兵庫城跡 大輪田泊の岩椋

 神戸市兵庫区大輪田橋の西詰から北に向かって、新川運河のプロムナードが続いている。

 新川運河は明治時代に掘削された運河である。

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新川運河

 かつて運河の東側の中之島には、中央市場があったが、今はイオンモール神戸南店が建っている。

 プロムナードは、散歩客やジョギング客などが歩いたり走ったりしている。

 散策していると、塀の上に並んだユリカモメたちの姿が目に留まった。近寄っても逃げ出す気配がない。

 望遠機能の貧弱なRX100でも、近寄って写真に収めることが出来た。

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プロムナードで出会ったユリカモメたち

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 それにしても、ユリカモメたちは、なぜこんなに密集しているのだろう。

 新川運河の水面には、様々な水鳥が浮かんでいる。山中の野鳥を見ようと思っても、警戒されてすぐ逃げられてしまうが、水鳥は、人間が近づいても、悠然と泳いでいることが多い。水鳥を観察するのは、なかなか飽きが来ないものだ。

 さて、この新川運河は、先ほども書いたように明治時代になって開削されたものである。

 奈良時代行基菩薩が開いた大輪田泊のころから、この地は湊として栄えた。

 平清盛大輪田泊を修築し、経ヶ島を築いて日宋貿易の拠点とした。鎌倉時代以降は、大輪田泊は兵庫津と呼ばれ、江戸時代には北前船の寄港地になった。

 しかし、昔から、西から兵庫津に入港する船は、波風の強い和田岬沖を通過しなければならず、多くの船が難破した。

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兵庫港の運河開削計画

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安政六年(1859年)の兵庫津(左側が南)

 明治時代になって、東尻池村(今の神戸市長田区東尻池)のあたりから兵庫港につながる運河を開削する計画が持ち上がった。

 先ず明治9年(1876年)に兵庫港内に新川運河が出来たが、資金難からそれ以上の運河開削は出来なかった。

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明治14年1881年)の兵庫港(左側が南)

 明治32年(1899年)になって、ようやく東尻池から新川運河につながる兵庫運河が完成した。兵庫運河を開削したときに出た土砂を使って、人口の島である苅藻島が造られた。

 兵庫運河が完成したことにより、西からきた船は、和田岬を迂回せずとも、運河を通って兵庫港に入れるようになった。

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現在の地図と元禄絵図の合成図

 ところで、今は新川運河が通っている場所に、かつて兵庫城が存在していた。上の写真は、兵庫港の現在の地図と元禄絵図を合成した図だが、オレンジ色に塗られた場所が兵庫城があった場所だ。

 新川運河の西側の、旧兵庫城の跡地に、兵庫城跡の石碑が建っている。地名で言えば神戸市兵庫区切戸町になる。

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兵庫城跡の石碑

 天正八年(1580年)、信長の家臣の池田恒興、輝政父子は、信長に反旗を翻した荒木村重の支城だった花隈城を攻略した。

 信長から兵庫の地を与えられた池田恒興は、花隈城を廃城として兵庫城を築く。

 元和三年(1617年)には、兵庫津は尼崎藩領となり、兵庫城跡に藩の陣屋が置かれた。

 明和六年(1769年)には、幕府の直轄領となり、兵庫城跡は大坂町奉行所の勤番所となり、与力・同心が詰めた。

 慶応四年(1868年)1月、新政府はここに兵庫鎮台を置いたが、同年2月には兵庫裁判所となり、更に同年5月には兵庫県が設置され、この地に最初の兵庫県庁が置かれた。そして初代兵庫県令(知事)伊藤博文が着任した。

 ちなみに兵庫県庁は、同年9月に今の神戸地方裁判所のある場所に移転し、明治6年になって現在地に移転した。

 私の住む兵庫県が誕生して今年で153年になるわけだ。しかし現代人に馴染みの深い都道府県も、所詮人間が作ったものである。兵庫県もいつまでもあるわけではあるまい。

 兵庫城跡から北にしばらく歩くと、大輪田泊の岩椋(いわくら)を展示した場所がある。

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大輪田泊の岩椋

 大輪田泊は、奈良時代行基菩薩が築いた湊である。

 昭和27年に、新川運河の浚渫工事を行っていたところ、運河の底から一定間隔で打ち込まれた松杭と、巨石20数個が見つかった。

 平成15年の付近の発掘調査によって、ここから北西約250メートルの場所に港湾施設があったことが明らかになった。

 港湾施設との位置関係から、これらの巨石は、大輪田泊の防波堤か突堤の基礎を構成していた石椋と見られる。

 展示されている岩椋は、発見された巨石の一つである。重量は約4トンある。

 歴史の推移に伴って、地形や街道や町割りなどは大きく変化していくが、海岸沿いの変化はより甚だしい。

 兵庫港は、日本有数の歴史を持つ港である。海洋国家日本の原型を見る思いがする。

西月山真光寺

 薬仙寺から北に歩き、橋を渡るとすぐ西側に時宗の寺院、西月山真光寺がある。住所で言うと、神戸市兵庫区松原通1丁目である。

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真光寺

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 真光寺は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山清浄光寺の末寺に当るという。

 ここは、遊行僧一遍上人の示寂の地と言われ、一遍上人の供養塔が建っている。

 一遍上人は、延応元年(1239年)に伊予国の豪族河野通広の子として生まれた。宝治二年(1248年)に実母が亡くなり、世の無常を感じて出家した。

 浄土宗に入門した一遍は、修行と学問に明け暮れた。そして衆生と念仏を結び付けるため、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた念仏札を配り歩いた。

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本堂

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本尊阿弥陀如来立像を祀る厨子

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本堂の格天井絵

 一遍上人は、四天王寺を出発し、高野山を経て熊野に向かいながら念仏札を配った。

 一遍上人は、この熊野の地で一大転機を迎える。山道で一人の僧と出会った上人は、念仏札を渡そうとするが、僧から信心が起きないので受け取れないと拒まれた。

 一遍上人は、押し問答の末に、僧に無理矢理札を渡してしまった。この出来事で苦悩した一遍上人は、熊野権現にすがるため、熊野本宮の熊野証誠殿に参籠した。すると山伏姿の熊野権現が現われ、念仏勧進の真意を一遍に示したという。

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一遍上人木像

 このとき、熊野権現一遍上人に「融通念仏を勧めている聖である一遍よ、なぜ間違った念仏を勧めていると思うのか、あなたの勧めによりはじめて人びとが往生できるのではない。すべての人びとは、十劫というはるか昔に法蔵菩薩が覚りを得て阿弥陀仏に成ったときから、南無阿弥陀仏と称えることにより往生できるのである」と告げた。

 これを熊野権現神勅といい、時宗では、この時を立教開宗とする。

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一遍上人廟所

 同じ念仏を唱える浄土真宗は、阿弥陀如来の本願を信じることで人は救われると説くが、時宗では、遥か昔に阿弥陀仏が覚った時に、全ての人が南無阿弥陀仏と唱えることで往生できると決まったのだから、信仰心の有無は関係ないと説く。

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一遍上人廟所の阿弥陀如来坐像

 もはや、個々の人間の性質や信仰心は関係なく、南無阿弥陀仏と唱えれば全て問題なしという、驚くほど包容力のある教えが誕生した。

 信仰心が必要ないという宗教は、なかなかないものである。

 一遍上人は、全国を遊行し、踊りながら念仏を唱える踊り念仏を民衆に勧めた。

 そして、正応二年(1289年)に、この地に建っていた観音堂で没した。亡くなる前の上人は、「一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と釈迦の教えは全て南無阿弥陀仏に集約されると語り、「我がなきがらは野に捨てて、けだものなどに施せよ」と語った。

 しかし、時宗の宗徒は、一遍上人の亡骸を荼毘に付し、この地に手厚く葬った。

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一遍上人廟所

 一遍上人は、辞世の歌として、

旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ ところあるべき 

 と詠んだ。

 南無阿弥陀仏と唱えてさえいれば、いつどこで死のうが万事良しとすべきということか。底抜けに楽天的な教えである。

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石造五輪塔

 一遍上人墓所と伝えられる一遍上人廟所は、兵庫県指定史跡であり、墓石とされる石造五輪塔は、兵庫県指定文化財である。

 一遍上人の墓石と言うが、南北朝時代に造られた塔であるらしい。一遍上人の元々の墓石は、もっとささやかなものだったろう。ただの石を置いただけの方が、一遍上人らしい気がする。

 一遍上人の弟子の他阿上人真教が、一遍の墓所に寺を建て、伏見天皇から寺号勅願を得て、真光寺と称した。

 平成7年の阪神淡路大震災で石造五輪塔は倒れたが、その際塔の中から骨灰が現れたという。

 真光寺は、神戸大空襲で伽藍の全てを失った。今の本堂は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものである。

 かつて阿弥陀堂が建っていた場所には、無縁仏を集めた無縁如来塔が築かれている。

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無縁如来

 一遍上人が、この地に建っていた観音堂に住み着いたのは、健治二年(1276年)であるが、その約100年前の承安二年(1172年)に、平清盛がこの地を訪れ、厳島明神を勧請した。真野弁財天と呼ばれ、手厚く祀られた。

 その時清盛が祀った真野弁財天は、神戸大空襲で焼けてしまった。今は新たにインドから招来した弁財天を観音堂に祀っている。

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観音堂

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観音堂の内部

 観音堂には、弁財天の他に、観世音菩薩や毘沙門天が祀られている。

 境内には、清盛が訪れた時に、観音堂の住職が水を汲んでお茶をたてて献じたという清盛御膳水の井戸がある。

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清盛御前水の井戸

 真光寺には、国指定重要文化財の「紙本着色遊行縁起」10巻が伝わっている。一遍上人の弟子宗俊が撰述したもので、三井寺の僧侶行顕の詞書が記されている。

 当ブログ令和元年12月10日の「教信寺 古大内遺跡」の記事で、一遍上人の先達とも言うべき平安時代初期の僧侶・沙弥教信を紹介した。

 南無阿弥陀仏と唱えながら人のために働き、死んだら死体は鳥獣にくれてやるという生き方は、教信も一遍も同じである。

 どうすれば、こんなに明るく強靭な死生観に到達できるのか。私も知らず知らず色んなものを背負っているつもりになっているが、実は最初から何にも背負っていないのかも知れない。

 教信や一遍の生き方には、参考にすべきものがある。

医王山薬仙寺

 清盛塚・琵琶塚から南に歩き、運河にかかる橋を渡るとすぐ左手に時宗の寺院、医王山薬仙寺がある。

 薬仙寺は、天平十八年(746年)に行基菩薩が開いたと伝えられている。行基は、大輪田の湊を築いた人物である。交通の要衝大輪田の湊の傍にこの寺院を開いたのだろう。

 承元元年(1207年)に法然上人が讃岐に配流される際、当寺に立ち寄り、民衆を教化したという。当ブログでは、法然上人が讃岐に渡る際に立ち寄った寺院として、今まで高砂市十輪寺たつの市室津浄運寺を紹介した。

 兵庫も高砂室津も、古代から湊として栄えた地である。

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医王山薬仙寺

 ところで私が時宗の寺院を訪れるのは初めてである。

 時宗は、鎌倉時代後期に一遍上人智真が開いた念仏系の宗派である。伊予の豪族河野氏の子息だった一遍は、母の死をきっかけに世の無常に目覚めて出家し、全国を遊行した。

 善人悪人、信心の有無にかかわらず南無阿弥陀仏を唱えれば救われるという至ってシンプルな教えを説いて回った。

 一遍が広めた踊り念仏は、踊りながら念仏を唱えるというもので、聞くだけでちょっと楽しそうであり、素朴な庶民に受け入れやすかっただろう。

 薬仙寺は、昭和20年の神戸大空襲で伽藍が焼失した。今建つ本堂は鉄筋コンクリート製のものである。

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本堂

 本堂には、御本尊の薬師如来坐像と脇侍仏の長谷試(はせこころみ)十一面観世音立像が祀られている。

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本堂の厨子

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御本尊と脇侍仏

 薬師如来坐像は、平安時代の作で、国指定重要文化財となっている。

 脇侍仏の長谷試十一面観世音立像は、その名の通り、大和長谷寺の観世音菩薩立像の試作仏との伝承がある。弘安元年(1278年)の墨書銘があるという。

 確かに長谷寺の十一面観世音菩薩像と同じく、右手に錫杖を持っている。もし長谷寺の十一面観世音菩薩像の試作品なら、なぜこの寺に納められたのか由来が知りたいものだ。

 薬仙寺の境内には、様々な石碑や記念物が置かれている。

 先ずは、花山法皇の歌碑である。

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花山法皇歌碑

 花山法皇は、第65代天皇だったが、19歳で退位し、出家して、今の兵庫県三田市にある花山院に隠棲した。

 大輪田の湊を好んだ法皇は、たびたびこの地を訪れた。

 歌碑には、法皇が花山院に近い有馬富士を詠った、

有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風 

 の歌が刻まれている。古碑のため、字の判別が難しい。

 その隣には、詠歌踊り念仏連名の石碑が建つ。

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詠歌踊り念仏連名碑

 右が万延元年(1860年)、左が嘉永五年(1852年)に建てられた碑である。

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嘉永五年の碑

 一遍上人は、この兵庫津で没したが、そのためか兵庫津周辺は、踊り念仏が盛んであった。

 江戸時代には、福原西国霊場巡拝も盛んになり、御詠歌と踊り念仏がミックスした詠歌踊り念仏が誕生した。詠歌踊り念仏は、兵庫の娯楽的な庶民芸能となった。

 この石碑には、幕末の詠歌踊り念仏の愛好家だった兵庫津の有力町人や夫人たちの名前が刻まれている。

 その隣には、「大施餓鬼会日本最初之道場」と刻んだ石碑がある。

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大施餓鬼会日本最初之道場の碑

 日本最初の施餓鬼会が、この薬仙寺で行われたというのだろうか。

 その隣には、萱の御所跡の碑がある。

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萱の御所跡の碑

 萱の御所は、後白河法皇平清盛に幽閉された場所で、元はここから北東約100メートルの地にあった。昭和29年の新川運河拡張工事に際し、薬仙寺に石碑が移された。

 伊豆に配流されていた源頼朝と出会った文覚上人は、萱の御所に忍び込んで後白河法皇に会い、平家追討の院宣を賜ったという。

 その隣には、福原地区空襲被災者供養塔がある。戦前の福原には、大遊郭があったが、これも神戸大空襲で焼失した。遊郭で働く娼妓達も空襲で多数焼死した。それら被災者を供養する石碑である。

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福原地区空襲被災者供養塔

 その隣には、巨大な黒御影石で作られた神戸大空襲犠牲者慰霊碑がある。

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神戸大空襲犠牲者慰霊碑

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 昭和20年3月17日の神戸大空襲では、神戸市街の大半が焼失した。造船所のあった兵庫区に対する米軍の空爆は激しく、当時の神戸最大の繁華街新開地や、遊郭街福原は焼夷弾によって発生した火災で消滅した。

 この空襲による犠牲者は、約1万人だという。

 昭和50年3月16日にこの慰霊碑が完成し、その後毎年3月17日にはこの慰霊碑の前で慰霊祭が執り行われる。

 戦争の是非はどうあれ、昔大きな戦争があり、数多くの人が亡くなったことは記憶に留めおくべきであろう。

 その隣には、後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水の井戸がある。

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後醍醐天皇御薬水薬師出現湧水

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 隠岐島に流されていた後醍醐天皇が、京に還幸の途中、兵庫津の福厳寺で病床に臥した。薬仙寺住職が、この井戸に湧いた水を天皇に献上したところ、天皇の病はたちまち癒えたという。

 その隣には、石造十三重塔がある。いつの時代のものかは分からない。

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石造十三重塔

 石造十三重塔の隣には、当月17日の記事で紹介した大輪田橋の戦災・震災復旧モニュメントがある。

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大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントのプレート

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大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント

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 昭和20年3月17日の神戸大空襲で家から焼け出された市民が、大輪田橋上に避難したが、火炎旋風は橋上をも襲い、橋上に避難した市民の多くが焼死した。

 また平成7年1月17日の阪神淡路大震災では、大輪田橋の親柱が倒壊した。大輪田橋の親柱は、一時薬仙寺で保管されていた。

 神戸を襲った2つの戦災、震災を記憶に留めるため、平成10年に薬仙寺にあった大輪田橋の石材を使って、モニュメントとして残すことになった。

 モニュメントには、この2つの災害の日付が刻まれている。両方17日に発生しているが、偶然だろうか。
 人が生きていく上で、災害は避けて通ることは出来ないが、今後発生する災害での犠牲が、なるべく少なくなることを祈るばかりだ。

和田岬砲台 大輪田橋 清盛塚・琵琶塚

 今までの史跡巡りで、幕末に築かれた舞子砲台と松帆砲台を紹介したが、神戸市兵庫区和田崎町1丁目の三菱重工業神戸造船所の敷地内にも、幕末に築かれた砲台の一つである和田岬砲台がある。

 和田岬砲台を管理する三菱重工業神戸造船所は、海上自衛隊が使用する護衛艦や潜水艦を建造しており、我が国の安全保障上非常に重要な場所である。

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三菱重工業神戸造船所のビル

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三菱重工業神戸造船所入口

 軍事技術の粋である潜水艦を建造している場所だけに、セキュリティーもしっかりしており、敷地内にある和田岬砲台も、気軽に見学することはできない。

 見学には基本的に事前予約が必要だが、現在はコロナウイルスの影響で見学を中止しており、和田岬砲台を見ることは叶わなかった。

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和田岬砲台の石堡塔(三菱重工業のホームページ掲載の写真)

 和田岬砲台は、文久三年(1863年)に勝海舟らによって設計・建造され、元治元年(1864年)に完成した。 

 砲台は、石堡塔とその周囲を巡る星型の土塁で出来ていたが、今は星形の土塁はなくなっているそうだ。

 石堡塔の外郭部は、瀬戸内海塩飽諸島御影石を用いて築かれており、内部は木造二階建てになっている。

 1階には弾薬庫と砲身冷却用の井戸があり、2階と屋上には大砲を設置する砲門が造られている。

 第14代将軍徳川家茂や、一橋慶喜もここを訪れたことがあるらしい。

 実際に砲が設置されることはなかったが、幕末の同様の遺構の中で、石堡塔内部の構造物が完存しているのは和田岬砲台しかなく、貴重な幕末の遺物である。

 和田崎町を後にし、神戸市兵庫区出在家町2丁目から芦原通1丁目にかけて架けられている大輪田橋に行く。

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大輪田

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 大輪田橋は、大正13年1924年)に竣工した石造の橋である。橋の三重のアーチが美しい。あと3年で、竣工してから100年になるわけだ。

 この橋は、竣工してから2度の大きな災害に遭遇している。

 一度目は、昭和20年3月17日の神戸大空襲である。

 空襲で神戸市街は一面が火の海となり、大輪田橋上に、火炎の渦を避けるため、多くの市民が避難してきたが、その多くが火に巻き込まれて亡くなった。橋周辺だけで、一晩で500名近い人が亡くなったという。

 大輪田橋は、今でも橋の一部が黒く変色している。空襲による火災の名残と思われる。

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黒く変色した欄干

 二度目の災害は、平成7年1月17日の阪神淡路大震災である。この地震で、橋は崩落しなかったが、橋の四隅に建っていた親柱が4本とも倒れてしまった。

 倒れた親柱は、災害復旧の邪魔になるので処分されそうになったが、橋に愛着を持つ地元住民の要望で、近くの薬仙寺で保存されることになった。

 平成10年に、親柱の内の1本が、震災モニュメントとして元の場所に建てられた。

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復元された親柱

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 そして復元された親柱の横には、震災の時に倒れて真っ二つに折れた親柱が横たえられることになった。

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折れた親柱

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折れた親柱の説明板

 大輪田橋の4本の親柱の内、残り3本は欠如したままである。神戸を巨大地震が襲った記憶を残すため、橋はこれからもこのままの状態で置かれることだろう。

 神戸の史跡を巡って感じるが、阪神淡路大震災ももはや歴史の中の出来事になってしまったようだ。

 平成7年当時は、今ほどインターネットも普及しておらず、携帯電話もあまり普及していなかった。携帯電話にカメラ機能も付いていなかった。カメラもフィルムが主流で、ハイビジョンもなく、リビングではVHSが使われていた。

 平成に入っていたが、生活様式としては、あの当時はまだ戦後の昭和の延長上にあったと言っていい。       

 この震災を境に、日本の建築基準も厳しくなったのだから、確かに時代を画する災害だったと言えるかもしれない。

 大輪田橋を西に向かって歩き、橋を渡りきると、道路わきに清盛塚石造十三重塔と琵琶塚の石碑が見えてくる。

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清盛塚・琵琶塚

 今清盛塚・琵琶塚がある場所は、地名で言えば神戸市兵庫区切戸町1丁目になる。

 清盛塚石造十三重塔は、大正時代までは、今の場所から南西約11メートルの場所にあった。今片側2車線の道路が通る場所である。

 大正12年の道路拡張工事に伴い、塔を移動させることになった。

 この十三重塔は、地元では古くから平清盛の墳墓としてきたが、調査したところ、地下に人骨は埋まっていないことが分かったので、移動させたそうだ。

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清盛塚

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石造十三重塔

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 平清盛の墓石とされてきた石造十三重塔の台石には、「弘安九年(1286年)二月日」の銘が彫られている。執権北条貞時が建てたものとされている。

 思えば鎌倉幕府の実権を握った執権北条氏は、平氏の血統である。平家滅亡から百年経って、少しづつ平家一門の顕彰を行ったのだろうか。

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弘安九年二月日の銘

 清盛塚石造十三重塔は、兵庫県指定文化財となっている。その横には、昭和47年に建てられた清盛の銅像がある。神戸出身の彫刻家柳原義達の作である。

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平清盛

 出家した僧形の清盛像だ。

 清盛塚が大正時代に今の場所に移転される前、清盛塚の北西には、琵琶の形をした墳墓があったという。前方後円墳があったのだろう。

 この墳墓は琵琶塚と呼ばれ、江戸時代以降、琵琶の名手だった平経正の墓と信じられるようになった。経正は、清盛の弟経盛の長男で、一の谷の合戦で戦死したという。

 明治35年(1902年)に、地元有志が琵琶塚の近くに石碑を建てた。

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琵琶塚の石碑

 琵琶塚は、大正12年の道路拡張工事で均されてしまい、今はその形はない。清盛塚石造十三重塔とこの琵琶塚の石碑は、その際に現在地に移された。

 史跡巡りをして気づいたが、農村部よりも都市部の方が戦災や災害の被害に見舞われることが多い。それだけ、打撃を受けた寺社も多い。

 しかし、何とか史跡を残して後世に伝えようという人々の願いも強く感じる。

 史跡には、昔からの人々の願いや気持ちが入っている。

長田神社

 神戸市長田区長田町3丁目にある長田神社は、神戸市を代表する神社の一つである。

 創建は古く、神功皇后摂政元年と言われている。神功皇后の率いる艦隊が、三韓征伐の帰路に長田沖を航行中、悪天候で進み難くなった。

 その時、大国主神の子の事代主(ことしろぬし)神が、神功皇后に「我を長田に祀れ」と託宣した。

 お告げを受けた神功皇后が、長田に事代主神を祀り、長田神社を創建したとされている。

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長田神社

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長田神社鳥居

 神功皇后が実在していたとすれば、「日本書紀」の紀年は別にして、応神天皇の母親ということを考慮すると、4世紀後半の人物と思われる。長田神社はその頃からこの地に祀られていたのだろうか。

 事代主神は、記紀では天津神に国譲りをした神とされており、八神殿に祀られる皇室の守り神の一柱である。

 長田神社は、「延喜式」では名神大社に列せられ、戦前の社格制度では官幣中社であった。歴史上一貫して高い社格を誇る神社である。

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神門

 中世の長田神社の歴史はあまりよく分かっていない。

 寛文元年(1661年)に社殿が再建されたが、大正13年の火災により焼失してしまった。

 今ある本殿、幣殿、拝殿、神門等を中心とする社殿は、昭和3年に再建されたものである。

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拝殿

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 私が参拝した日は、成人の日であった。新成人とその家族が多く参拝に訪れて、境内は賑やかであった。

 長田神社の社殿は、木造銅板葺きで、柱は漆下地に丹塗りされており、非常に鮮やかな色彩の社殿である。

 神戸大空襲により、神戸市内の主要な神社はほとんど焼けてしまったが、長田神社は神戸市内の主要神社の中で唯一戦災を免れた神社である。

 平成7年の阪神淡路大震災で、長田区は火災に見舞われ、甚大な被害を受けたが、長田神社社殿は倒壊を免れた。

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拝殿

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 丹塗りの柱や梁に、青や緑に彩色された彫刻が彫られ、華麗な意匠の金色の金具が施されている。

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幣殿と本殿

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本殿

 長田神社の社殿は、国登録有形文化財に指定されている。その他、境内に複数の末社があるが、これらも国登録有形文化財となっている。

 昭和初期の神社建築の名作と見なされたのだろう。

 また、本殿を囲む塀の中に、弘安九年(1286年)の銘を持つ石灯篭がある。長田神社にあるものの中で、最も古いものである。兵庫県指定文化財である。

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弘安九年の石灯篭

 長田神社には、その他に、南北朝時代に制作された黒漆金銅装神輿がある。全面に黒漆を施し、金銅の金具で鳳凰を象っている。国指定重要文化財である。

 また南北朝時代に奉納された太刀二振りも所蔵しているという。

 これらの神宝は、宝物館に収蔵されていることだろう。

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宝物館

 長田神社本殿の北側には、楠宮稲荷社という神社がある。

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楠宮稲荷社

 稲荷社の背後に、御神木の立派な楠が生えている。瀬戸内海を泳ぐ赤鱏(あかえい)が苅藻川を遡り、この御神木に化身したとされている。

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御神木の楠

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赤鱏の絵馬

 赤鱏を断って願を掛けると、願いが叶うと信仰されている。

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楠宮稲荷社

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 エイにゆかりのある神社は珍しい。

 長田神社の境内には、神戸市指定天然記念物の、「長田神社クスノキ」が生えている。

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長田神社クスノキ

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 巨大な二つの幹が並び立って、地表付近では根が絡み合い、なかなかの偉観である。

 長田神社には、神社には珍しい追儺式が伝承されている。通常の追儺式は、立春のころに災いをなす鬼を追い払うために行われるが、長田神社の鬼は神の使いで、災いを追い払ってくれる鬼であるそうだ。

 現在の神戸市長田区は、神戸の下町として住宅が密集し、人口密度も高いが、江戸時代までの長田は、ほとんど人の住まない農村地帯だったろう。

 そのころは、長田神社の氏子の数も少なかったものと思われる。長田神社周囲は、明治以降急激に開発され、一挙に市街地の中の神社になった。

 急速な都市化や空襲、震災を経験した長田神社の神様は、今どんな感想をお持ちだろう。

 

金剛山宝満寺 源平勇士の墓

 神戸市長田区東尻池町2丁目にある金剛山宝満寺は、臨済宗の寺院である。

 寺伝によれば、大同三年(808年)に当地を訪れた弘法大師空海が開山したという。

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金剛山宝満寺

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 当初は、現在の神戸市兵庫区和田山通の辺りに寺があったとされるが、治承四年(1180年)に平清盛が福原内裏を築造する際に、現在地に移されたという。

 寿永三年(1184年)の一の谷の合戦で、伽藍の大部分が焼失したが、文永三年(1266年)に亀山天皇の勅命で、円明国師が禅寺として再建したそうだ。

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客殿

 天正七年(1579年)には、信長の武将荒木村重により寺領を没収され、伽藍は焼き討ちに遭った。寺は衰退したが、細々と存続した。

 昭和20年6月5日の米軍による空襲で、伽藍は再び焼亡する。

 この時、寺宝の木造大日如来坐像は、枯れ井戸に隠されて無事であった。

 平成7年の阪神淡路大震災でも、伽藍は損傷を受けたが、幸い火災は発生せず、大日如来坐像は無事だった。

 私が宝満寺を訪れた時、寺門は閉ざされ、境内に入ることが出来なかった。

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木造大日如来坐像

 寺宝の木造大日如来坐像は、国指定重要文化財である。現在非公開の仏像である。

 この像は、胎内の銘から、永仁四年(1296年)に大仏師法眼定運ら4名の仏師が制作したことが分かっている。

 内刳り前部を総金箔で、後部を総銀箔で覆って仕上げており、非常に珍しい像内荘厳の例なのだそうだ。

 鎌倉時代後期に造られたこの像が、南北朝争乱、戦国乱世や神戸大空襲、阪神淡路大震災を経て、よく現在まで生き残ったものだ。

 さて、ここから長田区五番町に行き、神戸村野工業高等学校のすぐ西側にある源平勇士の墓を訪れた。

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源平勇士の墓

 ここは、一の谷の合戦で敵味方となって戦った源平の武者の墓石が一緒に並んで祀られている珍しい場所である。

 ここには、平氏方の平知章平通盛と、源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六の4人の墓石が祀られている。

 平知章は、生田の森を守っていた平氏方の大将で父親の平知盛を逃すため、家臣の監物太郎頼賢と共に戦い、長田区明泉寺附近で討ち死にした。

 北城戸を守っていた平通盛は、源氏方の木村源吾重章と相討ちになった。

 また、平盛俊と戦った源氏方の猪俣小平六もこの辺りで戦死した。

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平通盛の墓石

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木村源吾と猪俣小平六の墓石

 平知章の墓石は、元々明泉寺附近にあったが、享保年間に「摂津志」の著者である並河誠所が知章を孝子として顕彰するため、西国街道に近い現在地に移したという。

 平通盛、木村源吾、猪俣小平六の墓石も、西国街道沿いに建っていたが、道路拡張工事に伴い現在地に移転され、結果敵同士が並んで祀られるようになった。

 長田区四番町の、神戸村野工業高等学校の東側の路地には、知章と共に戦った監物太郎頼賢の碑が建っている。

 近寄ると、線香のいい香りがして、墓前には綺麗な花が供えられ、近隣の住民が香華を絶やさないようにしているのがよく分かった。

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監物太郎頼賢の碑

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 平知盛が息子の知章と家臣の監物太郎の3名で渚目指して落ちのびる途中、源氏の児玉党10騎が駆け寄り、知盛に組み付いた。

 知章は、知盛を討たすまじと敵兵の一人に組み付いて討ち取り、首を取って立ち上がろうとしたが、そこを周囲の敵兵に討たれた。

 監物太郎は、知章を討った敵兵の内、一人の首を取ったが、多勢に無勢、ついに討ち取られた。

 知章と監物太郎が戦う間に、知盛は逃げ延びることができた。

 監物太郎の墓も、知章の墓と同じく、戦死した明泉寺附近にあったが、並河誠所が監物太郎の忠義を称えて顕彰するため、知章の墓と共に西国街道沿いのこの地に移したという。

 思えば一の谷の合戦の後は、生田の森から一の谷のあたりまで、死屍累々たる有様だったろう。

 神戸市は日本有数の大都市であるが、その大都市が誕生する遥か昔に、ここで一族の存亡を賭けた戦いがあったことは、記憶に留めておくべきだろう。

平忠度の腕塚・胴塚

 私が「平家物語」を読んで、最も忘れがたい逸事だと思ったのは、平家の都落ちの時、平薩摩守忠度(ただのり)が、和歌の師・藤原俊成を訪れた場面である。

 平忠度は、平清盛の弟で、文武両道を達成した武将である。武芸に秀でる一方で、風流を解し、当時朝廷第一級の歌人藤原俊成に師事して和歌をものした。

 木曽義仲勢が北陸から京に迫ると、平家一門は大慌てで京都から西に逃げ出す。

 当時、俊成は勅撰和歌集の撰者に指名されていた。勅撰和歌集は、天皇が編纂を命じた和歌集だが、勅撰和歌集に自作の和歌が選ばれるということは、歌人にとって最高の栄誉であった。

 忠度は、都落ちの途中俊成の屋敷を訪れて俊成に面会し、「生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや」と、勅撰和歌集に自作の歌を一首入れてもらいたいという思いを伝え、鎧の下から自らの詠草百首を認めた巻物一巻を取り出し、俊成に渡した。

 忠度の死後、俊成は勅撰和歌集「千載集」に、読み人知らずとして、忠度の歌、

さざ波や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな 

 を選んだ。

 志賀の都は、天智天皇が琵琶湖畔に開いた都で、壬申の乱で焼亡した。万葉のころからこの滅んだ都はよく歌われたが、忠度の歌も万葉調を思わせる古えぶりである。

 琵琶湖のさざ波が届く志賀の都は滅んで荒れてしまったが、昔ながらに、長良山(志賀の都の西にある山)に山桜が咲いている、という歌意である。

 平家の世が滅んでも、相変わらず山桜は美しく咲き続けているという意味を込めて、俊成はこの歌を選んだものと思われる。

 俊成は「千載集」に忠度の和歌を多く選びたかったが、朝敵となった忠度の名前を載せることも出来なかったので、たった一首、名を伏せて読み人知らずとしてこの歌を選んだ。

 平忠度は、一の谷の合戦で壮絶な戦死を遂げた。その忠度の腕と胴を埋めた場所に建てられた塚が、神戸市長田区にある平忠度腕塚と胴塚である。

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腕塚の案内板と道標

 忠度の腕塚は、神戸市長田区駒ヶ林4丁目の細い路地の中にある。車で入って行く事は出来ない。

 路地の入口には、案内板と道標がある。そこから路地に入って行くと、「うでづか」と刻まれた石柱がある。そこを曲がって、人一人がようやく通ることが出来る道に入る。

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「うでつか」と刻まれた石柱

 すると目の前に、腕塚堂が現れる。

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腕塚堂

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 「平家物語」第八十九句「一の谷」の最初に、忠度の最後の場面が書かれている。

 忠度は、一の谷の平家の陣の大将であったが、義経の奇策により、一の谷の山手の陣が破られ、部隊は潰走した。

 源氏の武者岡部忠澄が忠度に組み付き、両者馬から落ちる。忠度は刃を岡部に向けるが、岡部の鎧が頑丈で、刺し貫くことが出来なかった。2人は砂浜で組み合って、上へ下へとなりながら転びあう。

 そこに岡部の郎党も集まって来て加勢し、忠度の右腕を斬り落とした。

 忠度は「もはやこれまで」と悟り、「しばしのけ。十念(南無阿弥陀仏の念仏)となへて斬られん」と言って岡部を左手で押しのけ、西に向って高声に念仏を唱え始めた。

 しかし、忠度が念仏を唱え終る前に、岡部は背後から忠度の首を斬り落とす。

 岡部は、自分が討ち取った武者が、さぞ名のある者だろうと思って、遺体を見てみると、鎧の高紐に一つの文が結び付けられていた。そこには、「旅宿の花」という題で、

行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花やこよいの あるじならまし     

という歌が忠度の名とともに書かれていた。

 もし旅の途中に日が暮れてしまって、桜の木の下蔭を宿としたなら、桜の花が今宵の宿の主になるだろうな、という歌意である。

 岡部は自分が忠度を討ち取ったことを喜んだが、源氏方は武芸と歌道に秀でた忠度の死を惜しみ、嘆き悲しんだという。

 腕塚堂は、最初に斬り落とされた忠度の腕を埋めた場所とされている。腕塚堂の前には、石造十三重塔が建っている。

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十三重塔

 腕塚堂を覗くと、薩摩守忠度の位牌が安置されていた。

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忠度の位牌

 忠度没後750年の記念に、昭和8年に新調された位牌のようだ。

 腕塚堂から西に約300メートルほど行った、神戸市長田区野田町8丁目に、平忠度の胴塚がある。ここが、忠度が最後に討ち取られた場所だろう。

 忠度は、右腕を斬り落とされた後も、なお300メートル西に走ったのだろうか。

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平忠度胴塚

 胴塚の説明板に、平家一門の系図が書かれ、一の谷で討ち死にした者の名が赤字で書いてあった。

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平家一門の系図

 一門から実に10人の戦死者を出している。一の谷の合戦での敗北が、平家にとっていかに壊滅的な敗北であったかが分かる。

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忠度の墓石

 「平家物語」には、後世によく思い返される名場面があるが、忠度と俊成の別れの場面や、忠度の最後の場面はあまり注目されていない。これは惜しいことである。

 忠度の和歌を読むと、日本人の死生観と日本の風土が、歌という結び目を通じて深く絡み合っているのがよく分かる。

 人の世の移り変わりに関わらず、今年も桜は咲くのだ。