雪見御所旧跡

 祇園神社のすぐ西側には、神戸市兵庫区から北区に抜ける国道428号線が通っている。

 この国道、通称有馬街道と呼ばれている。

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有馬街道

 特に平野交差点から祇園神社の間の坂を祇園坂と呼ぶらしい。祇園神社の参拝を終えて、祇園坂をぶらぶらと下り始めた。

 祇園神社と平野交差点の丁度中間あたりの祇園坂の東側に、塞神(さえのかみ)の碑がある。

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塞神の碑と塞神の松

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塞神の碑

 塞神は、外部からやってくる悪しきものから集落を守る神様である。集落の出入口によく祀られた。道祖神とも呼ばれていた。

 今塞神の碑のある場所は、南北に通る有馬街道に面しているが、かつてはこの石碑の南側に古道街道という古くからの東西道があったらしい。

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旧奥平野村の図

 天保年間(1831~1845年)には、この古道街道を行く人の道中の安全を守るため、ここに塞神を祀る祠があったという。

 ある時祠の近くの榎が倒れたので掘り起こしてみると、大きな石が現れ、その下から甲冑、剣、馬具が出てきたらしい。

 当時の人達は、祟りがあっては大変と、山伏を呼んで祈祷させ、埋め戻したという。

 この辺りは、かつて平家一門の邸宅が多数並んでいた場所である。天保年間に掘り出された武具も、恐らく平家のものだろう。

 塞神の脇に松が生えているが、かつてこの辺には、大輪田泊の沖合の船が操舵の目印にした丈高い松があった。「塞神の松」「祇園の一本松」と呼ばれていた。

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現在の塞神の松

 塞神の松は、昭和初期に枯れてしまったが、昭和16年12月に地元の人が建てた塞神の松跡の石碑が残っている。今その側にある松は、まだ若い木なので、近年植えられたものだろう。

 平成6年に行われた国道428号線の拡幅工事に伴う発掘調査で、塞神の碑の西側から、石敷きの池のある邸宅の庭園跡が見つかった。

 これを祇園遺跡という。大量の宋からの輸入陶磁器や、土師器が見つかった。遺跡は平家の邸宅跡と見なされている。

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祇園遺跡

 平清盛や息子の宗盛の屋敷もこの辺りにあったと言われている。平家一門が、この地に寝殿造の邸宅を構えて栄華を誇っていたのが分る。

 塞神の碑から祇園坂を下り、平野交差点に至る。交差点一帯は、古くからの庶民的な商店が続いている。この辺りは神戸のディープスポットだ。

 私は昔古書店巡りをよくしたものだが、神戸を代表する古書店の山田書店とイマヨシ書店もここにある。

 その平野交差点に、平清盛の像が建っている。

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平清盛

 清盛は、日本の歴史の中では悪役として描かれることが多いが、貴族の時代を葬り、武士の時代を切り開いた有能な人物だったことは間違いない。

 地元でも清盛がここに都を置こうとしたことを誇りとしているのだろう。地元の有志が建てた東に向かって扇子を指す清盛像は勇ましい。

 平野交差点を西に歩くと、雪見御所旧跡の碑がある。

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雪見御所旧跡の碑

 雪見御所とは、清盛の邸宅の一つで、高倉上皇が滞在したところである。雪見御所の北側には、安徳天皇が半年間滞在した皇居平野殿があったとされている。

 この石碑は、旧神戸市立湊山小学校の北西側に建っている。湊山小学校は、最近廃校となり、現在は解体工事中であった。

 神戸市の中心に近いこの地でも、小学校が廃校になるのだ。これから史跡巡りを続ける内に、日本の少子高齢化の進行を目の当たりにすることが増えるだろう。

 この石碑に使われている石は、明治39年に湊山小学校の校庭から掘り出されたもので、かつて雪見御所の庭園で使われていたものとされている。明治41年に当時の校長が生田神社宮司田所千秋の揮毫を得て設置したものである。

 さて、旧湊山小学校の周辺は、旧字名を雪御所と言った。

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雪見御所旧跡の周辺図

 字雪御所の名は、ここに雪見御所があった名残だろう。

 昭和61年の湊山小学校校舎建設工事に先立って行われた発掘調査で、校庭の下から石垣が見つかった。

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発掘された石垣

 発掘された石垣は、雪見御所の南側の石垣とされている。かつての貴族の邸宅は、広大な敷地の北側に御殿を建て、その南側には池を含む庭園を築いた。

 御殿は、旧湊山小学校の北側にあったのだろう。

 それにしても、楠・荒田町遺跡にしろ、祇園遺跡にしろ、どちらも平家に関する遺跡である。遺跡と呼ぶにしては、新しいようで、ちょっと違和感がある。

 遺跡と言えば、旧石器時代や縄文、弥生、古墳時代などの古代のものを連想する。考えてみれば、新しいものでも人間が生きた痕跡が発掘されれば、それは遺跡なのである。

 我々が住んだり利用している建物の基礎や、生活雑貨が破壊されずに埋まれば、将来遺跡として発掘されることだろう。

 人間がどんなに進歩しても、肉体の痕跡にしろ生活の痕跡にしろ、最後は土に埋まるべき存在である。

神戸市兵庫区 祇園神社 

 神戸市兵庫区の平野交差点から北に約250メートルほど歩くと、山の中腹にある祇園神社が見えてくる。

 地名で言うと、神戸市兵庫区祇園町にある。

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祇園神

 鳥居を潜って急な石段を登った先に境内があるが、境内に並べられたのぼり旗を麓から眺めると、戦国時代の山城のようだ。

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鳥居

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石段

 祇園神社は、貞観十一年(869年)の創建である。

 姫路市にある廣峯神社は、素戔嗚尊と習合された祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていた神社である。

 貞観十一年、京都で悪疫が流行り、多くの人々が亡くなった。

 悪疫を鎮めるため、播磨国廣峯神社に祀られている牛頭天王の分霊を、京に移して祀ることになった。牛頭天王の分霊を乗せた神輿が、廣峯神社から京に向かう途中、この地で一泊した。

 それから、この地にも牛頭天王が祀られるようになった。牛頭天王が守護する釈迦の説法地・祇園精舎に因んで、祇園神社と呼ばれるようになった。

 神社の西にある天王谷や天王川という谷や川の名も、牛頭天王から来ている。

 祇園神社の現在の祭神は、素戔嗚尊とその妻・櫛稲田媛命である。

 京で牛頭天王の分霊が祀られたのが、今の八坂神社である。八坂神社も江戸時代までは祇園社と呼ばれていた。京の祇園の地名もそこから来ている。

 今となっては、播州廣峯神社よりも京都の八坂神社の方が全国的な知名度は圧倒的に上だが、廣峯神社が八坂神社の元宮だと知ると、播州人として誇らしい気分になる。

 拝殿は、四方に壁のない吹き抜けの造りとなっている。

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拝殿

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 本殿は、切妻造、妻入りの屋根に向拝が付いているので、春日造に似ているが、向拝が唐破風であるところは美作の中山造に似ている。

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中門

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本殿

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本殿彫刻

 小さな本殿だが、彫刻が微細に彫られており、なかなかの力作だ。

 本殿の脇には、「明治二十七、八年役従軍者記念碑」があった。

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明治二十七、八年役従軍者記念碑

 明治二十七、八年役とは、その年に戦われた日清戦争のことである。明治時代には、日清戦争という名称はまだなく、明治二十七、八年役と呼ばれていた。

 同じように日露戦争は、明治時代には明治三十七、八年役と呼ばれていた。

 日露戦争に関する記念碑は、各地の神社に残っているが、日清戦争を記念するものは初めて目にした。

 地元から出征した兵士の名が刻まれている。こういう石碑が神社に建てられているのを見ると、大日本帝国時代の日本にとって、神社が地元の精神的支柱として機能していたのが分る。

 境内の裏手には、素戔嗚尊の娘神である市杵嶋媛(いちきしまひめ)を祀る市杵嶋媛社がある。

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市杵嶋媛社

 市杵嶋媛社の裏に、祇園神社創建時からあるという霊石がある。石を撫でて祈れば、一つだけ願いを叶えるという一願石である。

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一願石

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 私もこの石を撫でて、史跡巡りの継続を願った。

 牛頭天王は、祇園精舎の守護神と言われているが、どうやら日本独自の神仏習合の神様であるようだ。

 その神像は、密教明王像のように憤怒の形相をしており、頭の上に牛の頭を載せている。

 明治の神仏分離令で、牛頭天王を祀る社は、素戔嗚尊を祭神にすることを強いられたが、現在も周辺の地名や神社の由来の中に牛頭天王の名が残っている。

 長い間信仰されてきた神様を追放するのは、なかなか難しいようだ。

 

荒田八幡神社 宝地院

 今年の1月11日以来、約半年ぶりに摂津の史跡巡りを行った。

 今回訪れたのは、神戸市兵庫区から神戸市北区山田町周辺の史跡である。

 まず紹介するのは、神戸市兵庫区荒田町3丁目にある平家ゆかりの荒田八幡神社と宝地院である。

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荒田八幡神社

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荒田八幡神社鳥居

 荒田八幡神社は、小高い丘の上にある小さな神社である。古くは高田神社と称して、熊野権現を祀っていた。

 高田神社の南西にある宝地院の境内にあった八幡社が、神仏混淆を避けるため、明治31年(1898年)に高田神社に合祀されることになり、以後荒田八幡神社と呼ばれるようになった。

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荒田八幡神社社殿

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狛犬

 今の神戸市兵庫区北側の地は、かつては福原と呼ばれ、兵庫津を日宋貿易の拠点とした平清盛が都を置こうとした場所である。

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福原京関連マップ

 一時は平家一門の邸宅が並び、その贅を尽くした造作の様子は、当時の紀行文「高倉院厳島御幸記」などに書かれているという。

 この荒田八幡神社の建つあたりは、清盛の異母弟平頼盛の邸宅があった場所とされている。

 治承四年(1180年)6月、清盛は福原への遷都を強行する。6月3日に安徳天皇平頼盛の邸宅に移し、内裏にした。

 しかし翌日6月4日には、ここより北の雪見御所にいた高倉上皇平頼盛邸に移り、安徳天皇と御所を交換することになる。

 言うなれば、荒田八幡神社は、一日だけ皇居だったわけだ。

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安徳天皇行在所址の石碑

 境内には、安徳天皇行在所址の石碑が建っている。

 この地に移った高倉上皇は、治承四年10月まで過ごした。

 清盛の福原遷都の構想は、高倉上皇が京から都を遷すことに乗り気でなかったことと、源氏の挙兵に対抗するため平家一門が福原から京に戻ったことから立ち消えになった。

 荒田八幡神社の南西には、弘安二年(1279年)に安徳天皇の菩提を弔うために建てられた浄土宗の寺院、宝地院がある。

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宝地院

 宝地院の敷地内には保育所があり、防犯のためか敷地内に入ることが出来なくなっていた。

 敷地外から本堂の写真を撮ることしか出来なかったが、本堂よりもその背後にある奇妙な角のようなものの付いた建物の方が気になった。

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宝地院本堂

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 この奇妙な建物、最上階に展望室のようなものがある。一体何なのだろう。

 さて、神戸大学医学部附属病院のある神戸市中央区楠町から神戸市兵庫区荒田町にかけて広がるのが、平家の邸宅群の遺跡とされる楠・荒田町遺跡である。

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神戸大学医学部附属病院

 昭和56~57年に行われた発掘調査で、附属病院の敷地から二本並行する壕の跡と大型の建物跡が見つかった。

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並行する二条の壕の跡

 壕の中からは、12世紀後半の京都系の土師器皿や、中国から輸入したと見られる青磁白磁などが見つかった。

 発掘された遺物から、発掘されたのは平家の邸宅と、それを囲んだ壕の跡と推察される。

 発掘された壕の上には、現在は神戸大学医学部附属病院の立体駐車場が建っている。

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立体駐車場

 立体駐車場の入口脇に、楠・荒田町遺跡の説明板が掲示されている。壕の遺跡は、傷つけないように砂で埋め戻し、立体駐車場の地下に保存されることになった。

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二条の壕の見取図

 清盛の福原遷都構想は頓挫した。神戸の地は良港に恵まれているが、六甲山と海に挟まれ、条坊制の都を置くには狭い。しかし、貿易港のすぐ傍に都を置くという清盛の発想は、なかなか雄渾である。

 もし実現していたら、当時世界最高の文化水準を達成していた北宋の影響を多分に受けた文化が日本に誕生していたかも知れない。

 

養父市大屋町蔵垣・大杉地区

 城の山古墳と池田古墳の見学を終え、一路兵庫県養父市大屋町を目指す。

 大屋町は、山に囲まれた谷間に集落が点在する農村地帯である。

 この大屋町の蔵垣、大杉地区は、江戸時代から養蚕業が盛んである。

 宝暦三年(1753年)、蔵垣に生まれた上垣守国は、明和七年(1770年)に養蚕研究のため、上州、奥州を旅し、安永元年(1772年)に蚕種を但馬に持ち帰った。

 上垣は、但馬、丹波、丹後地方に養蚕を広め、享和二年(1802年)に、養蚕の技術についての著述「養蚕秘録」を執筆し、翌年出版した。

 この「養蚕秘録」は、その後来日したシーボルトがヨーロッパに持ち帰り、仏語訳して出版した。「養蚕秘録」は、ヨーロッパの養蚕技術の改良に貢献したとされ、日本の文化輸出第一号と言われている。

 蔵垣には、但馬周辺に養蚕業を普及させた上垣守国の業績を記念する上垣守国養蚕記念館がある。

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上垣守国養蚕記念館の案内標識

 県道沿いに上垣守国養蚕記念館の案内標識が出ているが、標識上の蚕の模型が、私にはどう見てもモスラの幼虫に見える。

 昭和ゴジラ世代なら分かってくれるだろう。

 養蚕業は、蚕という家畜化された昆虫(蛾の一種)を使って絹糸を生産する産業である。

 発祥は中国大陸で、古代に日本に伝わった。蚕の幼虫に桑の葉を食べさせて育て、蚕が蛹になる時に作る繭を湯でほぐし、繭の糸を練り合わせて絹糸を作る。

 蚕は、人間が絹糸の生産のために品種改良を重ねて作り上げた、完全に家畜化された昆虫である。自然界では生きていくことが出来ない虫だ。蚕の幼虫を天然の桑の葉の上に載せても、足の吸着力が弱くぼとりと落ちてしまうらしい。

 成虫には羽があるが、飛ぶことは出来ない。成虫は餌を食べずに交尾だけをして、産卵後には死んでしまう。成虫が生きている期間は10日ほどである。

 まさに、絹糸を生産するための一生である。

 上垣守国記念館を訪れてみたが、残念ながら閉館していた。

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上垣守国養蚕記念館

 上垣守国養蚕記念館は、三階建ての特異な形状をした民家である。平成7年に、典型的な養蚕民家を復元したものとして建てられた。

 この地域の養蚕民家は、1階を生活スペースとして使い、2階、3階で養蚕をする。

 2,3階には掃き出し窓を設け、屋内に溜まったごみをすぐ屋外に掃き出して、室内の清潔を保てるようにしている。

 そして、屋根の上に抜気(ばっき)という、風通しを良くし、繭をゆでた時の蒸気を逃がす機構が付けられている。

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上垣守国養蚕記念館1階間取図

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上垣守国養蚕記念館2,3階間取図

 記念館の隣には、蔵垣かいこの里交流施設があるが、ここも閉館していた。

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蔵垣かいこの里交流施設

 閉館していたが、表側のショーウィンドウに、絹糸で作った製品や、絹糸生産用の道具などが展示されていた。

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絹糸の玉

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絹の打掛

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糸車

 それにしても、見た目がグロテスクな蚕から出来た絹糸から、こんな美しく滑らかな肌触りの製品が生み出されるのだから不思議なものだ。

 大屋川を挟んで蔵垣地区の北側にある大杉地区は、27棟の主屋の内、12棟が3階建ての養蚕民家で、国が選定する伝統的建造物群保存地区になっている。

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大杉地区の街並み

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 集落の氏神である二宮神社のある高台から見下ろすと、屋根の上に抜気がある三階建ての建物が数多く目に入る。

 集落内を散策すると、空き家になっているものや、旅館に改装されているものなど、様々な養蚕民家を目にすることが出来る。

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空き家の養蚕民家

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旅館に改装された養蚕民家

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 また、シルク製の服や、バッグなどの小物を展示販売するギャラリーもあった。

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ギャラリー養蚕農家

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 明治時代になって、絹糸は日本の主力輸出品となった。養蚕業と製糸業が盛んに行われるようになった。

 大屋町においても、明治から昭和中期にかけて養蚕業が主力産業となり、建てられた養蚕民家の数は日本一となった。

 その後は安価な化学繊維に押されて、養蚕業も製糸業も廃れてしまった。

 日本における養蚕は、弥生時代から行われていたとされ、「古事記」「日本書紀」にも養蚕に関する記述がある。

 第21代雄略天皇は、皇后に養蚕を勧めたとされているが、近代皇室においても、明治時代の昭憲皇后から現代の雅子皇后まで、養蚕を公務として行うことが受け継がれている。

 日本の文化の一つとなった養蚕は、これからも絶えずに続いてもらいたいものだ。

 さて、大杉地区の氏神である二宮神社には、「大杉ざんざこ踊り」という踊りが伝わっている。

 二宮神社の石段を登ると、静かな境内が広がっていた。

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二宮神社参道

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二宮神社社殿

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拝殿の龍の彫刻

 二宮神社拝殿の彫刻は、中井権次一統の作品である。

 二宮神社社殿の裏手には、大福寺という寺のお堂がある。ここにも神仏分離が徹底されなかった名残がある。

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大福寺

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大福寺本堂内陣

 大福寺本堂内を覗くと、内陣の欄間の龍の彫刻が爛爛と目を光らせていた。これも中井権次一統作の彫刻である。

 慶安二年(1649年)に、時の庄屋が村の疲弊を憂えて伊勢に参宮し、帰路に寄った奈良の春日大社で踊りを習った。

 郷に帰り、氏子繁栄のためにその踊りを始めたのが、今に伝わる大杉ざんざこ踊りであるそうだ。

 踊りの歌詞には、室町風の門賞め(かどぼめ)や、因幡うた、京うた、「梁塵秘抄」の中の歌などがあり、踊りぶりにも風流の形が見られるという。

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大杉ざんざこ踊り

 踊りは、陣笠を被り麻裃を着た1人の新発地(しんぼち)が指揮し、4人の中踊りが唐うちわを背負い、その周りを数十人の側踊りが輪舞する。

 大杉ざんざこ踊りは、毎年8月16日に行われる。丁度盆踊りの時期だ。

 今回紹介した、大屋町の蔵垣・大杉地区は、不思議と心惹かれる地域だった。

 昔養蚕業を生業としていた人たちは、自分たちの人生の浮沈も蚕しだいなので、蚕を「おかいこ様」と呼んで敬ったそうだ。

 蚕という人間が家畜化した虚弱な昆虫から生み出される絹糸に、村人の生活がかかっていたことが、今に残る集落の建物からも窺われる。

 ここを訪ねて、人々が生業に生きることの尊さを感じた。

城の山古墳 池田古墳

 和田山町から養父市街に向けて国道9号線を走ると、国道沿いに2つの古墳がある。   

 城の山(じょうのやま)古墳と池田古墳である。とは言え、2つの古墳とも今は原型を留めていない。城の山古墳の下にはトンネルが掘られ、池田古墳は墳丘上に国道の高架橋が横断している。

 古墳のある場所は、地名で言うと、兵庫県朝来市和田山町平野になる。

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国道工事中の城の山古墳と池田古墳

 昭和46年に行われた国道9号線の工事の際に撮られた空撮写真を見ると、円墳である城の山古墳と、うっすら前方後円墳の形を残した池田古墳が見える。そして丁度この2つの古墳を跨ぐかのように道路の工事が進んでいるのが分る。

 この写真を見て思うのは、なぜ敢えて2つの古墳を破壊しなければならない場所に道路を通したのかということである。

 城の山古墳は、高さ約5メートル、直径約35メートルの円墳である。

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城の山古墳の空撮写真(昭和46年)

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現代の城の山古墳

 現代の城の山古墳の下にはトンネルが通っているが、埋葬施設はトンネルの上の墳丘上にある。墳丘とは言え、自然の山を利用した円墳だ。

 トンネルの東側には、フェンスがあるが、フェンスに設置された扉を開けて入ると、墳丘に登る道に行くことが出来る。

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墳丘への出入口

 しばらく登ると、城の山古墳の説明板があり、目の前に墳丘が見える。墳丘と言っても山と一体化しているので、ここが古墳だと知らなければ墳丘とは分らないだろう。

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城の山古墳の墳丘

 登り口を探すと、墳丘の向かって左に道があった。

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墳丘の登り路

 ここを登っていくと、フェンスに囲まれた墳頂に至った。墳頂の真ん中辺りが凹んでいるので、恐らくここに発掘された埋葬施設があったのだろう。

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城の山古墳墳頂

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城の山古墳の見取図

 城の山古墳は、4世紀後半の古墳とされている。埋葬施設からは、三角縁神獣鏡、石製合子、石釧、鉄刀、勾玉などが出土した。出土した遺物は全て国指定重要文化財になった。

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城の山古墳の出土品

 石製合子は、畿内の古墳以外の出土例が珍しいので、ここには大和王権と緊密な関係を有する者が埋葬されていたとされている。

 4世紀後半は、成務天皇仲哀天皇神功皇后応神天皇の時代だろう。日本が朝鮮半島に進出する国力を既に有していた時代だが、城の山古墳の被葬者は、そんな時代に政権から但馬を任されていた人物だろう。

 さて、城の山古墳からすぐ東に高架橋があるが、これが池田古墳を真っ二つに割いている高架橋である。

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池田古墳の空撮写真

 池田古墳は、全長約141メートルで、但馬地方最大の前方後円墳である。しかしそんな大古墳も、今や写真の通り無残にも道路により前方部と後円部が寸断されている。後円部の真ん中には畑があり、その先に民家が建っている。

 高架橋の南側に池田古墳と城の山古墳の説明板が立っている。

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高架橋と説明板

 高架橋から見下ろすと、ぼんやりと古墳の形を認識できる。

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後円部

 手前の建設会社の小屋の向こうが後円部である。奥の民家が、空撮写真に写っていた墳丘上の民家である。

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後円部の上

 通常の前方後円墳は、墳丘がもっと高い筈である。池田古墳は、長い時の中で、墳丘が削られていったのだろう。

 高架橋の北側にある前方部などは、ここに古墳があると教えてもらわなければ何か分らない。一見するとただの藪である。

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前方部

 池田古墳は、5世紀前半の築造とされている。仁徳天皇の時代だろう。

 池田古墳の北西4キロメートルの和田山町高田に長持型石棺の蓋石があるが、これが池田古墳に埋葬されていたものではないかと言われている。

 先ほども書いたように、池田古墳は元の墳丘がかなり削られているので、はるか昔に石棺が掘り出されたのではないか。

 先日紹介した古代あさご館に、播州高砂の竜山石製の長持型石棺の復元模型が展示してあった。

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長持型石棺の復元

 こんな石棺が、池田古墳に埋葬されていたのだろう。

 また、朝来市兵庫県立考古博物館の発掘調査により、池田古墳には、祭儀を行うための造出しが備え付けられていたことが分かった。

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池田古墳の造出し

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造出しのジオラマ

 古代あさご館には、池田古墳の造出しのジオラマが展示してあった。ジオラマには埴輪が多く並べられているが、池田古墳からは埴輪も多く出土している。中でも水鳥形埴輪は23体出土し、全国最多である。

 ところで5世紀前半の日本には、仏教は伝来しておらず、儒教も恐らくは普及していなかったことだろう。

 当時の日本の宗教は、現在神道と呼んでいる自然崇拝しかなかったと思われる。

 そんな時代に、古墳の周囲で行われた宗教祭儀は、どんなものだったのだろう。

 家形埴輪や水鳥形埴輪などが、どんな意味で飾られていたのだろう。家の埴輪があることを思うと、死者の魂を呼び出すような儀式を行っていたのではないか。

 これは想像だが、昔の暮らしを想像するのは楽しいものだ。

赤淵神社

 大同寺の参拝を終え、次なる目的地に向かう。

 兵庫県朝来市和田山町枚田(ひらた)にある赤淵神社を訪れた。

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赤淵神社の鳥居

 赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神(あかぶちそこひのかみ)、表米宿祢神(ひょうまいすくねのかみ)の三神である。

 赤渕足尼神は、表米宿祢神の祖神であるらしい。表米宿祢神は、但馬の豪族日下部氏の祭神とされている。越前の戦国大名朝倉氏は日下部氏の支族であるそうだ。

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楼門

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 大化元年(645年)、表米宿祢は、丹後国白糸の浜に襲来した新羅の賊と戦った。その時、表米宿祢の乗った船が沈みそうになった。すると、海底から鮑が沢山現れて、宿祢の船を沈まないように支えた。

 表米宿祢は、鮑を持ち帰って赤淵神社に祀ったとされている。大海龍王神は、鮑を使う海神とされている。

 今でも赤淵神社の祭礼では鮑の神事が行われ、近隣では鮑を食べない風習があるという。

 赤淵神社の楼門は、文政十三年(1830年)に建てられた。元々は、赤淵神社の神宮寺であった神渕寺の楼門であったらしい。

 門は丹波柏原の彫物師・六代目中井権次橘正貞が彫った彫刻で飾られている。

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木鼻の霊獣

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虎と竹の彫刻

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龍の彫刻

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龍の尾の彫刻

 楼門の二階には高欄を巡らしており、神渕寺の楼門だったころには、内部に「大般若経」が納められていたという。

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楼門の二階

 楼門の龍の彫刻の背後を見ると、片隅に「彫物師丹波柏原町住人中井権次橘正貞」と彫られている。

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龍の彫刻の背後

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「彫物師丹波柏原町住人中井権次橘正貞」の銘

 今まで中井権次一統の作品を数々観てきたが、作者の銘を彫っているのは初めて見た。

 「彫物師」という職に多大な誇りを持っていたのが伝わってくる気がする。

 赤淵神社楼門は、朝来市指定文化財となっている。

 随身門を通り過ぎると、次に見えてくるのは勅使門である。

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随身

 勅使門は、天皇の使いである勅使が潜る門で、この門がある寺社は格式が高い。

 勅使門は、寛政十一年(1799年)に建てられた。円形の丸柱の前後に4本の控え柱を備えた四脚門である。

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勅使門

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棟瓦の菊と桐の紋章

 鬼瓦と棟瓦には、皇室の紋章である十六菊花弁と五七の桐の紋がある。

 勅使門には、扉に鳳凰の透かし彫りが施されている。蟇股の彫刻も見事だ。勅使門の彫刻は、中井権次一統五代目の中井丈五郎橘正忠と久須善兵衛の作品だとされている。

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扁額の背後の彫刻

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扉の鳳凰の透かし彫り

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 赤淵神社勅使門は、但馬地方には珍しい江戸時代中期の建物である。朝来市指定文化財となっている。

 勅使門を過ぎると、拝殿が見えてくる。

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拝殿

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 拝殿の背後にある本殿は、室町時代初期に建てられた三間社流造、杮葺きの建物である。

 神社建築としては、県内最古級の建物で、国指定重要文化財となっている。

 しかし、本殿は建物保護のための覆屋に覆われていて、全貌を窺うことが出来ない。

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本殿の覆屋

 仕方が無いので、覆屋の隙間から本殿を覗き見た。

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本殿右側面

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本殿左側面

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本殿正面

 室町時代初期の建物とすると、700年近く昔の建物である。覆屋のおかげか、木材も瑞々しく残っている。

 懸魚や蟇股の様式に、当時の特徴があるらしいが、観ることは出来なかった。

 参拝を終えて、参道を帰ると、随身門の近くに寺院のお堂のような建物があるのが目についた。

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神渕寺のお堂

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神渕寺の説明板

 近寄って説明板を見ると、これが元神渕寺のお堂であると分かった。

 神仏習合の時代には、神社の近くに神宮寺という寺院が建てられ、神社と寺院は同体のものとして崇拝されていた。

 明治の神仏分離令により、日本中の神宮寺は破壊され、仏像の多くも破壊されるか所在知れずとなった。

 赤淵神社の神宮寺であった神渕寺は、お堂が現存し、説明板を見ると、伝恵心僧都作の阿弥陀如来像も残っているようだ。

 日本中が寺院排斥に狂奔していたころ、赤淵神社は神渕寺を保護した。神仏分離令が赤淵神社で徹底されなかった理由は分らぬが、赤淵神社と神渕寺の間には、強い絆があったのだろう。

医王山大同寺

 當勝神社の参拝を終え、北上する。兵庫県朝来市山東町早田にある臨済宗の寺院、医王山大同寺を訪れた。

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大同寺

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大同寺山門

 大同寺は、大同二年(807年)に薬師如来霊場として創建された。当初は天台宗の寺院であった。

 一時は寺勢盛大であったが、時と共に衰微した。

 応安五年(1372年)、臨済宗の高僧、月庵宗光禅師が大同寺を再興した。月庵禅師は、令和2年11月4日の当ブログ記事「雲頂山大明寺」で紹介した、大明寺を建てた禅僧である。

 月庵禅師の下、大同寺は禅寺として復活した。

 大同寺の本尊は聖観世音菩薩で、その他に薬師如来像、釈迦三尊像、月庵禅師坐像等を有する。

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大同寺境内

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大同寺方丈

 大同寺は、月庵禅師の再興時に、但馬国守護山名時義が田園山林を寄付し、以後山名家の菩提寺となった。

 応仁二年(1468年)、応仁の乱に際して、細川方(東軍)の武将疋田長九郎と内藤孫四郎が大同寺に陣取ったが、山名氏(西軍)の家臣で竹田城主の太田垣氏に打ち破られた。疋田はその際大同寺に火を放った。

 天正五年(1577年)、羽柴秀吉が大同寺に陣取り、竹田城を攻略した。その時に寺領は悉く没収され、堂宇や古文書も失われた。

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大同寺開山堂

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 大同寺は、徳川時代に入り、家光の代の慶安四年(1648年)から再建が始まり、家綱の代の承応三年(1654年)に堂塔が整備された。

 綱吉の代の天和三年(1682年)に、中巌禅師が仏殿(開山堂)を現在地に移築(新築説もある)した。

 大同寺開山堂は、入母屋造、桟瓦葺き、裳階付の禅宗仏殿様式の建物で、兵庫県指定重要有形文化財となっている。

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華頭窓

 華頭窓から内部を覗いてみる。 

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開山堂内部

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開山堂天井部分

 中央に仏壇があり、その周囲を柱が囲み、各柱の間を虹梁がつないでいる。

 屋根の重量を木材でどう支えていくか、合理的な計算の下に建てられた木造建築は、数学的な美しさに満ちている。

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開山堂

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 開山堂の瓦を見ると、山名氏の家紋である二つ引き両が印されている。この寺が、山名氏とゆかりの深いことを示している。

 裳階の上を見ると、三手先まで組まれた斗栱が見事だ。

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開山堂の組み物

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 大明寺の記事で紹介したが、月庵禅師は、村人を恐れさせたオオカミを手懐けた高僧である。

 大同寺の説明板に、月庵禅師の著した「禅師仮名法語」の中の説法が書いてあった。

我が心本来清浄なること、青天白日の一点の曇りなきがごとし。森羅万象一切の有情無情は、皆これ此のひかりの転変なり。すべて実体あることなし。是を悟るを仏という。 

  禅の教えの本質を要約して伝えている。

 素粒子物理学では、物質を分解していくと、最後は素粒子という極微の粒になる。この素粒子の運動により、世界は編み出されている。この宇宙を構成する物質は、どんな複雑な物質も、十数種類の素粒子に還元される。人間の心なるものも、脳内の現象に過ぎないとしたら、素粒子に還元される。

 森羅万象一切を「ひかりの転変」と喝破した室町時代の高僧の悟りの内容は、案外宇宙の本質を突いているのかも知れない。