森本慶三記念館 後編

 津山森本家が経営した錦屋は、明治に入ってからも呉服商を続けていたが、明治15年に時計の販売を始めた。

 津山初の時計店森本時計店である。森本時計店が明治時代に扱っていた置時計が展示されていた。

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森本時計店が扱った置時計

 しかし明治時代には、時計は高級品で、時間を気にする人もそれほど多くなかったようで、時計商ではあまり儲からなかったそうだ。

 錦屋と森本時計店は、明治45年に廃業した。

 森本家は、歴代信仰心が篤く、津山城下の徳守神社を信仰していたが、慶三の代になってキリスト教を信仰するようになった。

 秀吉の時代から江戸時代にかけて、日本でのキリスト教の信仰は固く禁じられていた。

 記念館には、慶長四年(1599年)に太政官が出したキリスト教禁令の高札が展示されていた。

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キリスト教禁令の太政官布告を書いた高札

 慶長四年と言えば、秀吉没後とは言え、まだ徳川幕府も開府されていない頃だ。太政官の布告という朝廷の命令という形式を取っているが、この禁令に豊臣政権の意向が反映されているのは間違いないだろう。

 秀吉は、スペインがキリスト教布教を利用して世界各地を征服していることを知り、日本防衛のためキリスト教の禁教に踏み切った。

 今の時代、政府の意向や新しく制定された法律は、官報や行政機関の広報誌、マスコミによる報道で国民に伝達されるが、この時代は街角にこのような高札が建てられ、文字を読める人が政権の意向を理解し、他の人々に伝達した。

 明治時代になって、高札制度は廃止された。この高札は、錦屋が明治以降に商売の過程で入手したものだろう。

 明治に入ってしばらくすると、信教の自由が認められ、キリスト教を信仰できるようになった。錦屋の跡取りだった森本慶三は、内村鑑三の弟子となり、キリスト教を信仰するようになる。

 森本慶三記念館には、教会の講壇のようなスペースがある。

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教会の講壇

 豊臣、徳川政権のキリスト教禁止の決断は、後の日本の運命に大きな影響を与えたと言える。

 もし近世にキリスト教が日本に大いに広まり、庶民だけでなく権力者までもキリスト教徒になっていたら、それまで信仰されていた神社仏閣は、異端信仰の象徴として破壊されていたかもしれない。それは極端かもしれないが、この国が今我々が知っている日本とは大きく異なる国になっていた可能性はある。

 さて、森本慶三記念館で最も興味深い展示だったのは、津山森本家の祖森本宗右衛門の兄・森本儀太夫の子だった森本右近太夫が、寛永九年(1632年)にカンボジアアンコールワットを訪れて書いた落書きの関連資料である。

 森本右近太夫は、寛永九年にアンコールワットを訪れ、ここに仏像四体を奉納し、父儀太夫と母の菩提を弔った。

 その際、その意志を残すため、アンコールワットの壁に墨書をしたらしい。

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アンコールワットに残る森本右近太夫の墨書の位置

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森本右近太夫の墨書

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森本右近太夫の墨書の内容

 寛永九年は、徳川幕府による鎖国の前で、当時のカンボジアには、日本人町が出来ていた。

 日本人町に住んだり、訪れた日本人の間では、アンコールワットが、釈迦が成道した祇園精舎だという誤った情報が広まっていた。

 当時の日本人町に来た右近太夫は、祇園精舎に仏像を奉納して、両親の供養をしようと思ったようだ。

 中央公論社「日本の歴史」第14巻「鎖国」に、昭和初期に著者岩井成一と歴史学者黒板勝美アンコールワットを訪れ、右近太夫の墨書を何とか判読した話が書かれている。

 アンコールワットはいつしかジャングルの中に埋もれ、1861年にここを訪れたフランス人博物学者アンリー・ムーオーが「発見」するまで、誰も訪れなくなっていた。

 右近太夫の墨書もその間誰にも読まれることなく埋もれていたようだ。

 右近太夫にとって、アンコールワットを訪れたことは、大変な自慢だったようで、日本に戻って松浦藩に仕えるようになってからも、たびたびその話をしたそうだ。

 右近太夫の墨書に、現代のブログ記事と共通するものがあるようで、面白い。

森本慶三記念館 前編

 津山城跡の北側、三枚橋の西詰に、幕末の津山藩の洋学者・宇田川興斎の旧宅跡がある。今は三角形の雑草が生い茂る空き地に説明板が立つのみである。

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宇田川興斎旧宅跡

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説明板

 今年7月30日の当ブログ記事「津山洋学」で紹介したように、津山藩は洋学が盛んな藩だった。津山洋学の中心人物は、宇田川玄随・玄真・榕菴の宇田川家三代だが、興斎は天保十四年(1843年)に榕菴の養子になった人物である。

 興斎は、江戸の津山藩邸で藩医を務める一方、幕府天文台にも出仕し、外交文書等を翻訳し、幕府と外国との交渉を側面から支えた。

 ここは、興斎が江戸から津山に転居した時に住んだ屋敷跡である。

 さて、津山城跡の南側には、3つの資料館が並ぶが、今日はその中で森本慶三記念館を紹介する。記念館は、津山市山下にある。

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森本慶三記念館

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 森本慶三は、江戸時代に津山城下で呉服商として財を成した錦屋森本家の後裔で、明治時代に内村鑑三の弟子となり、キリスト教の伝道に力を入れた人物である。

 この建物は、布教のためのキリスト教関連書籍の図書館として、大正15年に設立された。かつては津山基督教図書館と呼ばれていた。木造三階建てで、南側にはイオニア式壁付柱を持ち、東側には時計の付いた塔屋がある。

 設計者は弘前出身の桜庭駒五郎で、現在は国登録有形文化財となっている。

 今は、図書館としては運営されておらず、2階を歴史民俗館として、津山藩や森本家と森本慶三に関する資料を展示している。

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2階への階段

 2階へ上ると、廊下に津山城天守の屋根に載っていた鬼瓦が展示してあった。かつて津山城下で最も高い位置にあった物である。

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津山城天守の鬼瓦

 また、歴史民俗館に入ってすぐ右手には、津山城の絵図があった。こういう絵図を手にしながら城巡りをすると、より楽しめるだろう。

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津山城の絵図

 絵図の隣に、元寇の際の蒙古兵と戦う武士の木彫り像が展示してあった。

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蒙古兵と戦う日本武士

 この木彫り像は、元寇の際に敵国調伏を祈願して造られ、美作国真庭郡の神社に奉納されたものだが、その神社が天保時代に取り壊された後は、民家が所有していたものである。

 欅の一本彫りだが、躍動感がある像で、鮮やかな彩色が残っており、鎌倉時代後期の作品とは思えない見事さだ。

 津山森本家の祖は、多田源氏の血を引く摂津国池田の武将森本儀太夫の弟森本宗右衛門である。

 儀太夫は、加藤清正に仕えた武将である。その弟惣兵衛、宗右衛門の2人は、武士をやめて播磨国千種に移住し、商人を始めた。

 2人はその後美作国林野に移住するが、森忠政津山藩主となった時、宗右衛門は津山に移り住んだ。

 宗右衛門は、三郎兵衛と改名し、錦屋の屋号で呉服商を始めた。

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錦屋の店先の再現

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錦屋の商い用具

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明治22年の錦屋店頭の木版画

 森本家は歴代の当主が商才を発揮し、津山の豪商となった。道路建設や新田開発も行い、津山藩の御用商人となった。幕末には藩の札元役になり、7700両もの金を藩に献納した。
 一方で農民への寛大な融資や、貧民への施しも行い、幕末・維新期に発生した一揆・騒擾の際も被害に遭うことはなかった。
 上の写真の明治22年の錦屋店頭の木版画には、森本藤吉の名があるが、藤吉は慶三の父である。

 錦屋は、財政難に苦しむ津山藩にもたびたび金を貸したものと見える。津山藩から下賜されたと思われる品物が多数展示してある。

 津山藩森家は、元禄十年(1697年)に津山を除封となり、浅野家が断絶した後の赤穂に入り、幕末まで赤穂藩主として存続した。

 森家の後に津山に入ったのは、徳川家康の二男結城秀康の三代後となる松平宣富である。幕末まで、松平家津山藩主となる。

 記念館に、二代将軍秀忠の三女勝姫が、結城秀康の長男松平忠直に嫁いだ時に持参した文箱があった。 

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勝姫持参の文箱

 鶴と葵の紋の蒔絵が美しい。

 この文箱がどういった経緯で錦屋の所有になったかは不明である。

 また、松平家家老の佐久間家から錦屋が拝領した、元の時代の書家趙子昴による赤壁賦の書が展示してあった。 

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趙子昴の書「赤壁賦」

 見事な運筆だと思う。

 江戸時代には、日本中の各藩が財政難に苦しんだ。藩は、財力の有る御用商人に頼ることになり、商人が力を付けることになった。 

 日本の各地にこのような商家があって、貴重な文化財を今に伝えていることも少なくない。

 森本家は大正に入る前に錦屋を廃業する。財力がある家もいずれは無くなる。後に残るのは、富裕な家が集めた見事な工芸品や芸術品、建てた建物などである。人を唸らせる作品には不滅の価値がある。

津山城跡 後編

 表鉄門の跡を通過し、津山城跡の本丸跡に入る。広々とした空間が広がる。

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本丸の空間

 かつてこの本丸跡には、広壮な本丸御殿が建っていた。

 本丸から、今まで登って来た城の石垣群を見下ろす。

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眼下の石垣群

 さて、本丸の南西隅に、平成17年に再建された備中櫓が建っている。備中櫓の内部は普段から公開されている。

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備中櫓

 備中櫓は、森忠政の娘婿である鳥取藩主池田備中守長幸が津山城を訪れた際に完成したとされている。池田備中守長幸にちなんで、備中櫓と命名されたようだ。備中櫓跡から、池田家の家紋の揚羽蝶紋の瓦が出土しているのを見ても、池田家とゆかりの深い建物であることが分る。

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備中櫓の内部

 備中櫓の内部は、御座の間や茶室があり、完全な御殿建築である。戦う城の一郭でありながら、優美な女性的な建物である。

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御座の間

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茶室

 備中櫓は2階建てである。2階に上る階段の上端に、板をスライドさせて2階への出入り口を塞ぐ仕掛けが再現してあった。

 いざという時のための備えも忘れていなかったようだ。

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2階への階段の上端

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板をスライドさせる仕掛け

 2階に上ると、畳が一段高くなった御上段の間がある。

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御上段の間

 高貴な人が座るのに相応しい場所だ。

 備中櫓の北側の五番門の跡の西側には、太鼓塀という土塀が再建されている。

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五番門跡と太鼓塀

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太鼓塀と備中櫓

 このように平成になって少しだけ津山城の城郭の一部が再建された。少しづつでいいから再建を続けてほしいものだ。

 さて、かつて津山城の五層の天守が建っていた天守台に近づく。

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天守台(東から撮影)

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天守台(南西から撮影)

 天守台の説明板には、かつての天守をCGで復元した図が掲載されていた。

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天守のCG

 天守の高さは、石垣を除けば、約22メートルあったという。この天守が木造で復元されたら、津山どころか美作を象徴する建物となるだろう。

 天守台は、内部が空洞になっている。石垣に囲まれた地階があったのだろう。

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上空から見た天守

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天守台への登り口

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天守台の地階跡

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天守台上から地階を見下ろす

 私が津山城跡を訪れたのは、8月30日で、酷暑の日であった。熱風の中を歩くかのような過酷な登城であった。ところが、本丸に上ったころから、北方の空が一転してかき曇り、雷鳴が鳴り響いた。
 天守台から北を望めば、黒雲から白い雨足が下界に下りているのが分かる。

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天守台から北方を望む

 雷鳴とともに涼しい北風が吹いて来た。私が被っていた麦わら帽子が吹き飛ばされそうになる。雨が来るなと思ったので、少し急いで城を降りた。
 天守台から南を望めば、森忠政が築いた城下町のあった辺りである。

 森忠政は、吉井川左岸に堤防を築くことで、元々吉井川の氾濫地だった城南地域の水害を治め、城下町を整備していった。

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天守台から南を望む

 さて、天守台を降りて、駐車場に戻り、スイフトスポーツに乗って城の北側に回る。城の北側には、栗積櫓のあった石垣がある。

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栗積櫓跡

 ここ最近、城の再建があちこちで検討されている。観光資源という意味では城郭を再建した方がいいかも知れない。

 しかし、石垣だけが残っている風景も、想像をかきたててくれるので好いものだ。城の石垣が、なぜこんなに人を静かな気持ちにさせるのか、思えば不思議なものだ。

津山城跡 中編

 熱風が吹く中、津山城跡を散策する。

 かつて表中門があった辺りは、広い石段を北東西の三方向から石垣が囲んでいる。

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表中門跡

 広い石段の左手にある石垣が、これまた見事な穴太積である。

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穴太積の石垣

 不揃いな形の石垣の組合せが、隙間のない緊密な石垣よりも見事だと感じる。不思議なものだ。

 広い石段から右手に登っていく石段がある。登ってみると、忠魂碑があった。

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右手に上る石段

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美作忠魂碑

 美作一市五郡から出征して戦死した戦没者の霊を祭る碑である。頭を下げる。

 忠魂碑のある場所から振り返ると、復元された備中櫓がよく見える。

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備中櫓

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 視野に入る桜の木に花が咲いている所を想像すると、春はさぞ美しかろうと思われる。

 さて、広い石段に戻り、登っていく。登ってみて気づいたが、普通の歩度で歩くと非常に登りにくい。

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登りにくい石段

 一足に一段づつ登ることが出来ない高さと幅に設計されている。急いで登ると躓きそうになる。これも防御のための設計だろう。

 石段の突き当りを左に曲がり、更に登ると、かつて四足門があった場所に出る。

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四足門への石段

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四足門が建っていた場所

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四足門の説明板

 四足門は、二の丸の入口にある門で、津山城の破却が決まってから、明治7年に美作国一宮の中山神社の神門として移築された。

 中山神社の神門は、津山城の建物の中で、数少ない現存する建物である。

 四足門を潜り、ようやく二の丸に入ったわけだ。頭上には備中櫓が見える。

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二の丸から見上げる備中櫓

 ここから更に本丸を目指す。目の前に切手門の跡が見えて来た。

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切手門跡

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切手門の復元CG

 切手門の復元CGと現実の切手門跡を比べて見ると、なるほどかつての門を想像する事が出来る。

 切手門を過ぎて見返ると、本丸の石垣が結構高く聳え、傾斜もあることが分る。

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本丸の石垣

 更に進んで、表鉄門があった場所に来る。

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表鉄門の跡

 表鉄門は、本丸の入口に当る門で、全面を鉄板で覆われた堅固な門だった。文化六年(1809年)の火災により、本丸御殿と表鉄門、裏鉄門は焼失してしまった。この先は本丸である。

 最近土塁や堀切を巡らした、土づくりの城が静かな人気を呼んでいるという。

 津山城のように、豪壮な石垣を巡らした城は、まだ城としての分かりやすさがある。歩いていても、気軽に楽しめる。

 津山城は、元和偃武の後に完成した城だ。一度も戦うことなく破却された城である。戦うために築かれた石垣が、平和な世にひっそりと残っている景色に、何だか寂寥を感じる。

津山城跡 前編

 JR津山駅前には、今年7月30日の当ブログ「津山洋学」の記事で紹介した、津山藩を代表する幕末の洋学者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)の銅像がある。

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箕作阮甫

 大体駅前に設置される銅像は、その地域が最も誇りとする人物や、その地域を象徴するものの像である。津山にとっては、箕作阮甫が郷土の誇りとすべき人物のようだ。

 津山駅前から北に歩くと、吉井川に架かる今津屋橋がある。その橋の北詰の船頭町、河原町は、かつては高瀬舟が泊まり、殷賑を極めた町である。

 今は、船頭町のビルの挟間に津山城跡の石垣が見える。

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今津屋橋と船頭町、河原町

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津山城跡の石垣

 津山城は、森蘭丸の弟・森忠政が、慶長八年(1603年)に美作国18万6500石を受封した後、翌年から元和二年(1616年)まで12年かけて築城した平山城である。

 五層四庇の天守を始め、華麗な城郭建築を誇ったが、明治6年(1873年)の廃城令に基づき、明治8年に破却された。今は城の石垣と再現された備中櫓があるのみである。

 津山の百貨店である天満屋の屋上から、津山城跡の石垣の全貌を望むことが出来る。

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津山城

 津山城跡の石垣の美を味わうことが出来るのは、城の南東にある宮川大橋からの眺めである。

 小高い丘の上に幾重にも築かれた石垣の姿をよく見ることが出来る。

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宮川大橋から見上げた津山城

 津山城跡には南側の石段を上がり、城跡に入っていくルートが一般的である。

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津山城跡への石段

 石段を突きあたると、目の前に大きな石垣の壁が立ち塞がる。

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史跡津山城跡の石碑

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津山城跡の石垣

 津山城跡の石垣は、近江国穴太(あのう)衆が築いたものである。穴太積は、穴太衆が築いた野面積みの石垣のことで、大きな石の隙間に小さな石を入れて埋めているが、ある程度隙間を残している。緊密に石を組むより、この方が耐久力があるのだろう。

 それにしても、大きい石の隙間を埋める小さな石の嵌り具合は絶妙である。

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穴太積の石垣

 よくもこんなに不揃いな形の石を互い違いに埋め込んで構築したものだ。

 石垣の前に、初代津山藩森忠政の像が置かれている。

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森忠政

 なかなか恰幅の好い、豪放な性格を思わせる像だ。

 森忠政公の像を過ぎると、城跡への入口の表門出入口がある。

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表門出入口

 津山城跡は、明治33年に津山町有となり、鶴山(かくざん)公園として一般公開されるようになった。その後、城跡には桜が多く植えられ、全国有数の桜の名所になった。桜の季節の鶴山公園は非常に美しい。

 津山城が建築された頃は、日本の城郭建築が最盛期を迎えたころであった。津山城の縄張りは巧妙で、攻守両面において優れており、近世平山城の典型例であるという。

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津山城跡の見取図

 入口から天守までは、石垣に左右を囲まれた、幾重にも折れ曲がった道を行かなければならない。

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石垣群

 表門出入口正面の石段を上がったところにあるのが、鶴山館である。

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鶴山館

 この鶴山館は、元々は修道館という名で、明治4年に建てられた津山藩の学問所で、廃藩置県まで藩士の教育の場であった。

 修道館は、今の鶴山公園よりも南にあった京橋門の近くに建てられ、廃藩置県後は様々な学校の校舎として利用されたが、明治37年にこの場所に移築され、その際に鶴山館と名付けられた。

 内部には、津山城に関する写真や説明板などを展示している。

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鶴山館内部

 明治8年の廃城直前に撮影された津山城の写真が展示してあった。

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明治初年の津山城

 この城郭が現存していたらと惜しまれてならない。

 鶴山館の前からは、復元された備中櫓を望むことが出来る。江戸時代には、備中櫓の向うには、天守が聳えているのが見えた筈だ。

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備中櫓を望む

 鶴山館から備中櫓を目指して歩き始める。この日は猛烈な暑さで、恐らく気温は37℃には達していたことだろう。熱風の中を歩くようだ。

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備中櫓を目指して歩く

 途中、石垣から下を見ると、表門出入口からの道が石垣に囲まれ、コの字型になっているのが見えた。

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コの字型の道

 このように、コの字型の道を歩む敵を頭上から弓矢や鉄砲で攻撃することを想像すると、この城を攻略するのは一苦労だなと思う。

 津山城跡に、かつての天守や各櫓、土塀が残っていれば良かったとも思うが、石垣だけが残る今の津山城跡の姿も、寂びた風情を出していて、なかなかいいものだ。

津山まなびの鉄道館 後編

 扇形機関車庫の中の一室が、「まちなみルーム」という名のジオラマ展示室になっている。

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ジオラマ展示室入口

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津山駅付近のジオラマ

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 扇形機関車庫や津山駅だけでなく、津山城址もジオラマで再現されている。子供のころには、こういうジオラマを見るとわくわくしたものだが、大人になるにつれそんな気持ちが無くなってくる。不思議なものだ。

 かつて扇形機関車庫の事務所として使用されていたと思われる建物には、鉄道の歴史をパネル表示した「あゆみルーム」と切符売り場の内部等を展示した「しくみルーム」の2つの展示スペースがある。

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あゆみルーム、しくみルーム展示館

 まず「あゆみルーム」で鉄道の歴史を振り返る。

 日本で初めて鉄道が開通したのは、明治5年(1872年)10月14日で、新橋ー横浜間の29キロメートルを53分で結んだ。

 明治21年1888年)には、神戸ー姫路間が開通し、翌22年(1889年)に新橋ー神戸間が全線開通した。

 明治24年(1891年)には、神戸ー岡山間が開通し、同年中まで山陽本線尾道まで延びた。

 津山駅が設置されたのは、作備線が運航開始となった大正12年(1923年)である。

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昭和初期の津山駅

昭和11年(1936年)には、津山駅に扇形機関車庫が設置された。

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建築当時の扇形機関車庫

 しくみルームに入ると、昔の駅の切符売り場を再現した展示があった。

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昔の切符売り場の再現

 切符売り場の中には、販売する切符を収納した六角式チケット箱、乗車券収納箱が置いてあった。 

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六角式チケット箱、乗車券収納箱

 自動券売機がない時代には、客から行先を聞いて、この箱から該当する切符を取り出して販売していたことだろう。

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昔の特急券

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切符鋏

 昔の特急券や切符鋏も展示されていた。私が小学生のころには、まだこのような手書きの特急券があったような気がする。

 切符鋏も懐かしいものだ。改札の駅員さんが、手慣れた様子で客から受け取った切符に鋏を入れていたものだ。平成生れの世代が物心ついた時には、既にこのようなものは無かっただろうから、こんなものを見ても懐かしいという感覚すら抱かないだろう。

 将来鉄道運賃もデジタル決済されるような時代になれば、切符というものすら無くなるかも知れない。
 昨日紹介したDD51型ディーゼル機関車の断面模型も展示されていた。

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DD51型ディーゼル機関車の断面模型

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DD51型ディーゼル機関車の断面図

 DD51は、61,000CCのインタークーラー付きV12エンジン2基を動力源としていた。この機関から発生した2200馬力の出力を液体変速機で車輪に伝えていた。

 実際に稼働するDD51のエンジン音を聴いてみたいものだ。まあ巨大なバスのような音だろうが。

 津山まなびの鉄道館の土産物販売スペースの脇にも、昔の時刻表などが展示されていた。

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明治23年の時刻表

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 明治23年の時刻表は、時間表示が漢数字であった。

 津山まなびの鉄道館の敷地から、津山駅のホームを眺めることが出来た。

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津山駅ホーム

 津山駅は、姫新線(姫路ー新見間)、因美線(津山ー鳥取間)、津山線(岡山ー津山間)の3つの路線のターミナルとなる駅である。津山駅は、まさに美作の交通網の中心である。

 津山駅前には、昭和10年から生産され、昭和51年の廃車まで使われたC11型80号蒸気機関車が展示されている。

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C11型80号蒸気機関車

 この蒸気機関車は、ローカル線の短区間の旅客列車牽引用として開発され、岡山県では津山線で使用された。

 昭和46年3月の津山線ディーゼル化まで、この車両が津山線で客車を曳いていたのである。

 蒸気はつい最近まで動力源として使われていたのだ。

 鉄道は、19世紀に誕生し、20世紀に世界中に広がった。私も毎日通勤に鉄道を使っている。

 自動車もそうだが、鉄道は我々の生活に無くてはならないものだ。世の中の仕事は、どれも人が生活するのを支えている大事なものだが、今回は日々鉄道の運行に従事している人達に敬意を表したい。

津山まなびの鉄道館 前編

 美作に鉄道が敷設されたのは、明治31年の中国鉄津山線(現JR津山線)の岡山津山間が開通したことに始まる。

 美作地域には、古い鉄道駅舎など、鉄道遺産が数多く残っている。

 岡山県津山市大谷にある、津山まなびの鉄道館は、国内では京都の梅小路機関車庫に次ぐ規模の機関車庫である旧津山扇形機関車庫と転車台を中心とした資料館である。

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津山まなびの鉄道館

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 旧津山扇形機関車庫は、昭和11年国鉄姫新線の全線開通にともなって、国鉄津山駅の西側に設置された。

 機関車を収納する庫を17線有し、収納された機関車を修繕するための設備や技工長室、道具置き場が設置されていた。

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旧津山扇形機関車庫

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 旧津山扇形機関車庫には、今は蒸気機関車だけでなく、現役を退いたディーゼル車などが多数収納され、展示されている。
 機関車庫の前にある転車台は、機関車の方向転換や、機関車庫への車両の収納のために使用されたもので、昭和5年に姫新線の前身である作備線が開通した時に設置された。

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転車台

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 転車台の東側には、JR姫新線津山駅の線路と車両が見えており、現役で使用されていたころの雰囲気を味わうことができる。
 旧津山扇形機関車庫と転車台は、既に現役としての役割を終え、JR西日本により、平成28年から鉄道記念物として展示公開されるようになった。

 転車台の前には、蒸気機関車C57型で使用されていた68号動輪が展示されている。

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蒸気機関車C57型68号動輪

 この動輪は、直径1.75メートル、重量3480キログラムで、国内で使用された動輪としては最大である。

 それでは、扇形機関車庫に収納された機関車を見ていく。

 デゴイチの愛称で知られるD51型蒸気機関車は、日本を代表する貨物用機関車で、機関車としては日本最多の1115両が生産された。

 単一の鉄道車両の生産記録としては、未だに破られていない。

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D51型蒸気機関車

 昭和の中頃まで、この車両が主力として活躍していたとは夢の様な話だ。驚くのは、こんな蒸気機関車でも、1280馬力の出力を誇っていたことである。蒸気の力も馬鹿には出来ない。

 さて、次なる車両は日本の鉄道史上最強の出力を誇るDD51型ディーゼル機関車である。

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DD51型ディーゼル機関車

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 DD51は、昭和37年から昭和53年にかけて生産された車両である。運転席の前後にそれぞれ1100馬力のディーゼルエンジンを搭載し、2基合わせて2200馬力という出力を誇る。 

 DD51のことを、昔貨物車を牽引していた古臭い機関車として記憶している方も多いと思われるが、この機関車は東日本大震災の被災地復興に大活躍した。

 DD51は、東日本大震災が発生した平成23年には、老朽化が進んでおり、続々と廃車にされて、新型車両に切り替えられていた。

 東日本大震災により、東北地方の大動脈である東北本線が寸断された。被災地復興のため、瓦礫を撤去する重機や生活に必要な車両等の燃料となる石油を東北地方に運ぶ必要があったが、東北本線が使用できないため、比較的早く復旧した磐越西線が迂回ルートとして使用されることとなった。

 しかし新潟県福島県を結ぶ磐越西線は、標高の高い東北山脈内を縫うように敷設された勾配のきつい線路が続く、相当な難路であった。

 重い石油を満載した車両を牽引して磐越西線を越えられるパワーのある車両は、引退しつつあったDD51しかなかった。しかもDD51は、2両を連結して1両の運転席から2両を同時に操作することが出来た。2両連結で4,400馬力の大パワーを発揮できる。

 石油運搬車両として、全国から余ったDD51が東北地方にかき集められた。

 このDD51が、峻険たる磐越西線を越えて石油を東北地方に運んだおかげで、東北地方の被災者の生活は維持され、復興を進めることが出来た。

 私は鉄道車両にあまり興味を持っていなかったが、このエピソードを知って、DD51が好きになった。

 DD51は、1両に2基のエンジンを積んでいるが、DE50型ディーゼル機関車は、1基で2,000馬力という、単体エンジンとしては最強のエンジンを搭載していた。

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DE50型ディーゼル機関車

 DE50は、昭和45年に生産された。日本の鉄道が急速に電化されていた時代で、投入される予定の路線が電化されたので、量産されることなく、1両だけ生産された。

 ということは、ここに展示されているDE50は、日本唯一のDE50ということになる。

 キハ181気動車は、どこか懐かしい車両である。キハ181は、非電化急勾配路線で特急車両を牽引するために開発された。

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キハ181気動車

 キハ181は、平成23年に廃車となったが、晩年はJR播但線、山陰線で特急はまかぜとして使用されていた。

 道理で懐かしい筈だ。私も昔JR姫路駅に止まるキハ181の「はまかぜ」を見かけていた筈だから。

 扇形機関車庫の裏には、除雪車と思われる車両が展示してあった。

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除雪車

 昔テレビで見ていた「鉄人28号」を彷彿とさせる車両だ。

 何にしろ、人のために働く乗り物というものは格好いいものだ。特に男の子はエンジンを積んだ乗り物が好きだが、美作の鉄道は電化されていないので、ディーゼルエンジンを積んだ車両が主力で働く機関車王国だった。

 私は鉄道マニアではないが、これはこれで巨大エンジンのロマンを感じることが出来て面白い。