滝山城跡

 布引の滝の西側に聳える城山の山上にあるのが、滝山城跡である。

城山

 滝山城は、鎌倉時代末期に赤松円心鎌倉幕府軍と戦うために拠点にした城と言われている。

 戦国時代には、松永久秀支配下となった。弘治二年(1556年)、久秀は主君の三好長慶をこの城に招き、猿楽を催し、連歌会を開いてもてなしたという。

 その後、滝山城は、畿内に入ってきた信長の支配下に入り、家臣の荒木村重が城を守るようになった。

 天正七年(1579年)、村重が信長に謀反したため、織田軍に攻められて落城した。

 滝山城跡に登るには、2コースある。1つは城山の南東の登山口から登るコースである。

城山南東の登山口

 私は、南東側の登山口からは登らず、北東側の猿のかずら橋という、生田川にかかる橋を越えて行く道を選んだ。

猿のかずら橋

 橋を越えるとすぐに登山道になる。城山は標高約323メートルだが、結構傾斜が急であった。またこの日は猛暑日だったため、タオルで汗を拭けども拭けども汗が途切れることなく流れ出る。

 途中、神戸市街を一望できる地点があったので、そこで一息ついた。

南側のポートアイランド方面

灘区方面

 それにしても異常な暑さだ。気を取り直して山道を再び登り始めた。

山道を行く

 しばらく行くと、城の縄張りを書いた説明板があった。

滝山城跡の縄張り図

 滝山城跡は、曲輪が連続する連郭式の山城である。南北約600メートル、東西約400メートルに渡って防御機構が展開する。堀切や土塁が確認できる。

堀切

土塁の跡

曲輪

 山頂を目指して歩くと、切岸があり、切岸上に登るごとに曲輪がある。本丸手前の曲輪には、東屋がある。

切岸に登る道

二の丸跡

 東屋のある曲輪は、本丸の一段下にあるので、二の丸跡であろう。

 ここから先には本丸しかない。

本丸の切岸

 山頂にある本丸跡に登ると、「史蹟滝山城址」と刻まれた石碑が建つ。

滝山城址の石碑

本丸の曲輪

 滝山城跡は、鎌倉時代末期の元弘の変のころから天正時代の争乱まで、戦続きの城だったが、それほど有名ではない。

 この城からは、眼下の大坂湾や西国街道を見下ろすことが出来るので、要衝の地であったことは確かであろう。

 神戸という都市のすぐ裏に、戦国の世に戦乱の舞台になった城跡が残っている。今は登山客もほとんどなく、酷暑の中、静かに佇んでいる。まるで白昼の幻のように感じた。

布引の滝

 うろこの家の北側には六甲山系が迫っている。

 実はうろこの家の裏側には、JR新神戸駅の北側に抜ける遊歩道がある。

背山散策路の地図

 遊歩道の途中に地図があった。どうやらうろこの家の裏山は、背山と呼ばれているらしい。遊歩道は、背山散策路北野道という名前であった。

 うろこの家の北側から、背山散策路北野道を東に歩いていった。

背山散策路 港みはらし台

 散策路の途中、港みはらし台という神戸市街を一望できる場所があった。

港みはらす台からの眺望

 手前には赤い瓦の洋館がある。はるか遠くに六甲アイランドが見える。

 さて、今日紹介するのは、神戸市中央区葺合町にある布引の滝である。布引の滝は、那智の滝華厳の滝と並んで日本三大神滝と呼ばれる名瀑である。

 背山散策路の東端まで来ると、JR新神戸駅の北側に出る。更に歩くと砂子(いさご)橋という明治33年に架橋された煉瓦造りの橋がある。

砂子橋

砂子橋の写真

 砂子橋は、布引の滝から取水した水を、北野浄水場や奥平野浄水場に送るための水道管を通すために造られた橋である。

 いかにも明治風の煉瓦造りだが、実はこの煉瓦の欄干の大半は昭和51年に積み増しされたものである。

 砂子橋を渡って左折すると、布引の滝に至る散策路である。

布引の滝への散策路

 布引の滝は、雌滝、鼓滝、夫婦滝、雄滝という4つの滝の総称である。

 新幹線が発着するJR新神戸駅のすぐ裏手に、こんな山深い散策路があり、滝を見ることが出来るのは、自然に近い都市、神戸らしい。

 散策路を歩くと、最初に見えてくるのが雌滝である。

雌滝

 雌滝は、落差約19メートルの優美な滝である。岩肌に白い布を晒したように見える。

 雌滝の横には、明治33年に建設された雌滝取水堰堤がある。

雌滝取水堰堤

 雌滝取水堰堤は、雌滝周辺の水を汲み上げる設備だが、上の写真の石積みのドーム状の建造物は、堰堤設備の上に建てられたものである。

 雌滝から更に歩くと、鼓滝があるが、展望台から見ても木々に遮られて滝はほとんど見えない。

鼓滝の案内石と展望台

鼓滝方向

 ただ滝の音が鼓のように聞こえてくる。

 鼓滝から更に北上すると、落差約43メートルの雄滝とその下方にある夫婦滝(めおとだき)が見えてくる。

雄滝(奥)と夫婦滝(手前)

 岩壁を白糸のように下り落ちる雄滝は、古くから名所として知られ、「伊勢物語」にも言及があり、古来から数多くの歌人に詠われてきた。

 布引の滝を巡る散策路には、滝を詠んだ歌を刻んだ歌碑が多く置かれている。その中で、藤原定家の歌碑を紹介する。

藤原定家の歌碑

 その歌は、「布引の 滝のしらいと なつくれば 絶えずぞ人の 山ぢたづぬる」というものである。

 夏が来たら、布引の滝の白糸のような姿を見に、人々が絶えず山路を訪ねてくる、という平明な歌意だ。

 私がここを訪れたのは、夏の暑い盛りだったが、今の私の姿をそのまま定家が歌っていることに気づいて、900年を経ても人の行うことは同じだと思った。

雄滝

 それにしてもいい滝だ。しばらく暑さを忘れて滝に見とれた。

 実はこの滝には、22年前に夫婦で訪れたことがある。私たち夫婦にとっても、ここは思い出の滝なのである。

 滝の側には、不動明王を祀った祠が並んでいる。

不動明王を祀った祠

不動明王の石像

 ここで行者たちが滝行をしたこともあったのだろう。

 雄滝を過ぎてさらに山路を歩いて行くと、雄滝を見下ろす場所に、布引の滝の神様である白々龍神(しららりゅうじん)を祀った祠があった。

白々龍神を祀った祠

白々龍神の祠と役小角

 祠の脇には修験道の開祖役小角の像があった。

 日本の歴史が始まってから、山をあてどなく歩いて、初めてこの滝を目にした人は、そこに神を見たと思ったことだろう。

 華厳の滝那智の滝の近くに寺社ができたのに比べ、布引の滝の近くには信仰のための施設は出来なかった。

 そのためか、却って布引の滝から、仏教伝来以前の日本人の原初の宗教的感情を感じたのだった。

うろこの家 後編

 うろこの家1階の見学を終えて2階に上がる。

階段

2階通路

 2階は中央に通路があり、建物の北東、南東、北西、南西にそれぞれ部屋がある。南側にはベランダがある。

 南東の部屋は、絢爛豪華なアンティーク家具を多数置いている。

南東の部屋

アンティーク家具

 ヨーロッパの貴族の城館のような部屋だ。

 北東の部屋は、古いゴルフクラブなど、男性の趣味の道具のアンティークを集めて置いた部屋である。

2階北東の部屋

クラシック・ゴルフクラブ・コレクション

 展示してあるクラシック・ゴルフクラブ・コレクションは、1890~1910年ころに作られたものである。

 この他にも木製の古いスキー板などがあった。こうしたスポーツ用品でも、作られて100年経てばアンティークの仲間入りをするわけだ。

 うろこの家の最後の持ち主は、ドイツ人教師と言われているが、萌黄の館や風見鶏の館と異なって、当時住んでいた住民が実際に使っていた家具はここには残っていないようだ。

 今展示してあるのは、家の雰囲気に合うものを選んで集めてきたものだろう。

2階北西の部屋

エミール・ガレの照明

象嵌細工の丸テーブル

 北西の部屋には、1850年ころにイギリスで制作された象嵌細工の丸テーブルが中央に据えられ、エミール・ガレの照明が吊るされている。

 象嵌細工は、一つの素材に、異なる素材を嵌め込んで作る細工ものである。上のテーブルの模様部分は、テーブル素材と異なる木材を嵌め込んで作られている。驚くべき技巧である。

 南西の部屋は、書斎のしつらいになっている。

2階南西の部屋

書斎デスク

書斎椅子

 私は自分の家を建てた時、頭の中で夢見ていたような書斎を作ろうと思い立った。

 書斎の壁紙を近東風の唐草模様にし、書斎のデスクとして、英国アンティークのデスクを買い、浜本工芸の回転椅子を配した。

 書斎の書棚はホームセンターの安物の組み立て書棚にしたが、リビングに一つだけアンティーク調の書棚を置いた。

書斎の書棚

 今ではそのリビングの書棚に「鷗外全集」と旧版「三島由紀夫全集」を入れている。

 私は、このうろこの家のような豪華なものではなくて、大正時代や昭和初期の日本の洋風住宅のような室内空間を作りたかった。

 家は、人生で最も自分の時間を過ごす場所である。一生暮らす家を自分好みに作ると、気持ちは豊かになる。

 うろこの家の南側は、ベランダになっている。

ベランダ

 ベランダには何故かデンマーク王室が使用した橇が置かれている。

デンマーク王室が使った橇

 この橇はクルミの木で作られている。特徴的なのは、ドラゴンの彫刻である。バイキング船などにも、魔除けのために、船首に蛇や龍の頭などの信仰の対象や魔力のあるものを象った像を付けたものだが、この橇のドラゴンにも同じ意味があるようだ。

 うろこの家の西側の棟は、うろこの家美術館として、美術品を展示している。

西側の棟の展望塔

1階の原画展

 1階には原画展と題して北野異人館のイラスト画などが展示してあった。

うろこの家のイラスト

 2階ではヨーロッパ油彩名画展が開かれていた。油彩画の他にも、エミール・ガレのガラス製品などが展示してあった。

ジュール・ノエルの「嵐のち晴」

エミール・ガレの作品

 油彩画の中では、ジュール・ノエルというフランスの画家の「嵐のち晴」という作品が良かった。

 どうも私は、油彩で描かれた海の絵が好きである。

 3階は展望スペースになっている。

3階の展望スペース

展望塔

3階からの眺望

 3階から眺めると、ポートアイランドや兵庫の三菱重工の工場まで見える。

 異人館の中で最も高所にあるだけあって、さすがに遠くまでよく見える。

 さて、今まで長い間洋館を数多く紹介してきたが、今回で異人館シリーズは終了である。

 この北野異人館街みたいに、ヨーロッパ人が実際に生活するために次々と洋館を建てたような場所は、これからの日本に現れることはないだろう。

 そう思うと、異人館街は、開港を機に外国の商人が神戸に多く集った歴史を形として残した貴重な史跡と言える。

うろこの家 前編

 北野天満神社からさらに山際まで歩く。北野異人館街の中で最高所にあるのが、国登録有形文化財のうろこの家である。

うろこの家入口の煉瓦塀

うろこの家

 うろこの家は、明治18年(1885年)に旧居留地付近に建築され、明治38年(1905年)に現在地に移転した。

 今まで私が見学してきた異人館の中で、最も古い歴史を誇る。北野異人館の中で、最も最初に公開された建物でもある。

庭先の猪のブロンズ像

 庭先にあるイタリア製の猪のブロンズ像「ポルチェリーノ」は、ルネッサンス後期の彫刻家ピエトロタッカによって製作された作品のレプリカである。

 オリジナルはフィレンツェメルカートヌオヴォにあるという。この猪の鼻を撫でると幸運に恵まれるという。なるほど、鼻の頭が剥げている。みんな幸福を求めている。

 うろこの家は、木造2階建て、黒桟瓦葺である。うろこの家の名称は、粘板岩を板状に剥離したものを、魚の鱗状に加工して、外壁全面に貼っているところから来ている。

うろこの家

展望塔

天然石で造られた「うろこ」

 こんな珍しい外壁を持った建物は、日本ではここだけだろう。

 建物は、東西に2棟あり、西側の棟は「うろこの家美術館」として公開されている。

 私は先ず東側の棟から入った。

 東側の棟には、ヨーロッパのアンティーク家具や高級磁器が数多く展示されていて、見どころが多かった。

T.カーナー作「鸚鵡」

 入口のアンティーク家具の上に置かれた鸚鵡の磁器は、ドイツの磁器作家T.カーナーが1913年に制作したものである。

 日本の明治期の超絶技巧ものの磁器に勝るとも劣らない逸品だ。

 入口から入って左手にある応接間は、西側にステンドグラスを嵌め込んだ豪華な部屋である。

応接間

ステンドグラス

アンティーク家具

 部屋の片隅には、見事な木彫り彫刻がなされたアンティーク家具がさりげなく置いてある。

 私も一時、こういうヨーロッパのアンティークに憧れた時代があった。

 応接間には、ヨーロッパの高級磁器を納めた棚があった。

高級磁器を納めた棚

 例えば、デンマークのマルガレーテ女王在位10年を記念して、世界中の王族やVIPに贈られたロイヤル・コペンハーゲンの記念ボウルや、フランス大統領別邸で公賓接待用に制作されたロバート・アヴィランドの「バンガリ・レカミエ」シリーズ、ドイツのクラウトハイムのカップ&ソーサなどが展示してあった。

ロイヤル・コペンハーゲンの記念ボウル

ロバート・アヴィランドの「バンガリ・レカミエ」シリーズ

クラウトハイムのカップ&ソーサ

 こんな磁器を一脚でも所有して使いたいものだ。

 応接間の北側の部屋は、更にヨーロッパ各地の磁器を展示するスペースになっている。磁器の間と言ってもいいだろう。

磁器の間

 ここに展示されているコレクションがまた見事である。

 ロイヤル・コペンハーゲンの「フローラ・ダニカ」(デンマークの花)シリーズは、西暦1790年にデンマーク王家からロシアのエカチェリーナ2世への贈物として制作され、その後200年以上制作され続けているシリーズである。

ロイヤル・コペンハーゲンの「フローラ・ダニカ」

 こうした王族が使うような高級品だけでなく、1880年代に大衆用に制作されたロイヤル・コペンハーゲンの「ブルーフルーテッド・フルレース」というシリーズもあった。

ロイヤル・コペンハーゲンの「ブルーフルーテッド・フルレース」

 大衆用とは言え、これはこれで十分美しい作品だ。

 ドイツのマイセンが制作したアンティーク・ドールズは、1850年ころの作品だ。

アンティーク・ドール

 日本の陶磁器の骨董の世界だと、1850年ころの作品はまだまだ新しいと言える。伊万里焼で言うと、古伊万里というのは元禄のころのもので、幕末の作品はまだ古伊万里とは呼ばない。

 陶磁器の歴史は、東洋の方が西洋よりはるかに長い。

 1860年ころの古マイセンも多数展示されている。

古マイセン

 英王室が愛用するロイヤル・ウースターの「ペインテッド・フルーツ」シリーズも華麗なものである。

ロイヤル・ウースターの「ペインテッド・フルーツ」

 ヨーロッパの華麗な磁器を見ると、こちらも豊かな気持ちにはなるが、華麗以上の精神的な深みを感じることは出来ない。

 日本の陶器の最高傑作と言ってもよい初代長次郎の黒楽茶碗など、見ると心が吸い込まれるような深みのある作品である。そのような精神的な深さを垣間見せてくれる陶磁器は、西洋にはない。

 さて、陶器の間を出て玄関ホールに戻る。ホールの照明や玄関上のステンドグラスが美しい。

玄関の照明とステンドグラス

 洋館を沢山見学すると、西洋建築と日本建築との違いを考えさせられる。

 若いころは洋館やヨーロッパのアンティークなど、洋風のものに憧れたが、年齢を重ねるにつれ、本家帰りではないが、古くからの日本のものが良くなってくる。

 日本の建築や陶磁器は、日本の自然や風土によく溶け込んでいる。日本人であれば、その良さは年を重ねるにつれて自然と分かってくると思われる。

 その良さをなかなか言葉では言い表せないが、一言でいうと、四季の移り変わりや時の変化を感じさせてくれるもの、とでも言えようか。

 日本に生まれた以上は、我が国が古くから蓄えてきた文化の豊かな鉱脈に触れる幸せを感じたいものだ。

北野天満神社

 神戸市中央区北野町の地名の由来になったのが、風見鶏の館の東隣に鎮座する北野天満神社である。

北野天満神社

 治承四年(1180年)に、平清盛福原京に都を遷した際、福原の鬼門に当たるこの地に禁裏守護、鬼門鎮護の神として、京都の北野天満宮から菅原道真公を勧請したのが、神社の起こりだという。

 今では神社の周囲は洋館で囲まれているが、それでも北野町の中心は北野天満神社であると感じる。

参道の石段

 毎年境内で行われる北野国際まつりでは、神戸に住む外国人が、民族衣装を着て踊りを披露するなどし、国籍や宗派を越えて交流する。

 キリスト教イスラム教、ヒンズー教を奉ずる人々もここに集う。この古い神社が、国際色豊かな北野界隈の人々の交流の場になっているのが不思議である。

石段上の鳥居

 急な石段を登ると、古そうな石造の鳥居がある。鳥居を潜ると、拝殿がある。

 この拝殿は、寛保二年(1742年)に建立されたものである。

拝殿

 拝殿のある場所は、展望台のように見晴らしがいい。神戸の市街地が一望できる。

境内から眺めた神戸市街

 また、拝殿の手前には、水をかけながら願掛けを行う叶い鯉があった。

叶い鯉

 社務所は銅板葺の簡素な佇まいの建物だ。

社務所

 拝殿の背後には、石段があり、それを登ると本殿がある。本殿の裏は六甲山である。

本殿への石段

 本殿は透塀に囲まれている。本殿と透塀も、拝殿と同じく寛保二年(1742年)の造営である。

透塀と中門

本殿

蟇股の彫刻

本殿

本殿の彫刻

 本殿は、一間社流造である。木材が飴色になって、良い感じで古びている。

 祭神の菅原道真公は、学問の神様として崇められている。この高台にある社に参拝するだけで、何かを達成した気になる。きっと試験に合格するだろう。

透塀

大理石の牛

 天神様の神使である牛も、ここでは大理石で造られている。いかにも洋館の町らしい。

 本殿の横にある末社の薬照大明神は、神使の狐に守られている。稲荷神の一種なのだろうか。どういう由来の神様かは分からない。

薬照大明神

稲荷明神

 薬照大明神のお隣のお稲荷さんには、狐の像が多数奉納されている。お稲荷さんの土俗的なところが好きである。

 日本の神社は、古くからその場所に祀られてきたものが多いが、時代の変遷と共に神社の周辺の環境は変化する。

 北野天満神社の周囲も、近代になって異人館街になり、今では神戸を代表する観光地になった。

 北野天満神社は、そんな周囲の変化を受け入れ、その中で昔と変わらぬ威厳を保っている。地域の象徴になっている。

 変化を受け入れながらも己を失わぬかのような日本の神社が、私は好きである。

風見鶏の館 後編

 赤いカーペットが敷かれた階段を上がり、2階に行った。

階段

階段途中のステンドグラス

階段踊り場から2階を見上げる

 2階はトーマス家のプライベートな空間であり、1階の豪華な造りと比べ、割合簡素に造られている。

 質実剛健で合理的なドイツ人らしい家だ。

2階

 2階北東側は、客用寝室である。簡素なしつらいの2階の部屋の中で、この部屋の壁紙とカーテンは豪華な図柄である。

客用寝室

 19世紀半ばに、イギリス人のウィリアム・モリスが提唱したアーツ&クラフト運動の影響を受け、当時ヨーロッパではこうした部屋づくりが流行ったそうだ。

三面鏡

 部屋の奥にある三面鏡は、大正時代末期に神戸で製造されたものである。桜材で作られ、鏡はドイツ製である。

 右側に銅板で囲まれた火鉢があるのが珍しい。

火鉢部分

 この火鉢の中に炭を入れてコテを温め、髪をカールさせるのに使ったそうだ。

 この三面鏡は、トーマス家で使われていたものではなく。芦屋市民から風見鶏の館に寄贈されたものである。

 2階南東の部屋は、朝食の間と呼ばれている。

朝食の間

 毎朝トーマス一家がここで朝食を摂ったそうだ。

 この部屋は日当たりがよくて暖かく、当時は遠く大阪まで見渡せたという。冬はこの部屋が家族の居間に使われていた。

 2階南側中央の部屋は、子供部屋である。

子供部屋

 子供部屋の広さは実に24畳もある。南側の最も日当たりのいい部屋である。トーマス夫妻がいかに一人娘のエルゼを大切に育てていたかが窺われる。

 2階の南西は、ベランダになっている。

子供部屋からのベランダ入口

ベランダ

ベランダからの眺望

 眺望を楽しむためだけの空間があるというのは贅沢なものだ。

 ベランダの北側は、トーマス夫妻の寝室だったが、今は売店になっている。

寝室

寝室の壁紙

 風見鶏の館は、昭和53年に国指定重要文化財になり、昭和58年から60年の修復工事で、建築当時の姿に戻った。

 この館には、トーマス一家の家族愛が籠っているような気がする。どことなく温かさを感じる洋館である。

 トーマス家がここで生活したのは短い間だったが、20世紀初頭の日本で生活したドイツ人一家の家庭の雰囲気が、館の中に今でも残っているような気がする。

風見鶏の館 中編

 玄関の扉を開けて館の中に入ると、1階中央のホールが出迎えてくれる。

1階ホール

 ホールに入って左側には、トーマス夫人のサロンとして使われていた応接室がある。建物の南東側に当たる。

応接室

 応接室の天井には、アールデコ調の直線と曲線で構成された装飾が施されている。

応接室の天井

 20世紀初頭の建築だが、どことなく未来的なデザインだ。

 応接室の暖炉は、居間の暖炉と背中合わせになっていて、2つの暖炉の排煙が1つの煙突で済むように設計されている。

応接室の暖炉

 応接室の西側には居間がある。家族がくつろいだ空間だろう。

居間

居間の天井

 居間の天井は、木骨を表に見せるハーフティンバーの技法で作られている。とてもシックな空間だ。

 居間の奥には、外に張り出した一間があり、椅子やソファがおいている。家族はここで団欒の時を過ごしたのだろうか。

居間の奥

居間の暖炉

 応接室の暖炉が木で囲まれていたのに対し、居間の暖炉は大理石で囲まれている。この奥の壁の中を煙突が通っているわけだ。

 居間の西側には、広い窓から明るい外光が入る、開放的なテラスがある。

テラス

テラスの床

テラスの天井

 このテラスに、風見鶏の館を建てたトーマス家に関する資料や写真が展示してあった。

 1871年にドイツのライン川沿いの町、コブレンツで生まれたゴットフリート・トーマスは、明治24年(1891年)、20歳の時に来日する。

 横浜に上陸したトーマスは、中国との貿易を始めた。

 明治32年(1899年)、トーマスとクリステル夫人との間に1人娘エルゼが生まれた。

エルゼ4歳のころの写真

 明治35年(1902年)にトーマス一家は神戸に移り住む。明治38年(1905年)には、トーマス一家は現在風見鶏の館が建っている場所に転居した。

 明治42年(1909年)、クリステル夫人は神戸市に風見鶏の館の建築届を出した。

 大正3年(1914年)、エルゼのドイツ寄宿舎への入学のため、トーマス一家はドイツに一時帰国するが、帰国中に第一次世界大戦が勃発した。

 戦争では、日本とドイツは敵国同士になり、トーマス一家は日本に戻れなくなった。風見鶏の館は、日本政府が接収した。

 トーマス一家は、日本に財産を残してきたので、ドイツでの生活は困窮を究めたという。その後、トーマス一家の所在は分からなくなる。

 昭和52年(1977年)10月、日本で連続テレビ小説「風見鶏」が放送された。

 同年12月、神戸市がドラマで脚光を浴びた風見鶏の館を買い取り、一般公開することになった。

 ドイツで78歳になっていたエルゼ・カルボー婦人は、自分が14歳まで住んでいた風見鶏の館がまだ残っていて、一般公開される予定であることをドイツの新聞記事で知った。

 エルゼは、幼少期にこの館で暮らしていたことを、ドイツ海外放送の日本人記者に伝えた。

昭和55年、65年ぶりに風見鶏の館にやってきたエルゼ

 神戸市は、風見鶏の館のかつての居住者がドイツで生存していることを知り、日本にエルゼを招待することにした。

 昭和55年(1980年)、80歳になったエルゼは、実に65年ぶりに風見鶏の館の前に立った。

 上の写真は、館の前に立った時のエルゼを写したものである。驚きと喜びの気持ちが表情に溢れている。

 エルゼは、館で当時使っていた家具を神戸市に寄贈した。今その家具は書斎で展示している。

 昭和58年から60年にかけての風見鶏の館の復元工事では、エルゼが所持していた館の写真や、エルゼの証言が非常に役立ったという。

 その後エルゼは、平成9年に99歳で死去するまで、4回来日した。エルゼは生前、「ドイツは私の祖国で、日本は私の故郷である」と言って、日本に戻りたがったという。

 さて、テラスの北側には、食堂がある。

食堂

食堂の天井

食堂の暖炉

食堂西側の窓

 食堂には、備え付けの家具があるが、その家具の裏側は配膳室になっている。

 地下室で作られた料理がリフトで配膳室に上げられ、上下に開閉する家具のハッチを通して配膳室から食堂に届けられた。

食堂備え付け家具

備え付け家具のハッチ

 この食卓で、エルゼと両親は楽しく過ごしたことだろう。

 1階の北東の部屋は、トーマスの書斎である。

書斎

 書斎の五面のベイウィンドウに囲まれた空間にある、龍の彫刻の付いた椅子とテーブルは、当時館で使っていたものとして、エルゼが寄贈したものである。

 書斎の中央にある柵には、ロートレックを彷彿させるアールヌーボー調の絵画が描かれている。

アールヌーボー調の絵

 いかにも第一次世界大戦前のヨーロッパの流行を取り入れたようで、時代を感じる。

 エルゼにとって、小さいころに両親の溢れんばかりの愛情を受けて育ったこの館は、忘れることのできない家だったのだろう。

 私も、5歳から11歳までを過ごした新潟県岩船郡山北町(現村上市)の古い借家を懐かしく思い出すことがある。両親が木の柱を背にして私を立たせ、私の身長を鉛筆で柱に記していたものだ。

 人に歴史あり、家族に歴史あり、家に歴史がある。誰しも幼少期や思春期を過ごした場所には、特別な思い出があるものである。