風見鶏の館 前編

 北野町広場の北側に建つのが、北野町だけでなく、神戸市を象徴する建物と言える風見鶏の館である。

風見鶏の館

 風見鶏の館は、ドイツの貿易商であるゴットフリート・トーマスが明治42年ころに建てたものである。正式名称は、旧トーマス住宅で、風見鶏の館はその愛称である。

 この建物は、木造2階建て、外壁煉瓦造り、寄棟造り、スレート葺きで、石造の玄関ポーチや2階のハーフ・ティンバーが特徴的である。

建物東側

建物北東側

 今まで紹介した洋館が、木造瓦葺き、下板見張りの和洋折衷の様式だったのに対し、この風見鶏の館は、北野異人館街で唯一の煉瓦造りの外壁を持つ。屋根もスレート葺きで、外壁に木骨を見せるハーフ・ティンバーの技法を使うなど、典型的なアルプス以北のヨーロッパ木造建築の姿をしている。

 風見鶏の館の東側にある北野天満神社からは、この建物の全貌を見下ろすことが出来る。

北野天満神社から眺めた風見鶏の館

塔屋上の風見鶏

 風見鶏の館の愛称は、塔屋の上にある風見鶏から来ている。風見鶏は、風向きを知らせる役割を持つが、雄鶏の警戒心の強さから、魔除けの意味も持っているらしい。またヨーロッパでは、古くからキリスト教の教勢を発展させる効果があると言われてきた。

 昭和52年10月から昭和53年4月まで放送されたNHK連続テレビ小説「風見鶏」は、大正時代にドイツ人のパン屋に嫁いだ女性を主人公にしたテレビドラマだが、その舞台になったのが北野異人館街だった。

 このドラマには風見鶏の館は登場しないが、ドラマ放映を機に異人館街が全国的な知名度を持つようになり、観光客が多くやってくるようになった。

 観光客の増加と同時に、各異人館の修復工事や重要文化財への指定が行われた。

 風見鶏の館を取り巻く木製の柵と門扉は、建築当時の写真を元に、昭和58年に復元されたものである。

柵と門扉

 柵の基礎の煉瓦は、建築当時のものを使用している。

 門扉の上に、ラテン語でRhenaniaと書かれている。これは、ラテン語でライン地域を指すそうだ。

 この館は、建築当時ヴィラ・レナニアと呼ばれていたという。まさに「ラインの館」である。

 門扉を潜って敷地に入っていく。玄関は建物東側に付いている。

塔屋

 石造の玄関ポーチは、4本の石造の柱で支えられている。重厚感のある造りだ。

玄関ポーチ

玄関ポーチの床

石造の柱

柱頭の彫刻

 柱頭に刻まれている図柄は、ガマの穂である。ガマの穂は、昔からヨーロッパでは再生と多産のシンボルとされてきた。ボッティチェリの「ビーナス誕生」にも描かれているらしい。

 いわば縁起物の図柄だが、貿易商だったトーマスは、商売繁盛の意味を込めてここに刻んだのだろう。

 さて、木製の瀟洒なデザインの扉を開けて建物に入った。

玄関扉

玄関の照明

 この風見鶏の館は、明治42年(1909年)ころに完成したとされているが、明治38年(1905年)ころに建ったとする説もある。

 トーマス家は、大正3年(1914年)に子弟をドイツの寄宿舎に入れるため、ドイツに一時帰国したが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツが日本の敵国になったため、日本に戻れなくなった。

 トーマス家は、この家に僅かな間しか住むことが出来なかった。だが、トーマス家とこの家の縁は切れていなかった。

 この縁については、次回に紹介する。

萌黄の館 後編

 萌黄の館の2階へは、オーク材で作られたと思われる、重厚な色合いの手摺が付いた階段を登っていく。

階段

 階段は、2階の手前で踊り場を挟んで北側と南側に分かれている。

南北に分かれる階段

 2階北東側には、バスタブを備えた浴室、トイレ、洗面室がある。

浴室

 浴室も、この当時は最新式の設備だったのだろう。

 2階北西側には、子供部屋がある。

子供部屋

 ぬいぐるみはどうか分からぬが、小さな子供用の椅子は、小林家が実際に使用していたものだろう。

 階段の踊り場から南側には、3つの部屋があり、その南側にベランダがある。

2階の南側廊下

 浴室の南側にあるのは、化粧室である。夫人用の部屋だろう。

化粧室

 化粧台の横に、婦人用のトランクと帽子が置いてある。夫人が今から旅行に出かける準備をしていて、化粧の途中に中座したかのようだ。

 化粧室の暖炉のタイルは、女性の部屋らしいピンクの装飾がしてある。

化粧室の暖炉のタイル

 化粧室の南側には、寝室がある。

寝室

 寝室の中央にはテーブルがあって、酒壜とグラスが2つ置いてある。寝る前に、夫婦がテーブルを挟んで晩酌でもしたのだろうか。

 また、奥のデスクでは、主人は寝る前に日記でもつけたのだろうか。静かな日常が窺える。

 2階の南西側には家族がくつろぐ空間である居間がある。

居間

居間の暖炉

 居間で団欒する家族の姿が目に浮かぶかのようだ。暖炉のタイルの色は、落ち着いたブルーである。

 居間と寝室の南側にはベランダがある。

ベランダ

 ベランダからは、神戸市街が一望できる。ベランダには、ハンモックをかけるためのフックが2つ装備されている。

ハンモック用のフック

ベランダの東側

 フックは、ベランダ南側中央部の柱と、ベランダ東側の柱に付いている。

 休日にここにハンモックをかけて、その上で横になり、本を読んだり、気が向いたら港を眺めながらうつらうつらする。まあ夢のような生活だ。

 海が見える高台に洋館を構えて住んでみる、というのが人生の夢だが、どうやら叶いそうもない。

 こんな洋館を思い浮かべながら、甘い夢想をするしかないのか。

萌黄の館 前編

 ラインの館の前の坂を北に上がり、東西道に突き当たると西に歩く。すると、円形の北野町広場に行き着く。

 広場の西側に見えてくるのが、国指定重要文化財の洋館、萌黄の館である。

 神戸市中央区北野町3丁目にある。

北野町広場と萌黄の館

サックス奏者のブロンズ像

 北野町広場のベンチには、サックス奏者のブロンズ像が置かれている。神戸は、ジャズの町でもある。

 萌黄の館は、明治36年アメリカ総領事ハンター・シャープの邸宅として建てられた。

 昭和19年には、神戸電鉄社長の小林秀雄の住宅になった。

門扉

萌黄の館

 萌黄の館は、昭和55年に国指定重要文化財になった。当時の壁は白く、「白い異人館」と呼ばれていた。

 昭和62年からの修復工事で、建築当時の萌黄色の外壁が復元され、萌黄の館と呼ばれるようになった。

2階ベランダ

建物西側

 木造2階建て、寄棟造り、桟瓦葺、下見板張りの洋館である。今まで見たシュウエケ邸、北野物語館、ラインの館のどれも同じ建築様式だった。当時北野町で流行した建築様式なのだろうか。

 萌黄の館西側には、外側に突き出した、形の異なるベイ・ウィンドーがある。

1階テラス

玄関

玄関ステンドグラス

 南側に迫り出した2階バルコニーの下にテラスがあり、その中央に建物への入口がある。

 玄関から入ってすぐ左の南西の部屋は応接室である。

応接室

 萌黄の館各部屋には、重厚な造りの暖炉(マントルピース)があるが、各暖炉は異なる華麗な意匠のタイルで飾られている。

応接室の暖炉

華麗なタイルの模様

 応接室の北側は、書斎である。

書斎の入口

書斎

 1階南東側の食堂は、かつて小林家が居住していたころの面影を残している。

食堂北側(奥の扉は配膳室につながる扉)

食堂中央

 こんな部屋で朝食を摂るとさぞ気分がいいことだろう。

食堂の照明

壁紙の意匠

 洋館の見学で楽しいのは、部屋ごとに照明の形が異なることである。

 食堂の照明は、アールデコ調のもので、モダンな意匠であった。

 食堂にあった置時計は、ドイツの時計メーカーKINZLE製のものである。

KINZLE製の置時計

 小林秀雄が約80年前にヨーロッパで購入したものらしい。30分に1度、美しい音色を奏でるそうだ。

食堂南側の棚

棚の上の大理石像

 食堂南側の棚の上にある大理石の像は、元々ムッソリーニの所有物だったそうだが、小林の祖父で日本画家の菅楯彦が自身の作品と交換して譲り受け、イタリアから持ち帰ったものらしい。

 ドイツの時計とイタリアの大理石像があるというのが、小林がこの館に住み始めた当時の日本の国際関係を現していて、興味深い。

 小林秀雄夫人は、昭和52年の連続テレビ小説「風見鶏」で北野異人館街が脚光を浴びてから、観光客が自宅周辺に大勢訪れるようになったのを見て、観光客に喜んでもらおうと、この館の家具調度を残したまま借家に移り、館を一般公開したそうだ。

 小林夫人の心意気で、昭和の社長一家がこの洋館で生活した当時の様子を今でも偲ぶことが出来る。

 思えば人生の大半は家で過ごすのだから、アンティークの家具1つでもいいから、家に美しいものを置いていれば、豊かな気持ちで日々を過ごせるだろう。

ラインの館

 北野物語館から北野坂を北上すると、東西通りの北野通に至る。ここを右折東進すると、ラインの館が見えてくる。

 北野通は、石畳の歩道が続き、両脇に洋館が並ぶ通りである。

北野通

 幕末の神戸港開港と共に、旧居留地に西洋人が沢山やってきた。明治20年ころから経済的に余裕のある外国人たちは、見晴らしのいい北野地区に住居を建てるようになった。

 それが異人館街の発祥である。北野異人館街は、昭和55年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

 北野通の北側の高台に建つのが、ラインの館である。

ラインの館

ラインの館への階段

 ラインの館は愛称で、本来は旧ドレウェル邸という名称である。

 旧ドレウェル邸を建てたドレウェル夫人は、明治4年にフランスから来日した。来日した時は、まだ14歳だった。

 夫人は、明治15年に25歳でドレウェル氏と結婚した。大正4年、夫人58歳の時にこの邸が建てられた。

 夫人は大正9年に亡くなるまでこの邸に住んだ。

ラインの館の門扉

ラインの館

 ラインの館は、木造2階建ての寄棟造りで、桟瓦葺である。外壁は、細長い板を水平に少しづつ重ねた下見板張りである。

 昭和53年、神戸市が旧ドレウェル邸を買い取り、一般公開のための工事を行い、地区内の案内センターとして整備した。

 その際に市民から愛称を募集した。結果、ラインの館という愛称が選ばれた。 

 ラインの館の愛称は、最後の所有者オーバーライン氏の故国ドイツのライン川と、外壁の下見板張りの横線(ライン)の美しさから選ばれたのだそうだ。

ベランダとテラス

建物西側の庭園から

 ラインの館の南側は、2階部分のガラス張りのベランダが張り出し、その下はテラスになっている。
 建物西側には庭園があり、灯篭も置かれている。

建物入口

1階エントランス

 ラインの館は、北野異人館街の案内所のような位置付で、無料で入館できる。
 1階南東の張り出し窓のある間が応接間である。

応接間

 1階南西の間が居間である。その北側は食堂だったが、今は売店になっている。

居間

 赤絨毯が敷かれた階段を登り2階に上がった。

階段

2階

 2階では、3部屋が公開されているが、2階で印象的なのは、やはりベランダである。

ベランダ

ベランダからの眺め

 ベランダから南を望むと、洋館の向こう側に林立するビル群が見える。三宮駅前のビル群だ。

 この洋館が建った大正時代には、高いビルはなく、このベランダから神戸港の景色が見えたことだろう。

 港に臨む洋館。憧れの住居だ。

2階の部屋

 古い洋館には、華やかなところもあれば、どことなく寂しげなところもある。

 かつて遠い異国から海を越えて日本に来た外国人が生活した家である。そんな人たちが抱いた気持ちが、まだ邸の片隅に残っているような気がする。

関西ユダヤ教団シナゴーグ ジャイナ教寺院 北野物語館

 シュウエケ邸から西に歩き、一度トアロードに出てから北上する。道なりに歩くと、神戸市中央区北野町4丁目の関西ユダヤ教シナゴーグの前に出る。

関西ユダヤ教シナゴーグ

 ユダヤ教となると、日本人にはイスラム教よりも馴染みがないかも知れない。ユダヤ教キリスト教イスラム教は、同じ唯一神を崇めているので、実は兄弟のような宗教同士である。

 ユダヤ教シナゴーグは、日本では東京と神戸の2つしかないらしい。ここは西日本のユダヤ教徒の拠点なのだろう。

関西ユダヤ教シナゴーグ

 世界宗教の中で、最も古い出自を持つユダヤ教に敬意を表してシナゴーグ前を立ち去った。

 ここから東に歩くと、北野3丁目にあるジャイナ教寺院の前に出る。

ジャイナ教寺院

 ジャイナ教は、インドで紀元前5世紀ころに出来た宗教である。厳しい修行が特徴で、菜食主義や不殺生の教えで知られている。

 西インドのジャグラート地方を中心に分布しており、信者は数百万人である。インドの人口の約0.4%が信仰している。

 神戸市には約1000人のインド人が生活しているが、その内約120人がジャイナ教徒らしい。インド全体の信者の比率と比べると高い。

 神戸は世界的な真珠の加工・集積地であるらしいが、宝石商が多いジャイナ教徒が自然と神戸に多く集まったのだろう。

ジャイナ教寺院

 このジャイナ教寺院は、日本で唯一のジャイナ教の寺院である。インドから取り寄せた白亜の大理石を用いて、昭和60年に築かれた。

 私がカメラを持って寺院の前に立ち尽くしていると、サリーを着たインド人女性が私に会釈して寺院の中に入っていった。まるでインドに来たようだ。

 北野界隈は、外国の様々な地域の文化がまだら模様に分布しているが、今後の日本の都市部は、様々な異文化が集まる坩堝のようになっていくことだろう。

 ジャイナ教寺院から東に歩き、北野坂に至る。北野坂を南に下ると、北野物語館がある。

北野物語館

 北野物語館は、明治40年に、この地より北東約300メートルの北野1丁目に、米国人M.J.シェー邸として建てられた。

 木造2階建て、寄棟造り、桟瓦葺きの建物で、外壁は下見板張りにオイルペイント塗装されている。

北野館物語

 この洋館は、平成7年の阪神淡路大震災で、深刻な打撃を受け、取り壊されることになったが、解体に際して神戸市が部材を買い取り、平成13年に現在地に再建された。

 今は、スターバックスコーヒーの店舗になっている。これはこれで、神戸の震災からの復興の象徴の一つである。

 それにしても、明治の洋館に座ってコーヒーを飲めるのは幸せである。私はこの建物には入らなかったが、神戸の洋館とコーヒーの文化の香りを胸いっぱい吸い込んだ気になった。

神戸ムスリムモスク シュウエケ邸

 8月6日に神戸の史跡巡りを行った。

 先ず訪れたのは、神戸市中央区中山手通2丁目のパールロード沿いにある神戸ムスリムモスクである。

 この建物を見ると、一瞬自分が中東のどこかの町中に紛れ込んだ気持ちになった。

神戸ムスリムモスク

 このモスクは、昭和10年に神戸に住むイスラム教徒が出資して建築したものである。我が国最初のモスクである。

 昭和10年の日本人にとっては、イスラム教は縁遠い宗教であった。自分たちの住む東アジアと先進地域の西洋が日本人にとって関心のあるエリアで、中東やイスラム教への関心は低かっただろう。

 また世界の人口に占めるイスラム教徒の割合も少なかった。

神戸ムスリムモスクの入口付近

 そんな時代にこのモスクは建てられたが、今では歴史的建造物の仲間入りをしつつある。

 現代では、東アジア人やヨーロッパの白人の人口が減少する一方で、イスラム教徒の人口は、中東やアフリカ、ヨーロッパで増え続けている。このまま行けば、今世紀半ばには、イスラム教は世界で最大の信者を擁する宗教になりそうだ。

 人口動態を見れば、かなり正確に世界の行く末を予測できる。

神戸ムスリムモスク

 イスラム教の影響力は、今後の世界で益々増してくるだろう。我々が学生時代に学んだ世界史では、イスラム教圏は脇役だった。主役はあくまで中国やヨーロッパだった。だがこれからは、イスラム教圏が世界史の主役に躍り出てくるだろう。

 このままの人口動態が続けば、1000年後の世界人口の8割がイスラム教徒になっているかも知れない。

 その時代には、世界史=イスラム教の歴史で、西洋や東洋の歴史は世界史の中でおまけ程度のものになるかも知れない。

 イスラム教は、教団というものを持たない宗教である。信徒は「コーラン」を通して神と直接つながることが出来る。また、宗教の中に法律を内包していて、それが生まれてから死ぬまでの人の生活のすべてを律している。宗教というより、1人の人間の人生から国の政治までを包含する一つのシステムである。

 ムスリムイスラム教徒)が生きる目的は、ムスリムとして生まれ、ムスリムとして死ぬことである。生きることの目的と答えは、ムスリムとして生まれた瞬間に与えられている。

 文明が進むにつれ、キリスト教や仏教などの信仰は徐々に廃れてきたが、イスラム教の信仰はまだ強固に残っている。その理由は、このイスラム教の特徴にあるのかも知れない。

 さて、パールロードを東に歩いて、神戸市中央区中山手通1丁目のカトリック神戸中央教会に赴いた。

カトリック神戸中央教会

 カトリック南欧南アメリカで影響力のある宗教だが、世界宗教の中では「老舗」である。

 敬虔なカトリック教徒の家にイコンなどが飾られているのをテレビなどで見ると、何となく温かい気持ちになる。

 それにしても、世界各地の宗教施設が高密度で集まる神戸市の北野界隈は、異文化都市神戸を象徴しているような場所である。

 カトリック神戸中央教会からハンター坂を上っていく。

ハンター坂

 ハンター坂を北に上がると、異人館通りという東西通りに至る。異人館通りを西に歩くと、神戸市中央区山本通3丁目にあるシュウエケ邸が見えてくる。

シュウエケ邸

 シュウエケ邸は、明治29年にイギリス人建築家A.N.ハンセルが自邸として建築した建物である。

 木造瓦葺の2階建てで、煉瓦製の煙突の突き出た屋根に鯱が載るなど、和洋折衷の面白い建物である。庭には灯篭もあるらしい。

煉瓦の煙突と鯱のある屋根

 今でもシュウエケ・エズラーという方の住居として使われているらしい。

門扉

シュウエケ・エズラー氏の表札

 シュウエケ邸は、かつては1階部分の一部と庭園を一般公開していたが、今は閉館している。

 室内にはフランス製家具が並び、壁に浮世絵のコレクションが掛けられているそうだ。内部を見てみたかった。

 今回の史跡巡りの半分は、北野異人館街の異人館巡りに費やされた。たまになら、異国情緒に浸るのも悪くないものだ。

旧倉敷市瀬戸大橋架橋記念館

 岡山県倉敷市児島味野2丁目にある児島市民交流センターは、平成22年3月に閉館した倉敷市瀬戸大橋架橋記念館の建物を再利用したものである。

倉敷市瀬戸大橋架橋記念館

 旧倉敷市瀬戸大橋架橋記念館は、昭和63年4月10日の瀬戸大橋開通と同日に開館した。

 瀬戸大橋を始めとする世界の著名な橋の模型が展示された記念館だったが、入館者の減少と倉敷市の財政難から平成22年3月に閉館となった。

 私は、瀬戸大橋が開通した時は中学3年生であった。開通してすぐに、父の運転する車に、今年100歳になった祖母と一緒に乗って見に行ったものだ。

 その後の人生で、私はこの橋を何度も通った。これからも何度も通ることだろう。

 館の外観は、太鼓橋をモチーフにしたもので、開館当時は、階段を登って建物の屋根の上まで行けたようだ。

 館の内部には、白漆喰で固められたローマ時代の神殿のような建物がある。

ローマ神殿風の建物

 この神殿のような建物の中に、今は児島市民交流センターの事務室がある。昔はこの中に土産物屋があったことだろう。

 この建物の上に、中世か近世の日本の庶民の姿を描いた天井画が広がっている。

日本の庶民を描いた天井画

 純西洋風の建物と日本の庶民の天井画の組み合わせが何とも珍妙だが、これはこれで面白い空間である。

 天井画と言えば、バチカン宮殿システィーナ礼拝堂ミケランジェロが描いた「最後の審判」を思い浮かべるが、ああいう宗教画ではなく、逞しい日本の庶民たちを描いた天井画というのも味があって面白いものである。

 さて、ローマ神殿の2階はエンタシスが連なる回廊になっている。そこに瀬戸大橋の模型が展示されている。

2階の回廊

瀬戸大橋の模型

 瀬戸大橋が明石海峡大橋しまなみ海道と異なるのは、鉄道が通行していることである。

 瀬戸大橋は、鉄道と自動車道を併用する橋としては、今でも世界最長の記録を保持している。

 瀬戸大橋を通って、高松市岡山市を結ぶJRの快速マリンライナーは、両市を一つの経済圏にしていると言ってもいいだろう。

 瀬戸大橋は、本州と四国を結んだ最初の橋である。この橋が出来るまでは、四国へは船か飛行機で渡るしかなかった。瀬戸大橋が、日本の歴史上いかに画期的な橋だったかは、後世の人々も評価することだろう。

 館の東側は公園になっていて、日本各地の伝説の橋を模したものが展示されている。

屋形橋

 屋形橋は、屋根を備えた橋で、日本庭園にある廊下橋や、神社参道にある鞘橋などの種類がある。この屋形橋は、京都平安神宮の庭園に今もある屋形橋を模している。

三河の八橋

 次の三河の八橋は、「伊勢物語」で在原業平が訪れた三河国の杜若の名所に架かっていたとされる伝説の橋である。

 今でも庭園にこのような八橋が架かっているのを見かける。

 この橋の両脇に杜若が咲いている初夏の風景を想像すると、確かに涼し気である。

佐野の舟橋

 最も簡略に川に架けることができる橋は、並べた船の上に板を敷いて作った舟橋である。

 「万葉集」には、上野国の佐野の舟橋を詠った歌が出てくるが、この橋はそれを模したものである。

 海に浮かぶ橋と言えば、私が少年時代を過ごした兵庫県相生市には、相生湾の海上に浮かんでいた皆勤(かいきん)橋という浮橋があった。

 相生市街と相生湾対岸の石川島播磨重工(IHI)の播磨造船所を結んだ橋である。昭和61年の円高不況で造船業が沈むまで、毎朝相生駅から自転車に乗ったIHIの社員が、この橋を大挙して渡っていたものだ。

 橋が人々の思い出につながるということがあるものだ。

足利行道山くものかけはし

 次なる足利行道山くものかけはしは、かつて山岳修行の聖地である下野国行道山浄因寺の寺域から茶室清心亭に架けられていた橋を模したものである。

 この橋は、葛飾北斎が版画に描いたことで有名である。

越前福井の橋

 次なる越前福井の橋は、14世紀に城下町福井の町中に架けられた橋で、半分木橋、半分石橋という奇矯な橋で、橋の両端に高門を建て、海内無双を誇ったという。

 明治42年まで現役だったそうだ。

泉崎夜月の石橋

 次なる泉崎夜月の石橋は、那覇市内に架かっていた石橋で、17世紀に架橋されたものである。

 今の那覇市内には、この橋を復元した石橋が架かっている。

 思えば橋というものは、人間の生活の範囲を広げるものとして、欠くべからざるものである。

 一つの橋が、人の人生を変えるということもあり得ることだろう。