祇園神社のすぐ西側には、神戸市兵庫区から北区に抜ける国道428号線が通っている。
この国道、通称有馬街道と呼ばれている。
特に平野交差点から祇園神社の間の坂を祇園坂と呼ぶらしい。祇園神社の参拝を終えて、祇園坂をぶらぶらと下り始めた。
祇園神社と平野交差点の丁度中間あたりの祇園坂の東側に、塞神(さえのかみ)の碑がある。
塞神は、外部からやってくる悪しきものから集落を守る神様である。集落の出入口によく祀られた。道祖神とも呼ばれていた。
今塞神の碑のある場所は、南北に通る有馬街道に面しているが、かつてはこの石碑の南側に古道街道という古くからの東西道があったらしい。
天保年間(1831~1845年)には、この古道街道を行く人の道中の安全を守るため、ここに塞神を祀る祠があったという。
ある時祠の近くの榎が倒れたので掘り起こしてみると、大きな石が現れ、その下から甲冑、剣、馬具が出てきたらしい。
当時の人達は、祟りがあっては大変と、山伏を呼んで祈祷させ、埋め戻したという。
この辺りは、かつて平家一門の邸宅が多数並んでいた場所である。天保年間に掘り出された武具も、恐らく平家のものだろう。
塞神の脇に松が生えているが、かつてこの辺には、大輪田泊の沖合の船が操舵の目印にした丈高い松があった。「塞神の松」「祇園の一本松」と呼ばれていた。
塞神の松は、昭和初期に枯れてしまったが、昭和16年12月に地元の人が建てた塞神の松跡の石碑が残っている。今その側にある松は、まだ若い木なので、近年植えられたものだろう。
平成6年に行われた国道428号線の拡幅工事に伴う発掘調査で、塞神の碑の西側から、石敷きの池のある邸宅の庭園跡が見つかった。
これを祇園遺跡という。大量の宋からの輸入陶磁器や、土師器が見つかった。遺跡は平家の邸宅跡と見なされている。
平清盛や息子の宗盛の屋敷もこの辺りにあったと言われている。平家一門が、この地に寝殿造の邸宅を構えて栄華を誇っていたのが分る。
塞神の碑から祇園坂を下り、平野交差点に至る。交差点一帯は、古くからの庶民的な商店が続いている。この辺りは神戸のディープスポットだ。
私は昔古書店巡りをよくしたものだが、神戸を代表する古書店の山田書店とイマヨシ書店もここにある。
その平野交差点に、平清盛の像が建っている。
清盛は、日本の歴史の中では悪役として描かれることが多いが、貴族の時代を葬り、武士の時代を切り開いた有能な人物だったことは間違いない。
地元でも清盛がここに都を置こうとしたことを誇りとしているのだろう。地元の有志が建てた東に向かって扇子を指す清盛像は勇ましい。
平野交差点を西に歩くと、雪見御所旧跡の碑がある。
雪見御所とは、清盛の邸宅の一つで、高倉上皇が滞在したところである。雪見御所の北側には、安徳天皇が半年間滞在した皇居平野殿があったとされている。
この石碑は、旧神戸市立湊山小学校の北西側に建っている。湊山小学校は、最近廃校となり、現在は解体工事中であった。
神戸市の中心に近いこの地でも、小学校が廃校になるのだ。これから史跡巡りを続ける内に、日本の少子高齢化の進行を目の当たりにすることが増えるだろう。
この石碑に使われている石は、明治39年に湊山小学校の校庭から掘り出されたもので、かつて雪見御所の庭園で使われていたものとされている。明治41年に当時の校長が生田神社宮司田所千秋の揮毫を得て設置したものである。
さて、旧湊山小学校の周辺は、旧字名を雪御所と言った。
字雪御所の名は、ここに雪見御所があった名残だろう。
昭和61年の湊山小学校校舎建設工事に先立って行われた発掘調査で、校庭の下から石垣が見つかった。
発掘された石垣は、雪見御所の南側の石垣とされている。かつての貴族の邸宅は、広大な敷地の北側に御殿を建て、その南側には池を含む庭園を築いた。
御殿は、旧湊山小学校の北側にあったのだろう。
それにしても、楠・荒田町遺跡にしろ、祇園遺跡にしろ、どちらも平家に関する遺跡である。遺跡と呼ぶにしては、新しいようで、ちょっと違和感がある。
遺跡と言えば、旧石器時代や縄文、弥生、古墳時代などの古代のものを連想する。考えてみれば、新しいものでも人間が生きた痕跡が発掘されれば、それは遺跡なのである。
我々が住んだり利用している建物の基礎や、生活雑貨が破壊されずに埋まれば、将来遺跡として発掘されることだろう。
人間がどんなに進歩しても、肉体の痕跡にしろ生活の痕跡にしろ、最後は土に埋まるべき存在である。