、成層圏オゾン層が形成され、太陽からの紫外線がカットされるようになった。

 このため、陸上に生物が上陸出来るようになった。

 トクサ類やシダ類が地上に進出し、原始的な森林を作った。

 デボン紀後期には、寒冷化が進み、海中が無酸素状態になり、生物が大量絶滅した。

 デボン紀に形成され始めた地上の植物群は、その後地中で石炭になった。約3億6千万年前から、石炭紀が始まる。

石炭紀の地層から発掘された石炭

 石炭紀には樹木を分解する能力のある菌類がまだ存在せず、寿命を迎えた樹木は分解されることなく石炭になった。

 菌類が樹木を分解する過程で、二酸化炭素が放出されるが、石炭紀には樹木が分解されなかったので、光合成がひたすら進み、大気中の酸素濃度が35%にもなった。

 また石炭紀から、両生類が地上に進出するようになる。ついに生物は足を持つに至った。

両生類セイムリアの化石のレプリカ

 最初の両生類セイムリアは幼生時は水中で過ごし、成体になると足を持って地上を歩いた。

 足を持つ我々人類は、足を最初に持った両生類の子孫である。

 約3億年前に始まるペルム紀になると、哺乳類の祖先である単弓類が誕生する。

単弓類ディメトロドンの化石のレプリカ

 上の写真のディメトロドンは、眼窩の後ろに一つの穴が開いているが、これが単弓類の特徴である。

 見たところ、爬虫類のように見えるが、爬虫類は眼窩の後ろに2つの穴が開く双弓類で、ディメトロドンとは進化の系統が異なる。

 単弓類は、我々哺乳類の祖先である。横隔膜を使って呼吸し、生えた場所によって歯の形態が違う異歯性を有する。

 ペルム紀の末期の約2億5千万年前に、大気中の酸素濃度が約12%まで下がり、呼吸できなくなった生物が大量絶滅する。生物の95%が滅んだという。酸素濃度12%では、現生人類も絶滅するだろう。

 今まで紹介したカンブリア紀からペルム紀までを古生代という。

 双弓類から進化した恐竜は、気嚢を持ち、酸素濃度が低くても適応出来た。ここに恐竜時代と言われる中生代が始まる。

 こうして生命の進化の歴史を見ると、我々人類の持つ目や顎や鼻や歯や背骨や足は、これ全て他の生物を捕食して生き延びるために形成された機能であると分かる。

 我々は異性の顔を見て心動かされるが、捕食者の機能の集合した部位を見て心動かされていることになる。

 我々は猛獣を見たら恐ろしいと思うが、我々人類に食べられる生物の視点で我々を見ると、これ程残忍かつ計画的に他の生物を殺戮し捕食する恐ろしい動物はいないだろう。

 かと言って、人類の繁栄のためにはこれを止めることは出来ない。我々に出来ることは、我々もまぎれもない地球上の捕食者の一種であると認識することであろう。

玄武洞ミュージアム その2

 玄武洞ミュージアム1階には、豊岡杞柳(きりゅう)細工の歴史資料を展示し、製造体験が出来るコーナーがある。

 豊岡杞柳細工は、平成4年に経済産業省から伝統的工芸品に指定された。

豊岡杞柳細工

 杞柳は、古くから豊岡平野の湿地に自生するコリヤナギのことである。

 豊岡平野は、縄文時代には入海であった。地球の気温が下がって海水が引いた後も、泥水まじりの湿地帯であった。

 伝説では、新羅から渡来した天日槍が豊岡平野の水を排出し、豊岡平野を開拓したことになっているが、円山川下流域である豊岡平野は洪水に見舞われやすく、農業生産は安定しなかった。

 そこで地元の人たちは、円山川の河原に自生するコリヤナギを編んで籠を作るようになった。豊臣時代に産業として歩み始めたという。

柳行李を編む

 上の写真は、柳行李を編む状況を再現した展示である。コリヤナギを一晩水に浸して柔らかくし、行李板の上に並べて、柳の株元と枝先を交互にし、間に麻糸を通して織り上げていく。

 寛文八年(1668年)、京極隆盛が豊岡藩主となって、杞柳の栽培、柳行李の製造、販売に力を入れたことで、豊岡の柳行李は全国に知られるようになった。

進物行李や文庫

小間物屋行商行李

 豊岡藩は、コリヤナギの流出や製造技術の持ち出しを禁じて専売制を確立し、伊勢参りや参勤交代に商人を同行し、販路を拡大した。

特製行李手提籠

 明治14年内国勧業博覧会に八木長右エ門が柳行李にバンドを付けた行李鞄を出品し、それ以降手に提げる製品が多くなった。

行李鞄

 豊岡の行李鞄は、欧米にも輸出されるようになった。

 大正時代に宇川安蔵が考案した大正バスケットは、時代を代表する製品になった。

 アメリカ、カナダ、メキシコ、インド、オーストラリア等に数千種類の籠が輸出された。

大正バスケット

 昭和に入って、ファイバー製の鞄が登場した。

ファイバーかばん

 杞柳細工産業は、北但大地震世界恐慌で打撃を受けたが、満州事変、支那事変では軍用行李、飯行李としての需要が出来て、軍用品として数多く生産された。

 戦後は、ミシン加工が始まり、豊岡は杞柳細工だけでなく、日本のビニール製カバンの80%を生産する「カバンの町」になった。

 戦後は、杞柳細工としては買い物籠が多く生産された。

買い物籠

 また、今上陛下が学習院にご入園された際に贈呈された豆バスケットが流行し、学校指定にする学校が相次ぎ、「ナルちゃんバッグ」と呼ばれ愛用された。

ナルちゃんバッグこと豆バスケット

 中国と国交回復後は、中国や東南アジアから杞柳製品が輸入され、豊岡の杞柳細工産業は危機に瀕したが、動物の形をした動物かごや、高級品の花籠、炭斗(すみとり)籠を作るなど工夫をし、生き残った。

花籠、炭斗籠、動物かご

 平成4年に伝統的工芸品に指定されて、今では後継者の伝統工芸士も育成されている。

 皇后陛下上皇后陛下も豊岡杞柳細工製品をご愛用されており、今や日本を代表する伝統的工芸品となっている。

 私は今ZC33Sスイフトスポーツで日帰りで史跡巡りをしているが、いずれ宿泊しながら史跡巡りをするようになった時、柳行李に荷物を詰めてトランクに入れ、旅行をしようかと考えている。

玄武洞ミュージアム その1

 玄武洞公園の前にある玄武洞ミュージアムは、地質や岩石に関する資料、豊岡杞柳細工に関する資料、恐竜をはじめとする古生代中生代新生代の生物の化石などを展示する資料館である。

玄武洞ミュージアム

 平成30年にオープンしたようだが、ここが意外と見応えのある資料館であった。

 建物は2階建てだが、1階には地質や岩石に関する資料、豊岡杞柳細工に関する資料が展示してあった。

 今日は、地質と岩石に関する資料を紹介する。

 我々が住む日本列島がある場所は、元々は海の底だった。

 日本列島の最も古い層にあるのは、蛇紋岩である。

蛇紋岩

 海底の更に下にある橄欖岩が、海水と反応してできたのが蛇紋岩であるという。

 但馬最古の岩石は、上の写真の養父市大屋町で見つかった蛇紋岩で、約4.5億年前のものである。

 橄欖岩は、海洋プレートを形成している。地球の表面には、地殻という岩石で出来た層があるが、それが複数のプレートに分かれている。プレートが動くことで、大陸が移動する。これがプレートテクトニクスである。

 かつて、古太平洋側の海洋プレートが、大陸側のプレートの下に潜り込んでいたが、その過程で海洋プレートの表面の岩石が剝ぎ取られ、大陸プレート側に付加されていった。そして、大陸から海に流れ出た土砂と混ざって堆積していった。これを付加体という。

 日本列島は、海底内に堆積した付加体が基になって出来ている。約2億年前には、後の日本列島を形成した付加体は、まだ大陸にくっついていた。

 約8千万年~3千5百万年前に、海洋プレートが潜り込む際に生じたマグマが地底でゆっくり冷え固まって花崗岩になった。

 花崗岩は、他の岩石より比重が軽いので、地底から徐々に浮き上がり、付加体に加わった。

深成花崗岩

 花崗岩は、他の岩石よりも軽いため、時間の経過と共に浮き上がってくる。例えば紀伊半島の山々は、ほとんどが地中から浮き上がってきた花崗岩で出来ている。

 神道修験道では、山上にある巨岩を神仏が宿る磐座として崇拝するが、山上にある巨岩も、たいていが地中から浮き上がってきた花崗岩である。

 花崗岩は、寒暖の差があると伸縮して次第にひびが入り、崩れていく。風化の過程で山頂付近に残った花崗岩の巨石が、磐座と見なされていることが多い。

 真砂土は、花崗岩が崩れて出来たものだし、砂浜の白い砂も、花崗岩が崩れて出来たものである。

 さて、今の日本列島を形成した付加体は、まだ大陸の東端にくっついていたが、約2400万~約1400万年前になると、プレートテクトニクスの影響で大陸から離れて海側に動き始めた。大陸と付加体の間が引き延ばされ、そこに河川や湖が出来た。

 この時代には、大陸と付加体の間の河川や湖などの付近に巨大な象がいた。ステゴロフォドンやその子孫のステゴドンといった象である。

ステゴロフォドンの臼歯の化石(レプリカ)

ステゴドンの化石(レプリカ)

 ステゴロフォドンやステゴドンの化石は、日本各地で見つかっている。

 その後、火山活動の影響で大陸と付加体の間が開き始め、そこに海水が入り込んだ。日本海の誕生である。さらに付加体は隆起し、日本列島になった。

 丹後や但馬の海岸沿いには、この時代の火山活動で噴出した溶岩が固まって出来た安山岩流紋岩などの柱状節理を見ることが出来る。

 兵庫県美方郡香美町香住区にある鎧の袖や但馬松島などは、その典型例である。

鎧の袖

鎧の袖の流紋岩の柱状節理

但馬松島

 日本列島が誕生した後も、今の西日本の大半は海中にあった。今の西日本の陸地を形成したのは、火山活動で噴出した溶岩が主である。

 但馬では、約400万年~約250万年前まで、今の氷ノ山や鉢伏山などが火山として活動していた。

氷ノ山

 約160年前からは、神鍋山や扇ノ山などが噴火した。

 玄武洞玄武岩も、この時代の噴火で流出した溶岩である。

神鍋山

神鍋山の噴火の際に噴出された火山弾

 こうして火山の噴火で噴出された溶岩で、但馬の陸地は出来上がった。

 今の日本人の大半が住んでいる日本の平野部は、河川が山から運んだ土砂が堆積して出来たものである。豊岡平野も円山川が運んだ土砂の堆積で出来た。

 これら平野部は、せいぜいここ10万年程の間に出来たものだろう。

 地球では、約260万年前から氷期間氷期が繰り返されている。氷期の氷河によって、但馬の日本海側のリアス式海岸が出来た。「最近」の氷期が終わった約12,000年前に縄文時代が始まった。我々が知る歴史は、この辺りから始まっている。

 これからも氷期間氷期は100回は繰り返されると言われている。今は気候が温暖な間氷期だから、次は確実に氷期がやって来る。

 今の人類が引き起こした地球温暖化が、氷期の到来を遅らせるかどうかは分からない。

 今日書いたことは、SFのような壮大な話だが、我々が住むこの星の現実に他ならない。

玄武洞公園 後編

 玄武洞から南に少し歩くと、柱状節理が綺麗に残る青龍洞がある。

青龍洞

 柱状節理が湾曲しているが、溶岩が噴出した際の向きなどで、柱状節理の方向が変わるようだ。

 それにしても不思議で独特な風景だ。

 玄武洞の北側には、小規模な白虎洞がある。

白虎洞

 昔この風景を見た人々は、驚異の念に打たれたことだろう。自然の造形で、このようなものが出来るとは思い難い。

 日本人は古くから巨石を信仰してきたが、ここに神社や寺院が建てられなかったということは、信仰する対象とは捉えられなかったのだろう。

 何かは分からないが、不思議なものという認識だったのだろうか。

 白虎洞の北側には、南朱雀洞と北朱雀洞がある。

手前が南朱雀洞、奥が北朱雀洞

南朱雀洞

 南朱雀洞手前の岩石は、柱状節理があまり見られず、ごつごつしている。

 溶岩の表面が急速に冷えた場合は、柱状節理は形成されないらしい。

 場所や時期によって、岩石の形状も違ってくるようだ。

北朱雀洞

 地球は岩石で出来た惑星である。地中深くでは、岩石は溶けて液状になっているが、それも岩石であることに変わりはない。

 地表に現れた岩石は、地球の表情である。石や砂は、岩石が風化して小型化したものだし、土は、石や砂と腐った植物の葉や幹などが混ざったものだろう。

 そう考えれば岩石は、我々にとって父母のようなものだろう。