河原町妻入商家群

 篠山の街並みの東側に、東西に古い商家群が軒を連ねる一帯がある。

 丹波篠山市河原町河原町妻入商家群である。

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河原町妻入商家群

 千本格子、荒格子、虫籠窓などを持った瓦葺、白壁の商家が道の両側に続く。

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 白壁の街並みを歩くと、江戸時代後期から明治時代にかけての商店街にタイムスリップしたかのような気分になる。

 丹波篠山市指定文化財となっている西坂家住宅は、江戸時代の建築である。

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西坂家住宅

 入母屋造妻入の中二階建ての建物で、間口の広さは河原町の商家群の中では屈指である。

 西坂家の屋号は綿屋で、元は綿花栽培と醤油屋を営んでいた。

 もう一つの丹波篠山市指定文化財の建物が、川端家住宅である。

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川端家住宅

 こちらは明治時代初期に建築された入母屋造平入の建物で、使用された木材の豪華さは、河原町の商家群で有数であるらしい。

 この商家群は、まだ現役の商店として店を開いているところが多く、歩いていて楽しい。

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商家群の一つ

 ある商家では、ショーウインドーの中に古丹波を展示していた。

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ショーウインドーの古丹波

 古丹波の大壺のでっぷりとした存在感のある形と、素朴な土の色、緑色の自然釉の味わいが好きだ。

 そんな古丹波を収集し、展示しているのが、商家群のなかにある丹波古陶館である。

 丹波古陶館は、昭和44年に開館した。丹波窯創成期から江戸時代末期までの丹波焼を収集展示しており、312点の古丹波コレクションは、兵庫県指定文化財となっている。

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丹波古陶館

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 丹波焼は、備前常滑、越前、瀬戸、信楽と並ぶ六古窯の一つで、その歴史は平安時代末期に遡る。

 丹波焼は、開窯当初は政庁や社寺の求めに応じて祭器、経器、薬壺などの上手物を焼いたが、陶土と窯の条件が悪く、その目的に答えることが出来なくなった。

 やがて丹波窯は、大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩み始めた。

 丹波古陶館の館内は、写真撮影禁止であったため、同館のホームページに掲示された写真を転載させて頂く。

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鎌倉時代の自然釉大壺(丹波古陶館ホームページから転載)

 鎌倉時代の古丹波の大壺など、土の中からそのまま生まれてきたかのような素朴で力強い味わいがあって好きなのだが、これも陶工が、陶土と穴窯の条件の悪さと戦って生み出したものなのかも知れない。

 上の大壺は、私が展示品の古陶の中で一番気に入ったものだが、ごつごつして均衡が取れていない形といい、自然釉の豪快なかかり具合といい、炎と土の化身のようだ。

 口に欠けがあるこの大壺は、耳なし芳一と呼ばれている。

 慶長末年、朝鮮半島から登窯や轆轤の技術が伝わり、丹波窯にも革新が訪れた。

 登窯と塗土が生み出した赤土部釉は、江戸時代の丹波焼の特徴である。

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赤土部釉窯変油壷(丹波古陶館ホームページから転載)

 江戸時代後期になると、白、黒、灰、鉄などの釉薬のかけあわせによる多彩な文様を持った丹波焼が出てくる。色絵も登場する。

 丹波焼の歴史は、技術革新の歴史だ。

 さて、丹波古陶館の隣には、姉妹館である篠山能楽資料館がある。

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篠山能楽資料館

 篠山能楽資料館の建物は、明治43年に篠山電燈株式会社の建物として建てられた。

 昭和40年まで、関西配電(関西電力)株式会社の篠山支店として使用された。その後一時期篠山文化物産会館となったが、昭和51年に丹波古陶館二代目館長中西通によって、篠山能楽資料館として開館した。

 館内には、各時代の能面や能衣装、楽器など、能で使用される品々が展示されている。

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能面 小面 赤鶴吉成 作 室町時代初期(能楽資料館ホームページから転載)

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能面 大飛出 井関次郎左衛門親政 作 室町時代末期(能楽資料館ホームページから転載)

 能楽資料館も館内写真撮影禁止であったため、同館のホームページから写真を転載させて頂く。

 能は遠く飛鳥時代秦河勝が行った申楽や、農村の祭礼で舞われた田楽を起源とすると言われている。

 時代と共に洗練されて、様式化の進んだ型で、人間の内面を象徴的に表現するようになり、幽玄の世界をかもし出すようになった。

 このような表情に変化のない能面でも、角度を変えることや、型によって表情があるかのように見せる。

 丹波篠山には、春日神社に西日本有数の能舞台があり、今でも能会が催されている。

 古くから続いて、今も大事に受け継がれているものこそ、民衆の中に息づいた伝統というものだろう。

鳳鳴酒造ほろ酔い城下蔵

 丹波杜氏酒造記念館から少し北に歩いた丹波篠山市呉服町に、丹波杜氏の一つ、鳳鳴酒造がある。

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鳳鳴酒造

 鳳鳴酒造の敷地の奥には、寛政九年(1797年)の創業当時の酒蔵である、「ほろ酔い城下蔵」が今も残っている。

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ほろ酔い城下蔵

 ほろ酔い城下蔵は、現在では国登録有形文化財となっている。ほろ酔い城下蔵の内部には、鳳鳴酒造がかつて酒造で使用した道具類が展示されていて、無料で見学できる。

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ほろ酔い城下蔵の入口

 ほろ酔い城下蔵の入口から入ったところは、米蔵である。仕込みに使う白米を貯蔵していた場所である。

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米蔵

 昨日の「丹波杜氏酒造記念館」の記事で紹介したように、洗米して水に漬けた米は、釜の上に置かれた甑(こしき)の中で蒸される。

 ここでは、かつて実際に鳳鳴酒造で使われていた釜と甑を見ることが出来る。

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釜と甑

 甑を載せる釜の裏には、薪を入れる煉瓦造りの焚口がある。

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釜の下の焚口

 蒸された米は、麹(こうじ)、酛(もと)、醪(もろみ)の材料として使われるようになる。

 蒸米は、それぞれの用途に応じた冷やし方で冷やされる。近代になると、放冷機という機械で蒸米は冷やされたようだ。

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放冷機

 蒸米の中で、麹用の蒸米を使って麹が作られる。

 蔵の最奥には、高温に保たれた麹室がある。この中で、蒸米に種麹(もやし)を振りかけて、麹菌を繁殖させ、麹を作る。

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麹室入口

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麹室内部

 麹室は、天井が低く、薄暗い。この蒸し暑い麹室での作業が、酒の出来栄えに大きな影響を持つ。

 麹を蒸米と水に混ぜて酛が作られ、酛に麹と蒸米と水が混ぜられて醪が作られる。これを仕込みと言う。

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仕込み蔵

 醪は酒袋に入れられて、槽(ふね)という木製の入れ物に詰められ、上から押されて圧縮される。

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 槽の中で圧縮された醪から液体が染み出す。それを槽の下に設置された「たれつぼ」が受ける。

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槽の吐口と、たれつぼの設置場所

 こうして絞り出された酒の上澄みを加熱して酵母の働きを止め、蔵でタンクに入れてしばらく貯蔵する。こうして熟成されてお酒が出来る。

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貯蔵桶

 ところで、ほろ酔い城下蔵の中では、現在も酒が貯蔵され、熟成されていた。

 「夢の扉」というブランドのお酒は、桶の中で貯蔵されている間、音楽振動醸造装置によって、醪に振動を与えられながら熟成される。醪の中で酵母菌が音楽の振動を感じ、活性化して分子が細かくなって、まろやかなお酒になるという。

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音楽振動醸造装置が設置された貯蔵タンク

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音楽振動醸造装置

 この装置から流れるクラシック音楽や、デカンショ節という篠山のデカンショ祭りで流れる音曲を聴いて、「夢の扉」は完成する。

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「夢の扉」

 ちょっと買って飲んでみたくなった。

 お酒は人を酔わせる飲み物だ。杜氏たちは、自分たちの造った酒によって、多くの人が上機嫌になり、幸せな気分になるところを想像しながら酒を造る。

 確かに夢のある作業だ。

 お酒に限らず、モノづくりには夢が必要だ。自分の仕事の先に人の笑顔があると想像することが、仕事のモチベーションを高めるのは、いつの世も同じだろう。

丹波杜氏酒造記念館

 丹波の地には、現在も日本酒を醸造する職人集団、丹波杜氏(とじ)が存在する。

 丹波杜氏の歴史は、江戸時代前期に遡る。篠山藩主の厳しい年貢の取り立てや、気候の厳しさによる不作から、篠山藩の領民は生活に困り、元禄年間(1688~1703年)のころから、灘や伊丹の酒造地帯に出稼ぎに出るようになった。

 こうして酒造の技術を修得した領民は、丹波に戻って酒造業を起こすようになった。丹波杜氏の誕生である。

 丹波杜氏が古くから培った酒造方法や、使った酒造用道具を保存展示するために建てられたのが、丹波篠山市北新町にある丹波杜氏酒造記念館である。

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丹波杜氏酒造記念館

 この記念館内には、酒造の工程ごとに使用される道具が展示されている。それらを見学すれば、酒米から日本酒が出来る過程を学ぶことが出来る。

 酒造りは、まずお米を洗うところから始まる。

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 踏桶に米を入れ、蓮桶から水を汲んで踏桶に入れ、足で米を踏んで洗う。

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洗米用の水を入れた蓮桶

 米作りは冬に行われる。肌を切るような冷たい水に足を踏み入れて、米を洗うのだ。重労働である。

 洗った後の米を、午前9時ころに漬桶に入れて、途中水を入れ替えて、午後8時ころに水を抜く。こうして米は洗われた。

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漬桶

 次は蒸米だ。

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 釜屋という職人が、夜中の午前0時ころにかまどに火を入れて釜の中の水を焚く。

 釜の上には底に穴の空いた甑が置かれている。蒸気が甑に上がる仕掛けだ。

 1時間ほどで釜の水が沸騰すると、釜の上に置いた甑の底にサルという道具を置き、蒸気が四方に出るようにする。こうすれば、甑に入れた米が満遍なく蒸されるようになる。

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甑と釜

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サル

 サルをセットしたら、甑に漬桶から移した米を入れ、蒸気で蒸すのである。

 出来上がった蒸米は、出来を杜氏がチェックして、良ければ大蔵に運び込まれる。

 蒸米は、麹(こうじ)、酛(もと)、醪(もろみ)の用途に区分し、それぞれ所定の温度まで冷やす。

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 蒸米は、筵の上に広げられ、釜屋が櫂割(かいわれ)という道具を用いて、蒸米に線を入れていく。間に谷間が出来ることで、蒸米は均等に冷やされる。

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筵の上で櫂割に引かれる蒸米

 この次の工程が、酒造りのキモとなる麹造りである。麹は、米を発酵させてアルコールを作るのに必要だ。

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 麴用の蒸米を床に積み、その上に三重に筵を被せて覆う。2~3時間後、筵の上で蒸米に種麹(もやし、麹菌のこと)を振りかけ、蒸米を筵に擦り付け、手で揉む。

 麹菌の繁殖には、30~40℃の高温と適度な湿度が必要である。外側の土壁と室の間の75センチメートルの空間に、籾殻と藁を詰め込んで断熱された麹室の高温のなかでこの作業が行われる。

 蒸米に麹菌が繁殖し始めたら、蒸米を麹蓋に盛り、6枚重ねにして麹室に置き、積み替えなどを行って満遍なく麹菌が繁殖するようにする。こうして麹が出来上がる。

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麹蓋

 次は、酛仕込みである。

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 酛とは、麹と蒸米と水を混合させ、酵母を繁殖させたものである。

 この酛が、醪をアルコール発酵させる元になるものである。

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酛仕込みの道具

 酛仕込みは、蔵中総出で汗だくになりながら作業する。

 次の作業は醪仕込みである。

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 醪とは、酛に麹と蒸米と水を混ぜ、アルコール発酵させたものである。醪を仕込むに当って、酛の酵母や酸の濃度が薄まらないよう、また酵母以外の有害な菌が繁殖しないよう、蒸米、麹、水を三段階に分けて仕込んだ。一般に「三段仕込み」と言われている。

 発酵した醪は、アルコール分を含むようになる。ようやく日本酒に近づいてきた。

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醪仕込みの道具

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 醪仕込みの後、20~23日経って発酵した醪を酒袋に入れて、槽(ふね)の中に入れて圧搾し、液体を絞り出す。

 絞り出された液体が即ち酒である。この作業を上槽という。

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 上槽の最も原始的な方法は、槽に酒袋を入れてその上に蓋を被せ、石を掛けた天秤棒を用いて蓋を上から抑え、圧搾するものである。これを石掛式という。

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石掛式の図

 こうして圧搾された酒袋の中の醪から、酒が染み出てくる。

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 さて、こうして出てきた酒は白く濁っている。これを入口(いれくち)桶に入れて1週間ほど置いて滓を沈殿させ、濁りを取る。

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入口桶

 滓が沈殿し、酒の上の方は澄んでくる。この上澄みを加熱して、酵母の働きを止める。これを火入れという。沈殿した滓が、粕である。

 火入れの終わった酒は、形としては完成したが、これを旨い酒にするには熟成させる必要がある。

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 火入れの終わった酒を貯蔵桶に入れて、秋まで眠りに就かせる。

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貯蔵桶

こうして貯蔵する間に熟成が進み、味わいのある酒になる。

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様々な日本酒

 私は酒に強いわけではなく、好んで飲むことはないが、上質な日本酒を口に含んだ時の風味の良さは格別であることは分る。

 米と水と菌と酵母と気温と湿度の混合によって酒が出来る。

 酒が出来る工程を知って、私のような酒飲みではない人間でも、ちょっと酒を口に含みたくなった。

 酒は人を狂わせたり幸せにしたり、人同士の仲を良くしたり、悪くしたりする、何とも不思議な飲み物である。

丹波篠山市 春日神社

 大正ロマン館と歴史美術館の少し北にある丹波篠山市黒岡町に、丹波篠山市を代表する神社である春日神社がある。

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春日神社参道

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春日神社鳥居

 春日神社の創建は、貞観年間(859~877年)に大和の春日大社から、分霊が今の篠山城跡のある笹山に勧請されたことに始まる。

 慶長十四年(1609年)に笹山に篠山城が築かれた際、春日神社は現在地に移転された。

 丹波の地には、春日という地名もあり、春日神社も数多くある。この辺りが奈良の春日大社神領だった証だろう。

 畿内の有力神社は、日本各地に神領を持ち、その地にはそれら有力神社の神様が勧請された。

 住吉神社賀茂神社も日本各地にあるが、それらの神社が建つ場所は、昔はそれぞれの神社の神領地だった可能性がある。

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随身

 参道の突き当りにある随身門の右側には、右大臣菅原道真、左側には左大臣藤原時平の木像が置かれている。

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菅原道真木像

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藤原時平木像

 道真は、藤原時平の讒訴によって大宰府に流されたわけだが、その因縁ある2人が随身門の両側にいて、神域を守っているのが面白い。

 境内に入って右手に行くと、絵馬殿がある。

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絵馬殿

 絵馬殿には、江戸時代初期に奉納された絵馬が多数掲示されている。

 その内、丹波篠山市指定文化財となっているのが、「黒神馬絵馬」と「大森彦七絵馬」である。

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黒神馬絵馬

 黒神馬絵馬は、慶安二年(1649年)に第三代藩主松平忠国が明石へ転封となった際に奉納したものである。

 狩野尚信の筆によるものと言われている。雄健、精巧に描かれている。

 この馬が絵馬から抜け出して黒岡の畑を荒らしたという伝説があるほど、生き生きと描かれた絵馬である。

 次の大森彦七絵馬は、貞享四年(1687年)に松平家の臣、塀和佐内景広が奉納したものである。 

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大森彦七絵馬

 この絵は、足利尊氏幕下の大森彦七が、湊川の合戦で南朝楠木正成に詰腹を切らせた報いとして、南朝諸将の亡霊に悩まされたという「太平記」巻二十三の故事に基づいて描かれたものである。

 その他に、貞享三年(1686年)に松平勘右衛門が奉納した、木曽義仲の妻・巴御前の絵馬も名品であった。

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巴御前絵馬

 境内には、能楽愛好者だった第十三代篠山藩主青山忠良が、文久元年(1861年)に春日神社に奉納した春日神能舞台がある。

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春日神能舞台

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 私が訪れた時は、能舞台は板で囲われていて、内部を窺うことが出来なかった。

 この能舞台は、藩主の意向で至れり尽くせりの設備が整えられた。特に床板を踏む音を反響させるため、床下に7個の丹波焼の大甕を伏せているが、その伏せ方の完全さは全国屈指のものであるらしい。

 完成時には、箱根以西でこれほど立派な能舞台はないと言われていた。

 春日神社の能舞台は、国指定重要文化財となっている。

 現在もこの舞台では、元旦の翁舞から始まり、春には篠山春日能・狂言が演じられる。

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境内の翁の像

 さて、ようやく社殿に向かう。

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拝殿

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 春日神社の御祭神は、春日大社と同じく、健甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、姫大神(ひめのおおかみ)の四柱の神様である。

 天児屋命は、藤原家(中臣家)の氏神である。

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本殿

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本殿の組物

 本殿は、春日神社でありながら、春日造ではない。

 皇室の藩屏たる藤原氏氏神の社だけあって、どことなく品があって凛としている。

 境内には岩山があり、頂まで階段が続いている。

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境内の岩山

 その階段脇には、牡鹿と牝鹿の銅像が建つ。

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牡鹿と牝鹿の像

 これを見て、一瞬だけ奈良公園に来た気分になった。

 さて岩山の上に何があるか気になったので登ってみると、小さなお社があった。

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愛宕

 小さなお社は愛宕社であった。この愛宕社は、京都愛宕山の山頂に祀られる愛宕神社から祭神を勧請したものだろう。

 愛宕山は古くから信仰された山で、かつては修験道の修行の山であった。

 愛宕山には、明治まで本地仏の勝軍地蔵が祀られ、その仮の姿とされる愛宕権現伊弉冉尊)も祀られていた。

 この岩山も、篠山の小さな愛宕山として信仰されていたのだろう。山頂に立派な岩のある日本の山は、大抵はかつて修験道の聖地だったところである。

 春日明神や愛宕権現だけでなく、日本の仏や神々は、日本のあちこちに現れ、祀られている。その多くは、山頂や山の麓に祀られている。

 日本の山は、神仏が宿る依代なのだろう。

大正ロマン館 丹波篠山市立歴史美術館

 青山歴史村から東に歩き、丹波篠山市北新町にある大正ロマン館に行った。

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大正ロマン

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 大正ロマン館は、大正12年(1923年)に篠山町役場として建てられ、平成4年まで現役の役場の建物として使用された。

 翌平成5年には改装され、観光案内所、土産物売り場、レストランとして利用されることとなった。

 建物の中央屋根に物見櫓が設置されていて、アクセントになっている。

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レストランの入口

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大正ロマン館の窓

 この建物は、篠山城跡と並んで、篠山城下の象徴となっている建物である。

 私が訪れたのは、10月2日で、新型コロナウイルス感染拡大防止に伴う緊急事態宣言が明けて初めての週末であった。

 篠山城下は観光客で賑わっていた。大正ロマン館の中も、丁度お昼時だったためか、多くの人で賑わっていた。

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大正ロマン館内の土産物売り場

 天井の斜めになった格子が面白い。役場の建物としては、非常にモダンでお洒落である。

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物見櫓下のステンドグラス

 建物中央の天井を見ると、丁度物見櫓の下はステンドグラスになっていた。

 建設当時は物見櫓には実際に登れたろうから、このステンドグラスは平成の改修時に備え付けられたものだろう。

 建物が生まれ変わって建設当初と異なる目的に使われ、長く残ることはいいことだ。

 大正ロマン館から北東に歩いた丹波篠山市呉服町に、丹波篠山市立歴史美術館がある。

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丹波篠山市立歴史美術館

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 この建物は、明治24年(1891年)に篠山地方裁判所として建てられ、昭和56年6月まで実際に使用されていた。

 現存する木造の裁判所建物としては、日本最古のものであるらしい。

 裁判所としての役割を終えた後、建物の外観と法廷は旧のままで、内部を改装して昭和57年4月に歴史美術館として開館した。

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旧第三調停室のあたり

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玄関付近

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玄関ポーチ

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玄関天井

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廊下

 この歴史美術館には、丹波篠山市の古墳や遺跡から発掘された漢鏡などの埋蔵文化財、古丹波や藩窯王子山焼などの陶器、篠山藩に伝わった絵画や武具類などが展示されている。

 いずれも名品揃いであったが、展示品はいずれも写真撮影不可であったため、写真では紹介できないのが残念だ。

 特に青山家初代藩主の黒紅糸威大袖具足は、精巧に作られた美術工芸品のような鎧だった。

 館内で写真撮影が自由なのは、旧法廷である。

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旧法廷(傍聴席側)

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旧法廷(裁判官席側)

 上座に裁判官席、その前に書記官席、中央に証言台、証言台の右側に弁護人席、左側に検察官席がある。

 かつてここで実際に公判廷が開かれていたわけだ。

 事件には、凶悪な事件もあれば、軽微な事件もあるが、人が起こした「出来事」であることに変わりはない。

 そんな人間が起こした「出来事」が、捜査機関が集めた様々な証拠資料で再構成され、法廷で俎上に上がる。

 公判廷に上がった事件は、証拠により再構成された疑似現実だから、公判廷の被告人の供述や証人の証言によって、印象が変容することもある。証拠が収集された経緯も問題になったりする。

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裁判長席から見下ろす法廷

 裁判官は、証拠資料と各証言を勘案して、疑似現実がどれだけ実際に起こった出来事に近接しているか判断し、判決を下す。

 その責任は極めて重い。日本国内で、証拠で再構成された疑似現実が真実であったか法律上決定できる権限を持っているのは裁判官だけだ。

 さて、この法廷では、裁判長の席にも座ることが出来るし、被告人が立つ証言台にも立つことが出来る。

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証言台

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証言台

 裁判長席に座って法廷を見下ろした後、証言台に立って裁判官席を見上げてみた。

 被告の気分になってみたが、実はこの法廷の中で、実際に起こった出来事を最もよく知っているのは、この被告である。

 裁判官や検察官や弁護人や被告人は、立場が違えど皆人間である。そして他人同士である。

 そんな他人同士が、被告人が起こした出来事によって結びつけられ、法廷に集まって出来事と被告人の人生について真剣に討議し、被告人の処分を決める。

 人が人の起こした出来事を評価し、処断する。歴史学もこれと同じである。

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明治時代の法服

 裁判官の法服は黒いが、何色にも染まらない公正な立場を現わしているから黒いのだそうだ。

 どんな場合であれ、人間と、人が起こした出来事を評価する時は、公正な目で見たいものだ。

青山歴史村

 御徒士武家屋敷群の見学を終えた後、篠山城跡の北側に広がる丹波篠山市北新町にある青山歴史村を訪ねた。

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青山歴史村

 青山歴史村には、篠山藩主青山家が明治時代に別邸として使用した桂園舎を中心に、青山家に伝わる古文書を収蔵した土蔵や、篠山藩士の教育で使用された漢籍の版木を収蔵した版木館、丹波篠山デカンショ館、篠山藩士澤井家が寄贈した長屋門で成り立っている。

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長屋門

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長屋門の屋根裏

 青山歴史村は、昭和62年に青山家の財産を管理する財団法人青山会が、青山家ゆかりの文化財を展示保管するために開館したが、平成10年に青山会が全財産を篠山市に寄付し、今は丹波篠山市が管理運営している。

 長屋門は、篠山藩士澤井家の屋敷にあったもので、文化年間(1804~1818年)に建設されたものと言われている。

 茅葺、入母屋造で、昭和32年にこの地に移築された。 

 この長屋門を潜って青山歴史村に入っていく。

 敷地に入ってまず目を惹くのは、篠山藩が使った石造の金櫃(金庫)である。

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金櫃

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 この金櫃は、藩内の金融取引が行われていた掛所の土蔵の床下に置かれていたものだという。

 金貨銀貨がこの櫃に入れられていたことだろう。金櫃は、花崗岩製で、蓋石は6枚並ぶようになっていた。丹波篠山市指定文化財である。

 その隣には、青山家の家紋である無紋銭が刻まれた鬼瓦が置かれている。

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無紋銭の鬼瓦

 この家紋の由来はこうである。

 ある時、青山家の庭に無紋銭を上に載せた筍が生えてきた。あまりに不思議であったため、この筍が生長した後に伐って馬印に使ったところ、出陣ごとに功績が上がったので、無紋銭を家紋にしたという。

 次に版木館を覗いてみる。

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版木館

 篠山藩青山家は、藩士の教育に力を入れ、藩校振徳堂で藩士漢籍国史を学ばせた。

 それらの書物の印刷に使うため、桜の木を素材とした版木が作られた。

 青山歴史村には、1200枚以上の版木が収蔵されており、一部がこの版木館で展示されている。

 版木館の内部は撮影禁止であったので、写真で紹介できないが、青山家が学問と文化に賭けた熱意を知ることができた。

 またここから北に車で10分ほどの距離にある兵庫県立篠山鳳鳴高等学校には、青山家から寄付された同家所蔵の漢籍、近世小説、歴史書等約1万冊を収蔵する青山文庫がある。

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兵庫県立篠山鳳鳴高等学校正門

 事前に申し込めば、文庫所蔵の書籍を閲覧できるようだが、私が訪れたのは土曜日であったため、見学はしなかった。

 青山歴史村の中心にある桂園舎は、黒田村にあった庄屋の家を、明治20年にこの地に移築したものである。

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桂園舎

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 江戸時代後期の歌人・香川景樹が興した和歌の一派が、桂園派と呼ばれている。桂園とは、香川景樹の号である。

 賀茂真淵が「万葉集」を重視したのに対し、香川景樹は「古今和歌集」を重視した。

 桂園派は、畿内を中心に流行し、「古今和歌集」のような平易で古風な和歌を作った。

 初代篠山町長の安藤直紀が桂園派の撰者となり、この建物を拠点に篠山の有識者が桂園派の和歌を学んでいたことから、桂園舎と呼ばれるようになったという。

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桂園舎の土間

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土間の上の梁と屋根

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玄関からの眺め

 桂園舎は、青山家の別邸として使用されていた。ということは、明治の青山家も桂園派に与していたのだろう。

 桂園派は、明治時代にも命脈を保っていたが、古風な和歌を嫌った正岡子規や、ロマン主義的な明星派に排撃され、明治後期には廃れてしまった。

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座敷

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 桂園舎は、元々庄屋の家だったが、藩主の別邸となり、和歌の催しが行われただけあって、どことなく閑雅な雰囲気を持っている。

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北側から見た桂園舎

 桂園舎の北側には、庭園があり、庭木に囲まれて土蔵が2つある。

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土蔵

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 土蔵には、青山家が受け継いできた古文書が大切に保管されている。

 青山家の私的な書籍は篠山鳳鳴高等学校の青山文庫に収められ、藩政に関する資料はここに収蔵されているようだ。

 藩主の財産を今は丹波篠山市が管理している。かつての藩主の財産が、今は市民のものになったわけだ。

 しかし、青山家の文化に対する志の高さには、後世の我々が学ぶべきところが多々あるように思える。

御徒士町武家屋敷群

 篠山城跡西側の外堀に面して建つのが小林家長屋門である。

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小林家長屋門

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 小林家は、第12代藩主青山忠裕に老女として仕えた小林千枝が住んだ家である。

 小林家長屋門は、忠裕が千枝の多年の労に報いるため、文化年間(1804~1818年)に修築したものとされている。

 この長屋門は、内部に上段の間や物見(見晴窓)のある、住居兼用の建物であるそうだ。

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 門に掲げられた表札を見ると、小林と書かれており、中からコトコトと音がする。

 未だに小林家の子孫が生活しているのだろう。

 茅葺、入母屋造で千木と鰹木のある屋根は、縄文時代弥生時代の竪穴住居から続く典型的な日本の民家の屋根の形式であり、植物と共に生活する我が国の伝統を感じさせる。

 この小林家長屋門は、兵庫県指定文化財である。

 小林家長屋門から一つ西の南北道は、御徒士町通りと呼ばれている。現代の地名では、丹波篠山市西新町となる。

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徒士町通り

 徒士(かち)とは、戦場で徒歩で戦った下級武士のことで、近代軍制の下士官に当るとされている。

 騎乗を許された上級武士よりは身分が下だが、足軽よりは上とされている。領地を持たず、藩から扶持米という給料を支給された。

 御徒士町通りには、この徒士たちの武家屋敷が今もずらりと並んでいる。

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武家屋敷の一つ

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 並んだ武家屋敷には表札が上がっている。今も徒士の子孫が住んでいるようだ。
 通りを歩いて意外に思ったのが、道が広いことである。

 御徒士町は、文政十三年(1830年)に大火で焼けてしまった。その後再建されたが、その際に防火のため屋敷を六尺後退させて火除地を作り、各屋敷に土塀を設け、土塀から二間下げて母屋が建てられた。

 御徒士武家屋敷群は、国選定重要伝統的建造物群保存地区となっている。

 それら武家屋敷の中で丹波篠山市が管理し、一般に公開しているのが、武家屋敷安間(あんま)家史料館である。

 安間家史料館は、大火の後の天保年間(1831~1845年)に再建された建物である。

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武家屋敷安間家史料館

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武家屋敷安間家史料館の茅葺屋根の門

 茅葺の門を潜ると正面にある母屋は、間口六間半(約13メートル)、奥行き七間半(約15メートル)の規模である。篠山藩の標準的な徒士住宅であるらしい。

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母屋入口

 東側の入口から入ると玄関があり土間がある。土間の天井は木と竹と萱で作られている。

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土間の天井

 土間には、竈や流しがある。

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流し

 土間と接続した台所という部屋には、棚があり、接客用の什器類や膳椀類が収納されている。

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台所

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什器、膳椀類

 こうした武士の家には、10客揃、20客揃で什器類が揃えられており、親しい知人・友人たちとの宴席で使用されたらしい。

 そんな宴席は、徒士にとって、下級武士社会の中での、ささやかな安らぎの時だったろう。

 また土塀と母屋の間には、ささやかな庭がある。

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 宴席を設け、庭の眺めを楽しむことが出来たのだから、徒士たちは、武士階級の中では下層でも、大半が農民だった当時の日本社会全体の中では、上流の暮らしをしていたであろう。

 庭に面した座敷には、当時の篠山藩士の具足が展示されている。

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座敷

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篠山藩士の具足

 この具足は、安間家のものではなく、篠山藩士だった中山家伝来のものであるらしい。

 このような具足は、先祖伝来の大事なものであっただろう。

 また、座敷の庭に面した障子の上の壁には、弓や槍が掛けられている。

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弓や槍

 武家は戦うことが本職の家である。徒士たちも、戦いの事を寸時も忘れないよう幼時から教育されたことだろう。

 座敷の奥には、仏間、居間、納戸が続く。

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座敷、仏間、居間、納戸

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仏間

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居間

 何の飾りもない、質朴な空間だ。好感が持てる。

 縁側からは涼しい風が建物に入って来る。

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縁側

 縁側の前には、水琴窟がある。水琴窟とは、地中に伏甕を埋めて空洞を作り、その上に滴った水が空洞に反響して澄んだ音色を聴かせる仕掛けである。江戸時代に考案された。

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丹波水琴窟

 この水琴窟は、地中に丹波焼の甕が埋められている。丹波水琴窟と呼ばれている。柄杓を用いて水を滴らせると、なるほど美しい音がした。

 また、写真撮影出来なかったが、安間家史料館内のショーケース内には、国史儒学の書物があり、当時の武家の教養が偲ばれた。

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安間家史料館の裏側

 私は、今まで史跡巡りを通じて、御殿建築や庄屋の家や農家、商家など、さまざまな建物を見てきたが、これぐらいの下級武士の家が、最も好みに合ってしっくりくる。

 武道と学問を両立させ、質朴な暮らしをした下級武士の生活は、理想的な生活なのかも知れない。